mardinho na Web

ブラジル音楽、その他私的な音楽体験を中心に

炉心溶融(メルトダウン)

2016-02-25 22:45:56 | 日常
2011年の福島第一原発の事故の際、東京電力は起きたのは「炉心損傷」だと説明していたが、実は東電内部のマニュアルに従っていれば「炉心溶融」と説明すべき状況であったということが判明し、東電が謝罪した。
東電の幹部たちが、予想外の事態になすすべもなく青ざめているなか、つい柔らかめの表現を使いたくなる心理はなんとなくわかるような気がするし、遅きに失したとはいえ、反省の弁も述べている。
ただ、日経新聞に「専門家の見方」として紹介されている北海道大学の奈良林直教授のコメントには腹が立った。奈良林教授いわく、「事故から間もない3月14日の段階で(もしマニュアル通りに)『炉心溶融(メルトダウン)』を正式に発表していたら、国民の間で大パニックが起きていたと思う。炉心溶融と認めたところで、何かしらの利点があったとは思えない。」
つまり、奈良林教授は、原発の大事故が起きてメルトダウンだと認識したとしても、国民がパニックを起こさぬように柔らかく粉飾して発表するべきだ、と言っているに等しい。原子力村の住人たちにあるこうした傲慢な考え方を原発事故当時の東電経営陣も共有していたから、大きな事故を小さく見せるような言葉を選んだのではないか、と思ってしまう。
実際には原発事故によって国民の間で十分にパニックが起こっていた。放射能が東京周辺にも飛んできて浄水場の水から検出され、人々はミネラルウォーターを求めて商店に行列を作った。自衛隊のヘリコプターで海水を汲んできて原発の上からかける、というまるでパニック映画のような映像をテレビでみて、もう原発を止める手立てが何もない事態であることは誰にでも分かった。「炉心損傷」程度の軽い事故だと思う人は少なかっただろうから、その意味でさほど害がなかったのかもしれない。
事態が深刻なことはわかるが、この先どうなるのかは素人にはわからない。その点について専門家の知見を聞きたいところなのだが、もし専門家たちがみな奈良林教授のような考えなのだとしたら、専門家たちも信用できないということになってしまう。


アイドルという名の奴隷

2016-02-10 12:23:19 | 日常
タレントのベッキーさんが既婚の男性と恋愛していたことが発覚して、それまで出ずっぱりといってもよかったテレビ画面から(一時的に?)追放される、というキツーい制裁を受けている。
イギリスのThe Guardianがこの件を報じて、恋愛相手の歌手はその後も活動を続けているのにベッキーさん(同記事によればフルネームはRebecca Eri Ray Vaughanというそうだ)だけ追放されるのは女性差別の表れである、と論じている。たしかにそうかもしれない。
ただ、ガーディアンの記事は、日本の多くの女性アイドルが事務所から「恋愛禁止」を言い渡されていて、その禁を破った人、例えば峯岸みなみさんが頭を丸めて謝罪したことにも触れ、この問題が単なる女性差別以上の広がりをもっていることを示唆していて興味深く読んだ。特に注目したのが、恋愛禁止の禁を破った23歳の女性アイドルが、事務所から1000万円の損害賠償を求める裁判を起こされ、第一審の東京地裁ではこうした契約は国民の幸福追求の権利を定めた憲法に違反するとして原告の訴えを退けたというくだりだ。この裁判のことはまったく知らなかった。この判決のことはぜひAKBのメンバーたちに教えてあげたい。
つい先だっては、SMAPのメンバー4人がジャニーズ事務所からの独立を模索し、その結果SMAPが解散するのではないかという憶測が流れ、結局4人が独立をあきらめてテレビで謝罪するということもあった(らしい。見ていないので)。
私がベッキーさんのことも含め、一連の事件から感じるのは、アイドルたちがタレント事務所、あるいは芸能界全体によって幸福追求権を封じられた奴隷のような境遇に置かれているのではないか、ということだ。
ベッキーさんは好きになった男性をその妻から奪おうとした。倫理的にどうなのか、私は当事者の事情はよく知らないから軽々な判断は慎むが、一つ断言できることは、そのようなことは私の身近にもよくある、ということだ。日本でも結婚したカップルの3分の1ぐらいは離婚するらしい。離婚した人たちの何分の1かは再婚する。その再婚相手との交際が離婚成立前に始まっていれば、それはベッキーさんのケースと同じだ。恋愛や結婚という自分の幸福を追求する活動のなかで、それぐらいのこと誰にでも起きうるのではないか。ガーディアンの記事によれば、ベッキーさんのCM降板は彼女の所属事務所からの要請なのだという。建前は視聴者からの抗議やスポンサーの意向があるから降板させる、というのだろうけど、本当は奴隷主に刃向かったことに対する制裁ということか。
妻のいる男性に恋をするのも、長年世話になったタレント事務所からの独立を考えるのも、狭量な人の「倫理」には外れるのかもしれないが、刑法には触れない自由の範囲内だ。そうした自由の領域に踏み入った人を公衆の前で土下座させたり、仕事から干したりすることは制裁としてあまりに過剰ではないだろうか。そうした制裁を許容するのは芸能界で横行するアイドルへの人権抑圧を容認するということではないのだろうか。