mardinho na Web

ブラジル音楽、その他私的な音楽体験を中心に

ソウル・ディープ

2010-01-22 21:55:43 | USA
この正月のNHK-BSでのもう一つの収穫は「ソウル・ディープ」である。
BBCが制作した、ソウル・ミュージックの歴史を紹介する6回シリーズだった。
第1回はレイ・チャールズを中心に、R&Bとソウルが誕生した経緯を紹介した。黒人音楽はもともとRace musicと呼ばれていたが、これではあんまりだと考えたビルボード誌の編集者たちが一晩考えてつけた呼び名がリズム・アンド・ブルース(R&B)だった。ジャズやR&Bといった世俗の音楽に、教会のゴスペルの要素を盛り込んだのがレイ・チャールズだった。
第2回はサム・クックを中心に、さらにゴスペル色が強くなったソウルを紹介した。
第3回はモータウン・レコードの話。売上を拡大するには白人にもアピールするようなソウルを目指したモータウンが、その尖兵として売り出したのがシュープリームスだった。だが、シュープリームスの3人はその路線が好きになれず、ダイアナ・ロスはとても冷淡に歌った。それが大ヒットした。
第4回は、メンフィスを中心とする南部のソウルの紹介で、その中心がオーティス・レディングだった。友人がベーシストとしてレコード会社に売り込みに行くのに付き合って、そこで自分の歌を聴いてほしいと訴えてデビューにこぎつけたとのこと。
第5回は、ジェームズ・ブラウンを中心にファンクの興隆を描いた。ファンクが興隆した時代はアメリカ各地で黒人暴動が頻発した時代で、ファンクは「ブラック・パワー」を鼓舞する音楽だった。コンサート会場で熱くなって今にも革命を起こそうと興奮する観客たちをジェームズ・ブラウンがなだめて、ここはコンサートなんだ、と諭しているシーンも面白かった。
第6回は残念ながら見逃したが、メアリーJブライジを中心にヒップホップを紹介したようだ。
第6回だけは知らないアーティストばっかりだったが、第1回~第5回はたいへん楽しみ、かつ勉強になった。

クラウス・フォアマン

2010-01-22 21:37:32 | Beatles
このお正月はNHK-BSでいろいろためになる番組を見た。
まず、”All you need is Klaus。”
ドイツのテレビ局が作った、クラウス・フォアマン(Klaus Voorman)のインタビューを中心に彼の生涯を描いた番組である。
クラウス・フォアマンとは何者か? 実は私もこの番組を見て初めて知ったのだが、ビートルズのRevolverの表紙をデザインしたドイツ人である。
それだけではない。
クラウス・フォアマンはデザイン学校の学生だったときに、ハンブルグ時代のビートルズと知り合い、その後もビートルズの4人と終生友人関係にあった。1960年代半ばビートルズが売れ出し、休暇でドイツに来てクラウスと再会する。クラウスはビートルズの明るい風情を見て、自分もドイツを抜け出したいとイギリスへ移住。ジョージらのアパートなどに住みながら、工業デザイナーとして働き始め、その一つの仕事がRevolverだった。
一方でギターも弾けたクラウスはジョージとギターで交流したりするが、転機はマンフレッド・マンのベーシストとして参加したこと。ここでベーシストとしての声望を高めた彼は、続いてジョン・レノンのプラスチック・オノ・バンドに参加したり(ある日ジョンから一緒にやらないかと言われて軽くOKしたら、いきなりトロント行きの飛行機に乗せられ、飛行機のなかで音合わせして、トロントについたらいきなりコンサートだったという)、カーリー・サイモンのYou're so vainにベーシストとして参加したり、ニルソンのレコーディングに参加したりと、引っ張りダコだった。
カーリー・サイモンは、彼が信じられないぐらいハンサムだった、と語っている。
しかし、ニルソンとプロデュースしたジョン・レノンの飲んだくれのレコーディングに嫌気がさし(ちなみに当時レノンはオノ・ヨーコと別居してメイパンという中国系女性と同棲していた)、音楽業界を離れてドイツに帰った。
その後もグラフィック・デザイナーとして活動し、ドイツでレコードのプロデュースなども行った。
その彼が70歳になったのを機に、昔一緒に演奏した友人たちを誘ってアルバムを作るが、番組はクラウスの人生航路とアルバムの収録風景を重ね合わせるという秀逸な作りだった。
ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ドクター・ジョン等、豪華キャストの共演で、このアルバムをぜひ聞いてみたいと思った。

JALはなぜ潰れそうなのか?

2010-01-05 13:59:41 | 日常
JALといえば、何となくステータスを感じさせる企業であった。かつてはFM東京で「ジェット・ストリーム」、J-Waveで"Saude Saudade"を提供するなど、しゃれた音楽番組のスポンサーでもあった。
それが今や株価が100円を割り込む零落ぶりである。いったいどうしてこんなことになったのだろうか?
直接の引き金はリーマン・ショック以来の世界不況だが、他の航空会社が持ちこたえているなかでどうしてJALだけが潰れそうなのか。
日本の国内線でも、よく乗る日本-中国の各便でも、JAL便が空いていた経験は余りない。日本-中国便ではディスカウント・チケットでもJALがいちばん高いのが通例であった。値段が同じならJALを一番に選ぶ日本人は少なくなかったように思う。なぜ経営が悪化したのか?
思い起こされるのが、20年ほど前に東京からリオに行った時のことである。当然ながら安く行く方法を探してもらったのだが、その回答が東京からロスまでシンガポール航空便で行き、LAで5時間ぐらい待って、東京-ロス-リオ・デ・ジャネイロと飛んでいるJAL便のロス-リオ間に乗る、というものであった。ディスカウントでJALに乗ること自体が意外であったが、実際に乗ってみると、ロス-リオ間のJALはガラガラで、往復ともジャンボ機の真ん中4席を一人で占領して横になって眠れるほどであった。「ディスカウントチケットながらファーストクラス並みの寝心地じゃわい」と思いながら乗った。
この経験で思い知ったことは、JALは日本国内や日本発着便でこそ人気があるが、第3国間の便ではまるで人気がないことだ。ほどなくロス-リオ便は廃止された。日本では国際的な航空会社を自認しているものの、世界の航空市場では日本人マーケット以外では競争力がないのだろう。
値段が割高な日本国内線の市場では儲けられるが、国際線では余り儲けられない。ところがJALはその国際線に自らのステータスがあると思っているから、儲からない国際線を縮小できない。それで経営が悪くなったのだろう。
前原国土交通相の「羽田をハブ空港にしたい」という発言で、私などは仁川空港と日本の26空港との間に路線があることを初めて知ったが、果たしてハブ化は空港の努力だけでできるものなのだろうか。日本の観光客が仁川空港を経由して海外に行くのは要するに大韓航空を利用するためなのではないだろうか。
JALが今の経営状態のままでは、羽田空港をいかに便利にしようとも、日本の観光客は引き続き仁川空港経由で大韓航空に乗ってヨーロッパ等に行くのではないだろうか。