私のご先祖さまを探るシリーズなので、ご先祖さまに興味のない方には何一つ面白くないです。読み飛ばしてください。
もう一度、基本に立ち返ろうと思い立って、いろいろ調べていたら、お地蔵さまの由来と合致する墓石を見つけました。
過去帳は最初のページに「◯◯家先祖供養」等といわゆる中表紙というか表題が書かれています。
ゆえにそのページから後しか読まなかった私。
実家の過去帳にはその前のページが存在していて、12文字の漢字が書いてあることに気が付きました。
なんだろう?と暫く考えたら、6人分のこどもの戒名が書いてある墓石が存在していて、その「童子」や「童女」等を略した戒名だと気が付きました。
というのも12文字の下側に「半左衛門ノ兄弟」と書いてあったからです。
半左衛門は、3代半左ヱ門のことで、
ヱは略字ですから正式にはやはり半左衛門になります。
※墓石の施主名にもヱが使われているのは、単に石工が画数を省略したかったのでしょう。
ということは、6人は、2代弥七郎の子ども世代です。
で。
2代弥七郎は、妻を40歳前後で亡くしていまして、しかも2代の子ども世代は合計で8人分の戒名が見つかったことになります。
3代半左衛門は成人して跡継ぎになっていますから、少なくとも9人の子どもがいたと考えられます。
農村部の結婚は早い傾向とはいえ、18歳頃に結婚して、40歳頃までに9人産んで、1人しか成人しなかったということも考えられます。
実家が管理しているお地蔵さまの言い伝えでは、子どもが次々亡くなったことで建立したということになっています。
時代からの判断では、3代半左衛門が30代半ば頃に建立したことになります。
建立時期を考えると、2代弥七郎が建立したとは考えにくいので、3代半左衛門が自身の兄弟の供養とともに、自身の子ども世代の健やかな成長を願ったと考えられます。
それにしても。
2代弥七郎の不運というか、いろいろと忍ばずにはいられません。
まず始祖さま(初代)は親とケンカ別れ(分家)しているので、そこそこ気が強いという面があったはずです。
2代目弥七郎はその父親の面倒をみているものの、始祖さまが夫婦が亡くなった頃に3代目は誕生していなさそうな年齢差です。
しかもその頃は鷹狩りがまだ盛んなようで、加賀前田家が実家のある地域一帯を鷹狩り場にしていまして、1000人規模の鷹狩りをやっています。
おそらくは私のご先祖さまもその勢子人足に駆り出された可能性があります。
一方、宝永火山の噴火も影響があった時代でしたし、大山街道という脇往還を伝って疫病は村内にもたらされやすい環境でした。
子ども6人亡くし、成人した子どもも2人亡くなっているし。
妻は40歳頃に亡くなっているし。
2代目で家の存続が危ぶまれる事態になっていたのですから。
なによりも2代目は余裕が無かったのか、供養は3代目の時代になってから、という経済的困窮があったのだろうと思わずにはいられません。
そして6人の子どもの命日が分からないンです。
過去帳は、命日が分からない人々を記録できるように終わりのページに日付不明者を書けるスペースがあります。
でも3代半左衛門の兄弟6人は、最初のページに書かれています。
今の過去帳は、私の曽祖父(9代目)が新調したものなので、その前に存在した過去帳からすでに3代の兄弟6人は没年月日が不明だったこと、それが何度も新調するたびに分からなくなった、という状況でしょう。
件のお地蔵さまが建立されたのは1745(延享2)年。8代将軍吉宗から9代将軍家重に代替わりした頃。
実家のご先祖さまはどうにか家計を立て直してお地蔵さまを建立できる経済状態になった、と言えるようです。
現代に生きる私には計り知れないことがたくさんあるものの、兄弟8人が亡くなっている3代半左衛門、そして子ども8人を亡くしている2代弥七郎の心境は、子なしの私にははかりきれません。
宝永噴火による田畑の復旧がうまくいかなかったのか、脇往還がある地域なので疫病でももらったのか…。
よく被災地の状況で、子どもと高齢者は衛生環境が悪くなると健康状態が悪くなると言います。
そんな状況が実家のご先祖さまにも降りかかっていたのか、と驚くばかりです。
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