おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

花村萬月『守宮薄緑』

2011年02月02日 09時48分38秒 | 日記
ウエイト変わらず
食生活で言うと、ちっぽけなデカダンスを続けている。だめだこりゃ

昨日は所謂『小春日和』だったのに、今朝は一転気温が下がっているし(外は0度)、どんより曇っている。人間は知以前に動物として体が反応する。曇ると気分も滅入るものだ。明るい日差しが差し込んでいると、不思議と楽天的にものを捉え感じる。目の前の同じものを目にしているとしてもだ。ものを見る→情報を受信する→大脳に神経細胞によって情報が送られる。その送られる場所が前頭葉の「陽」のポイントなのか「陰」の場なのかー

住んでいるこの土地は「河陰」(かいん)という。ちゃーんと「陰」がついている。    関係ナイッか

さて、花村だ。先日、街に下りて古本屋に立ち寄ったときに、100円コーナーに並んでいた花村萬月の名前を見て、躊躇なく買った。村史全8冊を役場から借りて、2ヶ月かかって読み、ノートを取って返却したばかり。
60cmのデカ頭が若干凝っている。少し<箸休め>に軟らかい小説で揉み解す必要がありそうだったので無二念購入、読み始めた。

『守宮薄緑』
花村の作品は代表的なものは読んでいる。暴力とセックスがこれでもかこれでもかというくらいに微に入り細を穿つように描かれる。時として反吐が出そうになる。人間を動物的に突き詰めて表現しながら、一方で実に古い漢語を用いたりする見識の深さとのアンバランスが面白いし、何といっても性を覚めた目で見つめ、行為中の作中人物の頭の中には冷静で客観的に無我で没我の状態であるはずなのに実に静かに細かく周囲=状況を分析したりする。女の肉体の背後にある物語を動物的に動きながら頭の中に描き出していく。

その女の物語に男=主人公は心を寄せていく。堕落しきった売春婦に無欲で愚直な赤子のような輝く光を見出し畏敬の心さへ抱いていく。だから暴力とセックスの小説で堕落と見る見方もあろうが、私は読後なぜか仄々とした郷愁、憧れみたいなものを感じるのだ。ここは村上龍のクスリ・性を描く小説との違いだ。村上はやっぱり苦労知らずのお坊ちゃん作家。一連の小説何にも残らない。何冊か購入して読んですぐに捨てた。(いいのは幾らかあるのだが・・・)同じ村上でも春樹は自制的だ。

今朝布団の中で1時間、花村を読んだ。もうそろそろ終わる。今、『ヤポネシア考』と芭蕉を読んでいるけどこれもあと少し。次はこの村の歴史でも深く関わった西南戦争の歴史小説と加賀乙彦の『生きている心臓(上・下)」を読み始める。