おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

我慢をすること

2011年02月05日 09時38分32秒 | 日記
81.6

先日、ど素人ながら経済の大原則は収支の均衡をはかることだと書いた。

収入に合わせた支出。難しいことはわからないが混迷が続いてブレイクスルーの道が見えなくなっている時こそ、原点に帰る事が必要と思う。

「国民=有権者}への人気取りで、政権者は国民のためという大義名分を打ち立てて、どんどん訳のわからない政策を予算化し、支出が膨大に膨れ上がってしまったというのが現在の状況。

民主は自民の治世を批判して選挙で勝って政権奪取したら、支出を減らし『埋蔵金』(訳がわからない!)を発掘して収入を増やし、赤字を減らして健全財政に戻すといっていた。ところが、さらに財政規模は膨らんでしまい、赤字が増大した。

現在の状況を鑑みた場合、高校教育の無償化や子供手当ては即刻止めるべきだと思う。
収入に沿った政府予算の枠内で政策が組まれ、当然様々な現行政策は規模を縮小せざるを得ないが、私達がも一度今の生活を見直して、家庭の中での経済構造を見直す時ではないだろうか。「それいけどんどん」の時代は高度成長の社会だからこそあり得た。今低成長で、ゆっくリズムで行くほうが無難だと思う。その方策をこそ政府は具体的に開拓し、国民を指導していくことが政治の責任ではないだろうか?

自分の生活の在り様=ライフスタイルとクオリティーオブライフ(QOl=生活の質)を問いただす作業を始めなければならない。

 

『芭蕉ー二つの顔』(講談社選書メチエ)を読んだ。
伊賀出身の俳人で、どこかで「彼は忍者で幕府の隠密として諸国を探索していたのではないか?」という予断があって、読み始めた。事実としてはその予断は間違いだった。伊賀の農人の次男で晩年は俗世を捨てて「一所不住」の生活をする。

江戸時代にあって俳句というのは高尚な文芸であった。始めは、俳諧という言葉が滑稽という意味であることからして、「笑いの文学」として出発するのだが、松永貞徳などの努力によって、次第に上品なものに高められ、源氏物語や伊勢物語などを読んだ教養を持って句の質を高めていったらしい。
そして俳句ができることは社会的なステータスを獲得することができたのだ。

たった5・7・5の17文字に世界を表現する。季節も見ている対象だけでなく、俳人の思い、感性、世界観、哲学すべてが凝縮される。だから言葉の一語一語が重い。言葉というものに書ける熱意は散文の世界よりも格段に大きいと思うのだ。だから小説を書こうとするにも、この韻文の文学を学ぶ必要があると頓に思うようになった。そろそろ正岡子規をじっくり読んでみようかと思っている。

写真は地元久木野神社。