理化学研究所がSTAP細胞が存在するかどうかを調べる検証実験の中間報告を8月27日に行った。
4か月の間、論文に記載された方法で22回の再現実験を行ったが、おおかたの予想通りSTAP細胞の作製はできなかった。
もう肝心の論文が撤回されたし、どうやっても再現できないのだから、端的に言ってSTAP細胞なるものを作ったという発言がウソだったと断言できる。そうしたウソによって科学界や世間をだました責任を明確にし、関係者を処分することが理研に求められている。
ところが、呆れたことに検証実験をやっている丹羽氏らはさらに方法を変えてSTAP細胞がないかどうか実験を続けるのだという。もはや論文の検証を超えて、少しでも処分を先延ばしにしたい、もし万が一STAP細胞の作製に成功したら不正もすべてチャラにできるのではないか、という意図がかいま見える。
STAP細胞をネッシーにたとえた近藤滋教授の比喩を用いれば、科学者たちの反対にも関わらずネス湖に向かったネッシー再捜索隊は4か月の捜索にもかかわらずネッシーが存在する証拠を一つも持って帰ることができなかった。ネッシーが存在するというウソをついた少女やその先生たちへの処分を求める声が高まろうとするところ、機先を制して再捜索隊の隊長がこういった。
「たしかに少女が書いた地図どおりに調べてもネス湖にはネッシーはいませんでした。でも屈斜路湖にクッシーがいる可能性、船橋の川に着ぐるみでないフナッシーが泳いでいる可能性をこれで否定できるわけではありません。もうあと半年かけてクッシーとフナッシーを探します!」
万が一クッシーやフナッシーを見つけても、ネッシーが存在するというウソをついた罪が免罪されるものではないことは子供でもわかる道理だが、隊長はそう思っていないらしい。なにしろ少女のウソを世間に広めた先生の一人であるから何とか罪を逃れよう、罰を先送りにしようと考えるのは無理もない。
こんな茶番をやめさせるには文部科学大臣が「いいかげんにせい」と言えばいいのだが、何せ文部科学大臣は「日本人の少女がネッシーを見つけた」というストーリーがえらくお気に入りで科学的に正しいかどうかにはまったく関心がないのだからしょうがない。
4か月の間、論文に記載された方法で22回の再現実験を行ったが、おおかたの予想通りSTAP細胞の作製はできなかった。
もう肝心の論文が撤回されたし、どうやっても再現できないのだから、端的に言ってSTAP細胞なるものを作ったという発言がウソだったと断言できる。そうしたウソによって科学界や世間をだました責任を明確にし、関係者を処分することが理研に求められている。
ところが、呆れたことに検証実験をやっている丹羽氏らはさらに方法を変えてSTAP細胞がないかどうか実験を続けるのだという。もはや論文の検証を超えて、少しでも処分を先延ばしにしたい、もし万が一STAP細胞の作製に成功したら不正もすべてチャラにできるのではないか、という意図がかいま見える。
STAP細胞をネッシーにたとえた近藤滋教授の比喩を用いれば、科学者たちの反対にも関わらずネス湖に向かったネッシー再捜索隊は4か月の捜索にもかかわらずネッシーが存在する証拠を一つも持って帰ることができなかった。ネッシーが存在するというウソをついた少女やその先生たちへの処分を求める声が高まろうとするところ、機先を制して再捜索隊の隊長がこういった。
「たしかに少女が書いた地図どおりに調べてもネス湖にはネッシーはいませんでした。でも屈斜路湖にクッシーがいる可能性、船橋の川に着ぐるみでないフナッシーが泳いでいる可能性をこれで否定できるわけではありません。もうあと半年かけてクッシーとフナッシーを探します!」
万が一クッシーやフナッシーを見つけても、ネッシーが存在するというウソをついた罪が免罪されるものではないことは子供でもわかる道理だが、隊長はそう思っていないらしい。なにしろ少女のウソを世間に広めた先生の一人であるから何とか罪を逃れよう、罰を先送りにしようと考えるのは無理もない。
こんな茶番をやめさせるには文部科学大臣が「いいかげんにせい」と言えばいいのだが、何せ文部科学大臣は「日本人の少女がネッシーを見つけた」というストーリーがえらくお気に入りで科学的に正しいかどうかにはまったく関心がないのだからしょうがない。