MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

La Valse ② ふたりでワルツを

2009-04-21 00:20:31 | その他の音楽記事

04/21     La Valse ② ふたりでワルツを




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     ラ・ヴァルス

   ① みんなでワルツを
   ② ふたりでワルツを
   ③ ひとりでワルツを
   ④ みんなにめまいを
   ⑤ なかまとワルツを
   ⑥ ワルツといったら
   ⑦ わたしのめまいを





 1909年5月、パリを訪れたディアギレフは、ラヴェルと初めて
対面します。

 ディアギレフ37歳、ラヴェル34歳のときのことで、2年前には
すでにバレェ曲の作曲を打診していました。



 その1907年には、パリ・オペラ座で初めてロシア音楽祭が開催
され、グリンカ、バラーキレフ、ムーソルクスキィ、リームスキイ=
コールサコフ、グラズーノフ、ラフマーニノフ、スクリャービンの作品
が取り上げられていました。 (ャ)ィコーフスキィの名が見当たらないのは、
改めて取り上げる必要も無いほど知られていたからでしょう。


 翌1908年、今度は人間に加えて大がかりな舞台装置まで移動
され、ムーソルクスキィの歌劇、『バリース・ガドゥノーフ』の
引っ越し公演が行われていました。 この歌劇の斬新な和声進行には
20年以上前に、あのドビュッシーがすでに驚嘆していたほどです。


 翌1909年には、グリンカの『ルスラーンとリュドミーラ』も上演
されたのですが、パリの人々が熱狂的に迎えたのはロシア・
バレェ団
の初公演の方でした。

 やがて翌年以後には、ストラヴィンスキィの『火の鳥』、さらには
ペトルーシュカ』が初演されることになります。



 ロシア音楽は、すでにパリの音楽界を毎年賑わせて話題の
中心となっており、ラヴェルが作曲を委嘱されたのは、ちょうど
この頃のことでした。




 依頼を受けた曲の中に、ワルツがありました。 かねてから
(ウィンナ) ワルツを愛していたラヴェルが、これを引き受けたのは
言うまでもありません。

 しかし、このラ・ヴァルスとディアギレフとの関連が、あまり
話題にならないのは、なぜなのでしょうか。




 この初対面の際に、やはり委嘱されたのが、『ダフニスとクロエ
でした。

 古代ギリシャの流れを汲むこの題材に、ラヴェルはかねてから
興味を持っており、独自にピアノ曲を計画していたほどです。
そして、全体で1時間弱を要するこの舞台作品は、12分で終わる
"ワルツ" より先に完成、上演されました (1912年)。



 しかしディアギレフは、初演以後、作曲者に無断で合唱の
パートを割愛して、この『ダフニスとクロエ』を演奏したことが
あったと言われます。

 ラヴェルが落胆したことは言うまでもありません。 作曲者は
この曲を交響曲と考えていたぐらいですから。




 さらに不幸だったのは、作曲途上のこの "ワルツ" が、自分
の期待したものとは違うものになりそうだと、ディアギレフ本人
が察知し、舞台には乗せなかったことです。



 「こんなワルツでは振付が出来ない。」

 「それならいい。」



 こんなやり取りが両者の間にあったのでしょうか。 『舞踊詩』
と名付けられた、この "ラ・ヴァルス"、管弦楽曲としては1920年
12月にパリで初演されたものの、バレェ音楽として初演されたの
は、1929年5月になってからのことでした。 それはディアギレフ
が、やはり同年に没する (8/19) 直前になります。



 この作品、作曲者の意識の中では、単なる "機会音楽" として
の地位に甘んじさせるには、余りにも "上を行く" ものだったから
かもしれません。




 『ラ・ヴァルス』の作曲の動機は、元々、ワルツ王ヨーハン・
シュトラウスに抱いた敬意の念だったと言われています。

 なるほど、ラヴェルの記した「1855年頃の宮廷」がウィーン
だとすれば、それはこのシュトラウスⅡ世が絶頂期を迎え
ようとする時期です。



 一方、当時のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフⅠ世は、
公私ともども、この後で大変な苦難に曝されます。

 普墺戦争の敗北と、オーストリア・ハンガリー帝国への移行、
メキシコ皇帝となった弟の逮捕と銃殺、長男の心中 (または
暗殺)
、妻の暗殺…。 そして、皇位継承者に選んだ甥夫妻が
セルビアで暗殺され、やがて第1次大戦につながってしまう
のです。



 「"ラ・ヴァルス" の後半部分には、
この重苦しい歴史と、大戦後の焦燥感が表われている」
というのが、一般的な考えです。




 私もそうかもしれないとは思います。 しかし同時にまた、
"それだけだ" とも思えないのです。



 『ダフニスとクロエ』が交響曲だとすれば、こちらは交響詩
ウィーン』と名付けられる可能性もあったと聞きます。 もし
そうなっていれば、上に記した歴史の経緯や内容を描くには、
題名としては最適ではないでしょうか。

 しかしラヴェルは、舞踊詩『ラ・ヴァルス』とだけ記しています。
またそこには、"交響" の文字も見られません。

 "オーケストラの魔術師"、"スイスの時計職人" の行動は、
常人には不可解としか見えません。




 そのためかどうかは分かりませんが、彼はこの曲を、作曲・
初演と同じ年 (1920年) のうちに、2台のピアノ用に編曲して
います。




 音源



 下記の音源では、番号の若い、上のものはテンポが速く、
下に行くに連れて遅めになります。



 また、ご覧の数字 (分・秒) は、作曲者が記した

] ダンス会場、舞踊る人々、

] シャンデリアのまばゆい光

の、音源中での場所です。




① Twin sisters play La Valse for two pianos by Ravel

  (1)  A: 1'10"、  B: 2'17"

  (2)




② N. Freire u.M. Argerich live 1982

  (1)  A: 1'13"、  B: 2'23"

  (2)




③ Martha Argerich & Nelson Freire play
     Ravel's La Valse Paris, 1983


  (1)  A: 1'20"、  B: 2'35"

  (2)




④ anotheraznpianokid

  (1)  A: 1'45"、  B: 2'57"

  (2)




⑤ 田部京子、小川典子

  (1)  A: 1'17"、  B: 2'30"

  (2)




Grace Nikae and Brandt Fredriksen (前半の一部分)

      A: 0'16"、  B: 1'31"




Ravel, La Valse 連弾(一台のピアノ) (部分)

   最後の 1'38" 間




Heifetz remembered- Ravel La Valse (excerpt)- Pokhanovski

   [B]の後から最後まで 9'31" 間




 今回の音源は、管弦楽曲をピアノ用に編曲したものが
ほとんどでした。



 その逆に、元来ピアノ曲だったものを管弦楽用に編曲した
場合も、この作曲家にはあります。 優雅で感傷的なワルツ
がその例です。

 それでは、この二つの方向には、何か差があるのでしょうか。




 また彼にはこれらのほかにも、同じ曲を様々な形に編曲して
いる例が見られます。

 ピアノ関係の方はよくご存じだと思いますが、実はこの
"ラ・ヴァルス"、ピアノ独奏用の編曲も彼は残しています。

      曲の最後では、オーケストラ版の9小節が、
      ピアノ版ではともに11小節に延長されています。





 オーケストレーションの反対の、リダクション (reduction)、
その真意は一体何でしょうか。

 「様々な編曲を残せば、演奏される機会も増えるし、
楽譜も売れるさ。」

 そのとおりです。 でもひょっとして彼には、何か、
ほかに隠れた言い分があるのではないでしょうか?




 もう一つ、舞踊詩『ラ・ヴァルス』の "ラ" は、一体
何なのでしょうか。

 「定冠詞ですよ、フランス語の。」

 それはもちろん分っているのですが…。



 私の頭の中には次から次へと謎が増え続け、
収拾がつきません。




 (続く)