本書は、タイトルが与える印象と中身とがややずれていて、中身を反映するとすればむしろ「アジア女性基金の顛末」といった方が正確であろう。日本軍の従軍慰安婦にされた人たちに対する補償と謝罪をするために著者自身も深く関わって設立されたアジア女性基金がどのような活動をしてきたのか、とくにその活動が、元「慰安婦」に対する補償と謝罪が必要であるという点で一致できるはずのNGOやメディアらにいかに誤解されてきたかを書いている。
「慰安婦」問題については、その存在自体を否定する右翼の言論が果てしなく続いているが、著者は学術的検討に値しないとして、はなから相手にしない。むしろ、「慰安婦」問題に積極的に取り組んできたNGO,フェミニズムの論客たちが、アジア女性基金は政府の責任を曖昧にするごまかしだ、と批判してきたことに対して、政府による補償が実現する見込みが小さい中でそうした批判を繰り返すことはかえって被害者たちを苦しめるばかりである、ということを本書の中で繰り返し繰り返し述べている。
率直に言って、私もそうした批判に影響されていたかもしれない。慰安婦問題については、大昔に「沖縄のハルモニ」というドキュメンタリー映画を見て以来、常に意識してきたのだが、補償や謝罪については、前の職場の近くに基金の事務局ができたな、というあたりまでは若干は意識していたものの、結局、基金に募金した記憶もないし、いつの間にか意識から薄らいでいたら、基金は2007年に解散したという。何とも忸怩たるものがある。
それに対して著者は、指紋押捺問題から慰安婦問題まで先頭に立って取り組んできている。本書を読んで何か勉強になったというよりも、著者のそうした生き方に圧倒された。
最近藪から棒にアメリカ下院で慰安婦問題について日本を非難する決議が採択された。著者は「不正確な認識に基づく」とこれまた一蹴するのだが、どの辺が不正確なのか、慰安婦問題の真実についての著者の認識も知りたいと思った。
「慰安婦」問題については、その存在自体を否定する右翼の言論が果てしなく続いているが、著者は学術的検討に値しないとして、はなから相手にしない。むしろ、「慰安婦」問題に積極的に取り組んできたNGO,フェミニズムの論客たちが、アジア女性基金は政府の責任を曖昧にするごまかしだ、と批判してきたことに対して、政府による補償が実現する見込みが小さい中でそうした批判を繰り返すことはかえって被害者たちを苦しめるばかりである、ということを本書の中で繰り返し繰り返し述べている。
率直に言って、私もそうした批判に影響されていたかもしれない。慰安婦問題については、大昔に「沖縄のハルモニ」というドキュメンタリー映画を見て以来、常に意識してきたのだが、補償や謝罪については、前の職場の近くに基金の事務局ができたな、というあたりまでは若干は意識していたものの、結局、基金に募金した記憶もないし、いつの間にか意識から薄らいでいたら、基金は2007年に解散したという。何とも忸怩たるものがある。
それに対して著者は、指紋押捺問題から慰安婦問題まで先頭に立って取り組んできている。本書を読んで何か勉強になったというよりも、著者のそうした生き方に圧倒された。
最近藪から棒にアメリカ下院で慰安婦問題について日本を非難する決議が採択された。著者は「不正確な認識に基づく」とこれまた一蹴するのだが、どの辺が不正確なのか、慰安婦問題の真実についての著者の認識も知りたいと思った。