おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

日本現代医学史上の画期ー和田寿郎教授の死

2011年02月16日 08時29分11秒 | 日記
今朝、いつものように5時半頃からベッドの中で読みかけの本を読んだ。
加賀乙彦著「生きている心臓」(講談社)の上巻を読上げた。主人公天木教授が事故にあって「脳死」状態になる。妻は本人の生前の意思=リビングウィルに従って、心臓移植を決意、夫の勤めていた病院で移植手術を受けることになる。

この中で、心臓移植が日本の医学史上で2例目の手術になると書かれている。
その1例目が1968年札幌医科大学で和田寿郎によって行われた心臓移植である。この手術には疑問があった。脳死判定が的確であったのかーレシピエントの青年が本当に心臓移植を受けなければ生存ができないという状況にあったのかー?
和田は大阪の漢方医から殺人罪と業務上過失致死罪に問われ裁判になった。そして不起訴処分。

この手術の後遺症がその後の日本における脳死臓器移植手術の普及を遅らせることになる。

脳死と生命のかかわり、脳死心臓移植の可否を問うたこの小説の作者もまた医者である。まさに医の倫理を問う本なのだが、この中でも和田移植手術が出てくる。
さあ、下巻に入ろうとしている時に、新聞を見たら和田寿郎氏死亡の記事が出ているではないかー

すごく因縁を感じる。

私は医者ではないのだが、長い間この問題については研究してきて、論文も書いている。「反転の思想ー生命というもの」(1997年、かもめ出版)という自費出版した本の中に書いた。

その後情勢が変化、脳死移植手術は再開されたが症例は決して増えてはいない。先日、月に一度眼科に通っている熊本大学医学部付属病院でも脳死移植が行われた。

最近の移植事情は詳しく調べていないので軽軽に論じることはできないが、どうしても疑問が付きまとう。万全を期しているとは思うのだが、密室で行われる脳死判定。和田移植の場合、証拠資料の紛失・改竄が指摘されている。
公正にして冷静且つ客観的な判断というものが神でもない生身の人間の手で、生死の判断を下すということの重大性。かかわるもの全てが生命というものの尊厳性に畏敬と畏怖の念を持ち、厳かな気持ちで手術に臨むのか。もし、経済効率の点で「無駄」を省くためとか、施術者に功名心=利己の兆しがないのかどうかー。

現在ドナーの意思表示がなくても家族の了解さえあれば移植は可能となっているという。ドナーにはならないという人はもしもの時を考えて、「移植手術に同意しない」旨のリビングウィルを残しておくべき時代になった。

狭心症発作を起こし、冠動脈にステントの入っているような私の心臓はだれも欲さないのだが・・・