9月18日に福岡市の公園で小学校1年の男の子が殺された事件は母親が犯行を自供してとりあえず一件落着となった。事件の状況を聞くにつけ、第三者の犯行である可能性は低いだろうと心中思っていた(但し誰に対しても口に出すことはできなかったが)。
この事件でのカギは被害者の男の子が持っていたGPS付携帯電話である。小学校1年生が携帯電話を持っているのは、今どきの子供でもやはり珍しい。しかも親が子供の居場所を把握できる(といってもその精度はカーナビほど高くないが)GPS付きだというのは、親の溺愛ぶりをうかがわせるのに十分である。
そこまでしたのに殺人の被害に遭ってしまう、しかも犯人は携帯電話を与えた当の親だとは。このどうにも矛盾した心情をどう理解したら良いのだろうか。
いやGPS付携帯電話を与えるという行為そのものが、子供への愛よりも、自己中心性が極端に強いことの現れだと思えてならない。GPS付携帯電話を与えるということは常時子供に親の声を届けられ、居場所も把握できるようにするということであり、過干渉だ、というのが真っ当な感覚であろう。
子供を独立した人格でなく、自己の延長のようなものだと思い、それゆえにGPS付携帯電話を与えないと不安になり、思い通りにならないので殺してしまったのではないだろうか。
母親は、自分も死ぬつもりだったと言っているようだが、犯行直後からの周到な演技を思うにつけ、この発言も自己正当化の言い訳のように聞こえてならない。
この事件でのカギは被害者の男の子が持っていたGPS付携帯電話である。小学校1年生が携帯電話を持っているのは、今どきの子供でもやはり珍しい。しかも親が子供の居場所を把握できる(といってもその精度はカーナビほど高くないが)GPS付きだというのは、親の溺愛ぶりをうかがわせるのに十分である。
そこまでしたのに殺人の被害に遭ってしまう、しかも犯人は携帯電話を与えた当の親だとは。このどうにも矛盾した心情をどう理解したら良いのだろうか。
いやGPS付携帯電話を与えるという行為そのものが、子供への愛よりも、自己中心性が極端に強いことの現れだと思えてならない。GPS付携帯電話を与えるということは常時子供に親の声を届けられ、居場所も把握できるようにするということであり、過干渉だ、というのが真っ当な感覚であろう。
子供を独立した人格でなく、自己の延長のようなものだと思い、それゆえにGPS付携帯電話を与えないと不安になり、思い通りにならないので殺してしまったのではないだろうか。
母親は、自分も死ぬつもりだったと言っているようだが、犯行直後からの周到な演技を思うにつけ、この発言も自己正当化の言い訳のように聞こえてならない。