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昭和のともしび、また一人消える 巨泉流の”こびない”反骨精神でテレビ黄金期のバラエティー文化を築く(ご冥福を)

2016-07-20 | Weblog

今のテレビをどう見ているのか。

巨泉:「見るに堪えない。テレビ欄を見れば分かるだろ。午後7時から10時ごろまで何とかスペシャルとか、そんな番組ばっかり。訳の分からないお笑いタレントを集め、バカみたいに話して笑っているだけ。バラエティーでも何でもないよ。バラエティーはいろんなことをやるからバラエティー。あんなの単なる無駄話だ。

この人だからこそ言える言葉だろう。

巨泉: 「金をかけないといけないところにかけなくなったからね。例えば『クイズダービー』は、竹下景子が最初に出てきた時は単なる女子大生女優。はらたいらだって面白くない漫画家。篠沢教授も何も知らない大学教授だ。初期は全然タレントに金はかかってないよ。俺が一番金をかけたのは、問題を作る作家10人。どこに行っても一流の番組を1人で書ける作家を10人雇った。そこに金をかけたんだ」

大橋巨泉さん死去

テレビ育て…硬軟自在、「反骨」示す

テレビ文化を育てた巨星が落ちた。12日、82歳で亡くなった大橋巨泉さんは、番組司会などで活躍。豊富な語彙(ごい)とユーモアでスタジオを盛り上げ、社会を斬り、昭和を代表するテレビマン、文化人として駆け抜けた。

  ♪シャバダバシャバダバ−−。

軽快な女声スキャットで始まるテレビ界初の深夜ワイドショー「11PM」(日本テレビ系)は衝撃的だった。それまでテレビではタブー視されていたマージャン、競馬といったギャンブル系の遊びや、釣り、ゴルフ、ボウリングなどのレジャーが次々登場した。カバーガールがにっこりほほ笑み、当時15歳の由美かおるが歌って踊る清潔なお色気路線も魅力の番組だった。

「俗悪番組」とたたかれながらも1965年11月から90年3月まで25年続き、そのうち20年間、司会を務め番組の顔となったのが大橋巨泉さんだった。

当初は構成作家として参加した。「夜でなければできないものを」と相談を受けて作ったのがマージャンのコーナー。「非難ごうごうで1〜2回で終わると思っていたら、もっとやろうとなって、お前が司会もやれと。裏文化、サブカルチャーを初めてマスメディアに乗せた存在価値があったと思います」。99年秋に放送された一晩だけの復活特番の直前、あの笑いを含んだ陽気な声で誇らしげに語った。

「お色気番組の元祖」と言われがちだが、巨泉さんの真骨頂は、落首や狂歌のように、軟派番組の中に政治や社会への批判を突きつける硬派企画を挟み込んだ反骨精神だ。

 従軍慰安婦や公害、返還前の沖縄の現実といった硬派ネタから、ストリップ、UFO、超能力、アングラ芝居などの軟派ネタまで取り上げた。「僕は、日ごろ新聞の社説を読まない人に、政治や経済の問題に興味を持ってもらおうとシリーズを続けたんですよ」とも明かした。

もう一つ、テレビ文化を豊かにした功績がある。「クイズダービー」「世界まるごとHOWマッチ」(ともにTBS系)を、軽妙洒脱(しゃだつ)なスタジオトークを生かして、家族で楽しめる良質な娯楽番組に育てたことだ。

17年前のインタビューの最後に、こう話していた。「当時のイレブンでは、人が取り上げていないもの、他でやっていないものを次々とやった。今のテレビの堕落の原因は、そこが欠けていることにあると思いますよ」。愛するテレビへの遺言となった。(毎日7/20)

11PM (東京イレブン) 最終回のエンディング (大橋巨泉・愛川欽也のコメント入り)



弱い立場の人に思いが至らない社会や政治を嫌う。そういう思いは大病を経て強くなったように見える。残りの人生をどう生きるか尋ねてみた。

巨泉:「死に損なったから、当面あと5年生きる。85まで生きると金婚式なんだ。これまで体に10回メスを入れた。よく生き残ってきたと思うよ。大した才能のない男を食えるようにしてくれた、僕の番組を見てくれた人にね。やっぱり、今の日本の国の在り方は間違っている。経済の在り方も間違っているということを言ったり、書いたりしていきたい。そのためには、やっぱり1年の半分は外国に住んで日本を見つめていないとね」

晩年、政権を厳しく批判 安保法制を危惧

12日に亡くなった大橋巨泉さんは晩年、安全保障関連法など安倍政権の政策を厳しく批判し、護憲派の立場から2005年に発足した「マスコミ九条の会」の呼び掛け人にも名を連ねていた。

週刊誌の連載では、自身の闘病生活を明らかにする傍ら「憲法学者が、違憲だと証言しているのに、まだ誤魔化(ごまか)そうとしているのは醜い」と痛烈な筆致で政権に挑み続けた。

マスコミ九条の会のメンバーで、元日本テレビプロデューサーの仲築間卓蔵さん(84)は深夜番組「11PM」の宣伝担当だったときからの知り合い。「改憲への動きが出ている今だからこそ、話をしてほしかったのに…。実現しなかったことが悔やまれる」と話した。

大橋さんは「医療費の窓口負担『ゼロの会』」(横浜市)にも賛同していた。(日刊SPORTS7/20)

【大橋巨泉x大竹まことⅹ室井佑月】安倍政権に怒る



 略歴:大橋巨泉

東京都墨田区両国生まれ。千葉県に育つ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松(岐阜県出身)。実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と大橋はその当時からの知り合いである。巨泉の実家製作のカメラ「ロールライト」の現存する2機は萩本とすぎやまこういちが所有している、とも語っていた。本所区立江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)を経て、1943年7月から千葉県山武郡横芝町に疎開、横芝国民学校4年に編入。敗戦直後、横芝の自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。1946年、千葉県立成東中学校 (旧制)に入学。1947年、東京両国に引き揚げる。

アメリカへ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネフランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという。早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活躍していた。

最初の妻マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤め始めるも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のマルチタレントとして人気を得る。この方面では、やはり放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、この2人で日本テレビ『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。

放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にもかかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった。

こうして1960年代から1980年代にかけ、テレビデビューとなった日本テレビ『11PM』や、TBS『クイズダービー』、MBS・TBS『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。

「テレビの申し子」であるとともに、新しいライフスタイルを常に提示してきた「時代のパイオニア」

大橋巨泉さんは、数々の流行語や人気番組を世に送り出した「テレビの申し子」であるとともに、新しいライフスタイルを常に提示してきた「時代のパイオニア」でもあった。終戦直後、一気に押し寄せた米国文化の中で、巨泉さんが最も影響を受けたのがジャズ。「束縛からの解放」の時代、その象徴ともいえる音楽の評論活動を通じて、名を売った。

1953年にテレビ放送が始まると、音楽を通じて番組制作に関わる。新しいメディアであるテレビの可能性をいち早く見抜いた巨泉さんは、放送作家として活躍した後、66年に「11PM」で司会者に転身。豊富な知識、独創的な流行語、当意即妙な受け答えで一躍人気者になった。

日本が高度経済成長の道をまっしぐらに歩んでいた時代、同番組で競馬や将棋、ゴルフなど、スポーツや趣味を積極的に取り上げ「仕事と遊び」の両立を呼び掛けた。低俗番組との批判をよそに、経済繁栄に続くレジャー時代を先取りした。

90年、長寿社会の到来に伴い、シニア生活のあり方が問われるようになると「体力のあるうちに余生を楽しみたい」と「セミリタイア」を宣言。出版やテレビ出演などメディアを通じての発言を続けるなど社会との関わりを保ちながら、自らのライフスタイルは守るという生き方を実践し、多くの中高年世代に影響を与えた。

人生の原点は「8月15日」

終戦間際の1945年の夏、疎開先の千葉県横芝町(現横芝光町)でのこと。小学校の帰りに米軍機の機銃掃射に見舞われ、命を落としかけた。直後に迎えた終戦。皇国少年だった巨泉さんは、敗戦に頭が真っ白。自分自身を否定され、この先1年間の記憶が抜け落ちているという。これが転機。1年の空白期間は命の再生や希望につながり、「思い切りやりたいことをやろう」という気持ちを育んだ。

 

追記:

・テレビの新しい可能性を見いだしたパイオニアで、みんながその才能を使いたがった。巨泉さんがテレビで普段使っている言葉がそのまま流行語になった。「欽ドン!」の「ばかウケ」も実は巨泉さんの言葉。今のテレビは巨泉さんが開拓した道を継承している。萩本欽一

・巨泉さんの周りにはいつも楽しい人の輪があって、芸能人、アスリート、文化人、ジャンルを問わず本当に多くの出会いがありました。今も私の宝物です。頼もしくて、お茶目で、寿々子さんには頭が上がらないのが可愛らしくもありました。竹下景子

・次々と生み出した新語は、いかにも戦後っぽくて、昭和のにおいがプンプンする人でした。偉そうに話すのが“巨泉流”でしたが、内面はシャイだった。中村メイコ(同じ昭和9年生まれ)

・大橋巨泉さんの訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。多種多芸だった巨泉さん、多くの人々に生きる楽しみや喜びを教えてくれました。野球一筋の私にとって、巨泉さんの生きざまは本当にうらやましく人生のお手本でした。心から感謝しています。巨泉さん、ありがとう。王貞治

・あの頃のテレビって活気づいてたよね。(いまは)いわゆるお笑いさんたちがメインでやってる番組って言っちゃうと問題だけど、私は出たくないからキー局辞めたわけよ、ひな壇に何人も並んでさぁ。そこいくと巨泉さんだとか永さんがテレビやってた時代っていうのは、やっぱり憧れたし、その人たちと知り合いたかったりした。だからもう、いわゆる『昭和』がなくなったのよ、完全にね。そういう風に思う。本当に適当な男で、ものすごく大事なことは、遊びが仕事になってた人なの。学生時代からジャズ評論家やってて『ジャズ評論に関しては巨泉』て呼ばれるくらいの人。私たちはとっても勉強にさせてもらった。そのうち放送作家やって、放送作家なんて顔見せないのに、いつの間にかあの人は顔見せるようになって。時代の最先端をいってた。おすぎ

・豊富な知識、独創的な流行語、ひねりの効いたコメント…。多芸多才でジャズ評論家から政治家まで幅広く活躍した。お茶の間にはいつも笑顔で向き合い、人生を前向きに謳歌した。地方紙

・仕事も遊びも全力。テレビ番組で見せるプロ意識は強烈で、共演者に「さん」はつけなかった。「司会者もゲストもギャラをもらっている。お客さまは視聴者だ」という信念からだった。初対面の共演者のことはきっちり調べ上げ、どんな受け答えでもできるように準備。気遣いも一流だった。地方紙

 

 

 

 

 

 

 


 


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