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makoto's daily handmades

父の葬儀 その1 飛脚が飛ぶ

父が亡くなり、葬式までは少々時間がある当地。

父が旅立った当日は、ストレスからかまったく眠れそうも無かったので、徹夜でアルバムから父の写真を抽出して、葬儀で流すスライドショーの画像整理。

葬儀屋さんから「最低50枚」と言われていましたが、多少の農園風景を含めて164枚をトリミングしました。

我ながら大作です。 

 

つぎに先日作った紙製手ノコの他に、剪定バサミと芽切りバサミを紙製で製作。

兄は「ハサミは開閉できるようにしなくていい」とは言っていましたが、その言葉の裏には「本物みたいに開閉できるようにしたい」という本音がにじみ出ていました。

兄の言葉は、裏まで読んであげないとダメなんですよねぇ。

だから要の部分は、楊枝を使って留めて、バネを模したりなかなか凝った紙製ハサミ(超軽量)を2丁作りました。

その出来栄えを見た兄や母が涙ポロポロ。

まだ早いって…。冷静過ぎる自分が怖いくらいです。

 

そして、ちょっと認知が怪しくなり始めた祖母が、寒中見舞いはがきの文面を作るのが大変になってきたようです。

祖母のために寒中見舞いの例文を試作(2つ)して、祖母が楽に読めるようにA4用紙いっぱいにプリントしました。

後刻祖母に添削してもらってから印刷することとします。

祖母はもう、1つのことに執着するか、新しいことを覚えない、同じことを何度も聞き返す状況が常態化しはじめています。

年齢的な問題もありますが、顕著になったのは父の回復が見込めないと理解するようになった先月ころから。

父をきっかけに、高齢者の介護ドミノが始まりそうな実家の状況です。

 

明け方1時間ほど仮眠をとったら、前日に母から頼まれていた買い出しに出かけました。

この日は「飛脚が飛ぶ日」です。

実家の親戚づきあいでは、地親類(じしんるい)というご近所づきあいがあります。

その方々が「飛脚」になって、訃報を関係者のところに出向いて知らせてくれるのです。

この行為を「飛脚が飛ぶ」といいます。

 

飛脚が飛ぶと、ご近所さまや関係者の皆さま等弔問客が増えます。

そのため私がお茶汲みの手伝いに行くのかと思ったら、買い物を頼まれました。

コロナ禍以降、葬儀は小さく、が当たり前とはいえ、当地の農家はそうもいかず。

まず、日本酒四合瓶×3本。

父の好きだった銘柄「剣菱」を選ぼうとしたら、なにしろ見つからない。

年末年始に向けて、銘柄が豊富に揃っていると聞いている店に行ったのに。

それなら旅行先で気に入った「真澄」もよく飲んでいたから、こちらにすることに。

それからその日本酒を飲むための小さな紙コップ40個。

ほんのひとくち含む程度なので、お猪口サイズの紙コップを探して購入。

 

そしてまだMIFさんが父の元に行っていないので、贈答用線香を包んでもらったのですが、ここで痛恨のミス。風呂敷を忘れた…。

もういいや、と買い物袋も購入。

すぐ駆けつけるのなら、手ぶらでお線香をあげに行ってもいいのですが、一晩経ったらさすがに手ぶらはねぇ…という強烈田舎根性の農家を現役続行中な実家。

気持ち的には「面倒くさい」が頭をもたげて来ますが、伝統を重んじる父の葬儀ですからそうも言ってられません。

父が生前か細い声で「最近はデタラメな葬式が多くって…」「俺のときはちゃんとしてくれな」と話していました。

強烈田舎根性を剥き出しな発言とは言え、私の実家を盛り立ててくれた功績には何事にも代えがたいのです。

遺族として父の思いをできるだけ叶えてあげたいし、そうしなければ兄の肝が座らない…。

 

つぎに納棺の際の手土産用ペットボトル茶。

これは母からサイズ指定されましたが、5軒回って段ボール箱販売なし。仕方なく通常サイズを1箱。

あとこれは私からの差し入れでお世話になった業者さんへペットボトル茶を渡せるように、と1箱。

ほかに祖母が気にしていた寒中見舞いはがき用に、インクジェット用はがき(切手なし)を購入。

 

これらを持参しながら、MIFさんと実家に行きました。

弔問客はまばらですがチラホラいらっしゃるようです。

ちょうど葬儀屋さんがいらっしゃったので、徹夜で作った父のアルバムのスライドショーデータを渡しました。

スライドショーの画像データは、ソートすればデータ名順になるはずですから、たぶん大丈夫かと思います。

ところどころに父ゆかりの学校の校舎、実家の農園の様子なども含めました。

近年、私が農作業を手伝う時の記録として写真を撮っておいたのが役立ちました。

意外だったのが、今年6月に川崎市市制100年記念のブルーインパルスの展示飛行の画像。

たまたま実家の手伝いに行っていた日なので、脚立の上から兄と飛行風景を撮影しました。

それが、ふだんは登らない場所で、実家の街並みと農園が写り込んでいました。

肝心のブルーインパルスは微妙な大きさにしか写ってないので、これが何の写真なのかは私とかろうじて兄が分かるかな?と。

 

そしてお線香を上げてから、兄を交えて少し話しました。

前日、兄とMIFさん名で枕花を用意しましたが、親戚のМくんから1つ届いていました。

ほかの親戚からはお断りしたのですが、Мくんには言いそびれたようです。

これがまぁ、喪主よりも立派な枕花でして。

ちょっと気まずい(汗)

業者さんが違うから仕方ありませんが、兄、MIFさん、私の3人でお互いに苦笑し合いました。

兄とMIFさんの2人で話していた時、兄が「makotoが呼んでくれたから俺も母も臨終に間に合った」と言っていたそうです。

この言葉は、本当に私にとって生涯随一のファインプレーですし、兄も認めてくれていたのか、と。

そうこうしているうちに弔問客も増えていて、ご近所農家仲間であり、父の姪のYさんもやって来ました。

MIFさんの後ろ姿を見て挨拶をしてくれたそうで、振り向いたMIFさんを見て、Yさんが明らかに「誰だこいつ」という顔をしていたとか。

体重が全然違うものの、兄とMIFさんを見間違えたみたいです。

Yさん、うちのニイチャンは、もっとやせ細っていますよー。

そして兄から「告別式以外は時間をやりくりして病院の治療に通えそう」と教えてもらいました。

私が「喪主はどこ行った?と聞かれれば、喪主代行はお母さんだから、お母さんに聞いて、と言えばいいよね?」と念を押しておきました。

母子共依存がこれからも強力に発動されるのか、私には分かりません。

ただ言えるのは、私を気にかけてくれていた父が完全に存在しなくなったので、ますます私は疎外感を感じて生きていくことになりそうです。

これからの人生で私が「知らねーよ、聞いてないし」とブチギレる場面が激増するンだろうなー、と。

それがイヤだったら、実家に来なければいいだけですからね。

 

兄とやりとりして、年内の実家の農作業のお手伝いは終わりとなりました。

本当はクリスマス前まで、ということでしたがいつの間にか今年のお手伝い納めるとなっていました。

今年は本格的にいろいろな農作業をするのがなし崩し的に始まりました。

それとともに、父の容態が進んでいたことと反比例していきました。

前日に見た父の死亡診断書には死因が誤嚥性肺炎、既往症がパーキンソン病でした。

心不全とか、多臓器不全だと思っていたのですが、違ったんだ…というか一貫して誤嚥性肺炎だったということなのか。

ろくに検査もしないような病院にいたので、死因欄になんと書かれるのだろうか、と気がかりだったのです。

結局、父の入院先は「検査してみましょう」と言うものの、一向に検査する気配なし。

「口から食事を試みますが、もう少し先になりそうです」と言い続けて、1度も経口飲食をしませんでした。

私にはやっぱりなー、しか言えない「おらが村のお医者さん」。

それでも父はこの病院に絶対的信頼感を持っていましたから、故人の意思を尊重したので満足できないけれど納得することにします。

まだこれからいろいろと続きますが、たぶんこのブログで毒づいていくことでしょう(苦笑)

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