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makoto's daily handmades

日々暮らすだけの生き方
写真の二次使用は許可しませんので悪しからず

はてなブログさんに引っ越しました

2025-04-23 13:08:54 | 日記

2010年よりお世話になっていたgooブログさんから引っ越しました。

タイトルは「makotoの日々」です。

タイトルを変更したのは、これから先の日々では今よりも手芸は次第に減って行くだろうと見越しているためです。

新たな出会いもあるでしょうし、これでお別れとなってしまうこともあるでしょう。

これまで訪れていただいた皆さま、お世話になりました。

またgooブログ事務局のみなさまへ、これまでの感謝と残り少ない運営期間ですが今一層の邁進してください。

 

このブログでの記事更新はこれまでとさせていただく予定です。

 


ご先祖さまを探る その7 お地蔵さまの由来

2025-04-21 06:59:37 | 日記

私のご先祖さまを探るシリーズなので、ご先祖さまに興味のない方には何一つ面白くないです。読み飛ばしてください。

 

もう一度、基本に立ち返ろうと思い立って、いろいろ調べていたら、お地蔵さまの由来と合致する墓石を見つけました。

過去帳は最初のページに「◯◯家先祖供養」等といわゆる中表紙というか表題が書かれています。

ゆえにそのページから後しか読まなかった私。

実家の過去帳にはその前のページが存在していて、12文字の漢字が書いてあることに気が付きました。

なんだろう?と暫く考えたら、6人分のこどもの戒名が書いてある墓石が存在していて、その「童子」や「童女」等を略した戒名だと気が付きました。

というのも12文字の下側に「半左衛門ノ兄弟」と書いてあったからです。

 

半左衛門は、3代半左ヱ門のことで、

ヱは略字ですから正式にはやはり半左衛門になります。

※墓石の施主名にもヱが使われているのは、単に石工が画数を省略したかったのでしょう。

 

ということは、6人は、2代弥七郎の子ども世代です。

で。

2代弥七郎は、妻を40歳前後で亡くしていまして、しかも2代の子ども世代は合計で8人分の戒名が見つかったことになります。

3代半左衛門は成人して跡継ぎになっていますから、少なくとも9人の子どもがいたと考えられます。

農村部の結婚は早い傾向とはいえ、18歳頃に結婚して、40歳頃までに9人産んで、1人しか成人しなかったということも考えられます。

 

実家が管理しているお地蔵さまの言い伝えでは、子どもが次々亡くなったことで建立したということになっています。

時代からの判断では、3代半左衛門が30代半ば頃に建立したことになります。

建立時期を考えると、2代弥七郎が建立したとは考えにくいので、3代半左衛門が自身の兄弟の供養とともに、自身の子ども世代の健やかな成長を願ったと考えられます。

それにしても。

2代弥七郎の不運というか、いろいろと忍ばずにはいられません。

まず始祖さま(初代)は親とケンカ別れ(分家)しているので、そこそこ気が強いという面があったはずです。

2代目弥七郎はその父親の面倒をみているものの、始祖さまが夫婦が亡くなった頃に3代目は誕生していなさそうな年齢差です。

しかもその頃は鷹狩りがまだ盛んなようで、加賀前田家が実家のある地域一帯を鷹狩り場にしていまして、1000人規模の鷹狩りをやっています。

おそらくは私のご先祖さまもその勢子人足に駆り出された可能性があります。

一方、宝永火山の噴火も影響があった時代でしたし、大山街道という脇往還を伝って疫病は村内にもたらされやすい環境でした。

子ども6人亡くし、成人した子どもも2人亡くなっているし。

妻は40歳頃に亡くなっているし。

2代目で家の存続が危ぶまれる事態になっていたのですから。

なによりも2代目は余裕が無かったのか、供養は3代目の時代になってから、という経済的困窮があったのだろうと思わずにはいられません。

そして6人の子どもの命日が分からないンです。

過去帳は、命日が分からない人々を記録できるように終わりのページに日付不明者を書けるスペースがあります。

でも3代半左衛門の兄弟6人は、最初のページに書かれています。

今の過去帳は、私の曽祖父(9代目)が新調したものなので、その前に存在した過去帳からすでに3代の兄弟6人は没年月日が不明だったこと、それが何度も新調するたびに分からなくなった、という状況でしょう。

 

件のお地蔵さまが建立されたのは1745(延享2)年。8代将軍吉宗から9代将軍家重に代替わりした頃。

実家のご先祖さまはどうにか家計を立て直してお地蔵さまを建立できる経済状態になった、と言えるようです。

 

現代に生きる私には計り知れないことがたくさんあるものの、兄弟8人が亡くなっている3代半左衛門、そして子ども8人を亡くしている2代弥七郎の心境は、子なしの私にははかりきれません。

宝永噴火による田畑の復旧がうまくいかなかったのか、脇往還がある地域なので疫病でももらったのか…。

よく被災地の状況で、子どもと高齢者は衛生環境が悪くなると健康状態が悪くなると言います。

そんな状況が実家のご先祖さまにも降りかかっていたのか、と驚くばかりです。


箱買いペットボトル飲料の交換

2025-04-18 06:52:23 | 日記

わが家ではローリングストック用のペットボトル飲料を箱買いしています。

先日、段ボール箱を開封したら、ペットボトルのキャップ部分が、ボトルにめり込んでいて、キャップを開栓できません。

 

MIFさんに「ペットボトルの形が変でキャップが回らないンだけど、どうしよう?」と報告。

 

段ボール箱には外傷がなく、段ボール箱の内側にキャップが強く当たった形跡がありました。

段ボール箱をひっくり返して落とした結果、キャップがボトル本体にめり込んだのかな?と想像。

 

ゆえにMIFさんの都合にあわせて、購入店へ箱ごと持ち込んで交換してもらいました。

サービスセンターの方も絶句の光景で、飲料担当者さんはボソッと「センターかな?」とのこと。

うん、分かるよ、私も開封した時に「え?なにこれ?」とつぶやいちゃったもの。

今回は交換してくれましたが、状況によっては交換対象外になることもあります。

今回は、開封した私がとてもじゃあないけれどこんな形に変形させられる力を持ってい無さそうと判断されたようにも思います。

 

こんなこともあるのか、と驚きと親切な店員さん達への感謝を感じた出来事でした。


gooブログよ、おまえもか

2025-04-14 12:13:17 | 日記

とうとうやってきましたgooブログのサービス終了のお知らせ。

いつかやってくるとは思っていたのですが、やっぱりなぁ、と。

 

gooブログはそこはかとないチラ裏感があって好きなのに、やはりそうなると利用者の年齢層は高くなります。

少子化なので、なにしろワカモノサマがコミュニティに参加しないSNSは廃れるのです。

近年のgooブログってば、ワカモノサマの呼び込み試みるも、ことごとく高齢者しか食いついて来なかったものね。

ワカモノサマのブログ離れが著しい昨今、サービス停止も致し方あるまい、と。

 

で。

私はどうしようかなぁ、と。

そもそもがチラ裏のつもりで書いている内容ばかりだから、自分のための日記に過ぎません。

 

とくに足の骨折や、父の異変から死亡までの一連の精神的なゆらぎは、その時の感情が思いっきり乗っかっているので、それは自分自身の書き付けとして読み返せればいいだけだものなぁ。

 

SNSはどれも何十年も続くとは思えないので、引っ越しよりも、データとして引き抜ければいいです。

noteもいいけれど、いずれSNSとしては消滅する可能性は否定できないので、迷っています。

皆さまの動向をちょっと拝見してから改めて考えようと思います。


冷たい雨

2025-04-03 07:07:05 | 日記

花冷えな雨が続いています。

自宅のから見える範囲にソメイヨシノがあるのですが、3日間雨でもあまり咲き進んでいない様子。

実家の果樹の花も進んでいないだろう、と思える様子にホッとしています。

 

ただ、私の足の古傷はシクシクと傷むのがちょっとイヤですけれどね。

もう10年も前の手術跡なのですが、なかなかどうしていまだに痛いです。

いわゆる天気痛というものなのですが、当初よりはマシ、我慢ができる範囲なので放置しています。

天気痛は脳の感覚のエラーなので、痛い、痺れるなどの感覚はあっても、実際の炎症とは違うンです。

だから他人に理解されないのはもちろん、医師でも心ない言葉をかけることさえあります。

医師だって人間だもの。

 

こういう日は頭の中には良くない感情が浮かんでは消えるを繰り返しやすくなります。

とくに「足を骨折していなければ⋯」というどうにもならないことばかり。

足を骨折したことで、父の長年の苦労(半月板の骨折と後遺症)を少しは理解できたことは唯一の良かったことです。

あとは全部仄暗い感情になってしまうことばかり。

 

今日からは晴れ間があるみたいですから、ちょっと気持ちを入れ替えられるといいな、と思っています。


ご先祖さまを探る その6 一旦精査

2025-04-02 07:06:31 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはぜ~んぜん面白くない話なので、ご興味がない方は読み飛ばしてください。

 

さて、その1〜5まででは、過去帳、位牌、墓石簿の3つから読み解くことはできたのですが、墓石の現物をみてこれまた謎に思うことがでてきました。

そこで振り出しに戻って、一旦精査することにしました。

まず、私がやりたいことの整理から。

1、始祖さま(初代)〜12代(私の兄)までの当主の俗名の確定

2、今判明(判読)する戒名が、誰なのか(俗名不明可)、当主との関係性の類推をする

3、家系図を作る

4、現存墓石が誰を祀ったものか確定する

以上4点です。

 

たったこの4点でも意外な事実がすでに判明しています。

9代目にあたる私の曽祖父は、私が成人してから亡くなったのですが、ずっと長男だったと思っていたのに、実は次男だったようです。

曽祖父の弟は、自身が成人後に改名したのですが、それまでは三郎という名前でした。

だからずっと曽祖父と三郎さんの間には次男が存在するのだと私は思っていました。

でもその人は誰なのかの、三郎さん家とは親戚付き合いがあるけど、次男家とは付き合いがないなぁ、と思っていたのです。

 

なんてことはない、次男は曽祖父自身だったンだ、と初めて知りました。

いや、実家の誰かは知っていることかもしれないですが。

曽祖父の兄は?と思ったら、生まれてすぐに亡くなっていることが判明。

位牌はないのですが、過去帳と墓石簿と墓石でその存在を知ることができました。

墓石簿には私の祖父が手書きで加筆修正していること、性別が男と祖父の筆跡で書かれていたので、少なくとも祖父は知っていたことのようです。

曽祖父(9代)の兄弟は、戒名等で確認できるのは4人、親戚付き合いと言い伝えから4人、合計8人兄弟だったと思われます。

昭和の始めには曽祖父、三郎さん、妹、弟(分家)がありました。

弟(分家)は昭和11年に断絶、妹一家も平成半ばで断絶しました。

命を繋ぐとはかくも難しいものか、と思う一方、私は子なしですから将来は断絶することが決定しています。

 

閑話休題。

墓石簿は、本当に墓石簿なのか?という疑問が出てきました。

墓石簿は青焼に印刷されていたのですが、実際の墓石には何人かまとめて刻字されているものがあります。

墓石簿にはそのことが記されていませんし、整理するための枝番もありません。

ですが、実際の墓石と比較すると、同じ墓石に刻字されている戒名(俗名)が墓石簿では必ず連続で刻字されていました。

とくに4代前妻、5代傍系(道号)、6代行方不明者の3人が刻字されている1つの墓石も、この3人の繋がりは過去帳を解読しないと関係性が浮かび上がりません。

ゆえに連続して記載するのは、墓石を読んで墓石簿作らない限り判明しないのです。

ゆえに墓石簿は、墓石簿で間違いないだろう、と結論づけました。

 

ただ墓石簿の目的が2パターン考えられます。

1、菩提寺の帰属問題が昭和40〜50年頃に起きていましたこと

2、昭和47年8月に実家の墓地の改葬が竣工していること

もう当時を知る人が生きていないのではっきりとしたことが不明になっています。

母の記憶では、昭和38年に亡くなった9代の妻(母の祖母)は、菩提寺の住職さまは以前の系統の住職さまだったそうです。

どういう経緯か不明ですが、菩提寺の乗っ取り事件が勃発して現在の住職さまになったそうです。

たぶん、同じ檀家の家に訪ね回れば少しは判明するかもしれませんが、兄や母はそれをしてほしくない、と思っています。

帰属問題のなかで、ご先祖さまについて祖父が調べようとしたのかもしれない、という気分になったのかもしれないという説です。

もう1つは単に墓地移転に伴う墓地の確認という説では、そうなると移転する墓石の数を数えるのではなく、戒名の数を数える一覧表となっていること。

でも戒名が空欄や「不明」の文字もあるので、戒名数(ご先祖さまや縁者の数)を数えるという構成にはなっていません。

いずれにしても、墓石簿に記載はあっても墓石が現存していないパターンが発生しています。

母の記憶では墓石を廃棄したことはないので、墓地のどこかに埋設したのではないか、と推測しています。

いまさら墓地の敷地を発掘するわけにもいきませんから、それが墓地のどの辺りに埋設したかは不明です。

 

当初思っていたよりもずっと面倒な作業が増えています。

今のところ代々の俗名が判明したので、目的1は達成しています。

目的2はほぼ完成しましたが、現存墓石の解読で少々やり直しが生じています。

まだまだ道のりは長そうです。


ご先祖さまを探る その5 振り出しに戻る

2025-03-31 22:04:30 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはぜ~んぜん面白くない話なので、ご興味がない方は読み飛ばしてください。

 

先日、父の百日忌でお墓参りに行った際、古い墓石に見覚えがある戒名が目にとまりました。

 

あれ?始祖さま(初代)の戒名がどこにもないぞ。

それに墓石簿と実際の墓石の数が合わないなぁ。

 

こんなことを考えながら、お墓に手を合わせてきました。

あとから母に尋ねました。

「昭和50年くらいに区画整理で墓地を移転したんだよね?墓石の数がどうにも合わないンだけど、捨てたの?」

母は「たぶん埋めたンだと思う。今回、石屋さんを頼んだ時も『古い石は埋めますか?』って言われたけど断った」と言います。

 

そして兄や母には「古い墓石の順番とか、何代目がどこに並んでいるとか知ってる?」と尋ねたところ、2人とも「知らない」とのこと。

そもそも2人とも古い墓石の戒名を読もうとも思ったことがないそうです。

 

とても残念なのは、祖母が少々認知機能が落ちていることと、元々ご先祖さまのことを「ご先祖さま」という括りで拝んでいるので、自分が何代目の妻か、ということに興味を持っていないみたいです。

いや、祖母は責められません。

一般的に自分が会ったことがある直系までしか興味を持たないのが普通です。

私のようにご先祖さまを遡れるだけ洗いざらい調べてみよう、なんていう考えを持つ人はいても、実行に移すのはそう多くないでしょうから。

 

そこでこの日はお墓参りの後に農作業を手伝うことになっていたので、昼休みに墓石を読みに行ってくるか、と。

 

で。読んできました。

読めるもの、読めないものがあるものの亡くなった順番も入り乱れています。

この墓地に移転してきたときの施主は10代(私の祖父Tじいちゃん)も分かってなかったな、と思わされました。

その後私の父が8年程前に墓地の修繕をしていまして、この時に古い墓石の向きを直したのですが、これまた分かっていなかっただろうな、と思われます。

 

さて戒名を判読できなかった墓石に施主の名前が刻字されていました。

名字が記載されていたので、てっきり7代が施主だと思ったら、4代(7代と同名)でした。

4代は江戸時代に生きた人物なので、名字を刻字してるよー、農民なのに。

公文書だと、〇〇村□□衛門とか□□吉とか書くので、名字は通り名扱いのはずなんだよなぁ。

施主は全ての墓石に刻字されているのではなく、余白がある場合のみという感じでした。

その少し離れたところの墓石に施主に知らない名前がありました。

 

弥七郎って誰?

戒名も墓石の風化で途中までしか読めません。

でもその施主が弥七郎なので、戒名の主の親か甥っ子のはずです。

そうなると世代表との見比べになります。

 

墓石簿から、半分くらいしか読めなくとも、該当する墓石が判明します。

50年前ならこの墓石が判読できた、ということです。

すると3代と同世代の人物の戒名と判明。

ということは、2代亀七が施主?

2代亀七は過去帳から俗名が確定できず、暫定亀七となっていました。

状況証拠から、2代は弥七郎となります。

甥っ子の場合、4代源七の兄弟となります。

4代源七…前妻と後妻がいるのでこれまた複雑なんですよねぇ。

 

そこで思い立ったのが、そもそも前提にしている内容が間違っているンじゃあないか、ということ。

2代は暫定弥七郎として仕切り直すとともに、もう一度矛盾点がないか、世代を書き出してみないと、家系図も作れないだろう、と。

 

これにより、これまで過去帳、位牌、墓石簿で突き合わせをしてきたデータに、新たに墓石現物が加わることになります。

完成したと思っていたデータ整備も、新たに1塊のデータを加えるので、振り出しに戻ることになります。

くわえて、墓石の風化が進んでいまして、読めないものもあります。

そうなると30年振りに拓本を取ろうか?という気になってきました。

拓本を取るとなると、12代当主の兄に許可を取る必要があるし、そうなれば始祖さま(初代)以前の家(通称G家)の墓石の拓本も取りたいです。

G家は、3兄弟が仲違いをして、3つの家に分割されたという言い伝えがあります。

要はG家解散、を宣言したンだそうです。

それが1670年代くらいらしく、以降G家の墓地は3兄弟の子孫(3軒)で共同管理をしています。

350年程よりも前から存在する墓石ということになります。

少なくとも3兄弟の次男だった私の実家ては、G家の過去帳は存在しません。

長男家は次男家同様、G家の末代とは激しいケンカ別れをしているので、長男といえども過去帳があるのか不明。

三男家は、G家の末代を引き取っているもののあまりにも激しく長男次男から嫌われていたので、G家の末代が生存中に転居を余儀なくされたそうです。

ゆえにG家の過去帳が存在するとは思えないのです。

 

ま。

墓石現物まで調べる必要を感じているので、まずは実家の墓石を調べるとともに、もう一度矛盾点がないか精査する必要を感じ、振り出しに戻ることにします。


ご先祖さまを探る その4 中興の祖

2025-03-30 06:11:46 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはな~んにも面白くないシリーズなので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 

先日、母に「うちの家系のチューコーノソは5代目だと思う」と話したら、「なんだ?チューコーノソって」とのこと。

歴史に興味なければそんなものだろうな、と思い直しました。

チューコーノソとは、中興の祖。

栄華盛衰の中で、落ち目だった家の経済や世代を立て直した人物のことです。

それは新田開発、治水などはもちろん、世代を繋ぐ子沢山等も含まれます。

 

2代の時代は、元禄関東地震や富士山の宝永噴火という大災害、初代の妻(2代の母親)を早くに亡くし、経済的にも余裕がないのか墓石簿には掲載がありません。

また位牌で戒名はすぐ特定できても、過去帳では最後まで名前の特定が難しかったです。

おそらく2代は自分の親に孫の顔を見せることができなかった唯一の世代ではないか、と思われます。

前世代から次世代へ田畑や命を繋ぐ中継ぎ、この考え方が日本の農家の共通認識だった時代に、かなり苦境に立たされたのが2代です。

 

一方、5代が生きた時代に急激に先祖供養が増えていたので、供養を丁寧にできるほど経済的に上向いてきたのか、と考えていました。

前世代の4代には、前妻と後妻がいるので、それぞれの妻との間に子どもが生まれたとしても、供養している子どもが多すぎないか?と。

それに4代の娘という注釈付きの戒名に院号があります。

ちょっと待って、農村の娘に院号つける?

院号なんて当主だって7代まで付いたことないぞ、と。

それに4代と5代だけなんか他の世代と全然違う漢字を使っていて、とくに5代は目を引く漢字を使っている戒名です。

 

すると過去帳に1人だけ戒名に「道者」とつく人物がいます。6代の伯父と注釈がありました。

伯父ですから、6代から見ると父親の兄です。

年齢差を考慮すると、4代の前妻の子どもが「道者」で、4代の後妻の子どもが5代かも。

道者ははっきりとは分かりませんが、道士だとすれば、僧侶または出家者のことです。

実家の菩提寺では諸事情で修行はできま せんから、おそらくは横浜市北部の某寺か、鎌倉市の某寺のどちらかで修行僧か寺役、寺男でもしていたのではないか、と思われます。

お布施を積めば5代の娘とて院号を付けられた、という立場だったのでは?と。

というか、実家が太ければ「道者」も身を寄せている寺での立場があるでしょうから、せっせと4代と5代がお布施していたのではないか、と想像できます。

なにせこの「道者」、どう考えても70歳くらい生存していたので、4代(父親)、4代の後妻(継母)、5代(弟)、5代の妻(義妹)を見送った以外にも、5代の子ども世代を何人も見送っています。

 

5代は中興の祖ではなく、5代兄がキーパーソンということになります。

 

中興の祖呼ばれるのなら、7代かもしれません。

7代は跡取り娘に婿入りしたのですが、6代の時に火事で家屋が焼け落ちるという事件がありました。

そこから家の経済を立て直し、なおかつ8代を含む4人の男子が成長し、3人は婿養子として他家に入っています。

 

8代は上手に経済を回したものの、結局娘4人を亡くし、無事に成長したのは4人。9代が成長するまで気が気ではない命の綱渡りを感じていたのではないか、と思われます。

 

時代を下った後にしか中興の祖とは分からないものですが、7代を超える中興の祖はまだいません。

次世代以降、中興の祖と言われる傑出した子孫が出現してくれることを願わずにはいられません。

 

ご先祖さまの人柄は想像するしかありませんが、それは創作の分野になりそうです。

私ができるのは、今に残る史料、史実から創作の範囲を超えないように丁寧に史料の辻褄合わせをしていくことです。

それによって浮かび上がる像を確定していこうと思います。


ご先祖さまを探る その3 祖父に惑わされる

2025-03-29 06:42:00 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはな~んにも面白くないシリーズなので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 

さて今回の調べ物には、仏壇の過去帳の記述、仏壇の中の位牌の刻字、50年程前に墓地移転に際して作成された墓石簿の3種を使っています。

過去帳は何度か作り直しているようですが、昭和38年に亡くなった9代の妻の戒名までは同じ筆跡なので、9代(私の曽祖父)が妻が亡くなった後に新調したものと思われます。

位牌は初代〜6代までの位牌を、8代が大正10年に新調しました。これは自身の妻の一周忌にあわせて作り替えたようです。

と言うわけで、原本だが原簿ではない、という状態です。

とくに過去帳は、9代が夕方に仏壇に向かってお経を唱える際に過去帳を手に持って広げていました(9代は私が21歳まで生存していたのでよく覚えています)。

その様子から、8代以前のご先祖さまも手に持って扱っていたことも想定でき、何度となく新調されてきたのではないか、と考えられます。

 

さて最後に墓石簿。

「その1」で紹介した青焼きです。

ちょっと見にくいのですが、祖父の手書き文字で、加筆修正されています。

おそらくは、私のように仏壇の位牌や過去帳と突き合わせていたようなのです。

墓地簿はおそらく、土地区画整理事業の業者さんが作成しています。

そのためか墓石の刻字を読むことを専門にはしていないのではないか、と思われます。

墓石簿作成からすでに50年以上は経過しているので一層判読できない状況が進んでいます。

 

で。

ところどころ、祖父の手書き文字の修正が間違っているンじゃあないか、という疑義が発生しています。

現代と違い、江戸時代までは頻繁に年号が変わるのですがその年号を修正間違いしていないか、と。

また二重線で消したところに「二十三月」と書いてみたり。

 

Tじいちゃん、頼むよー、絶対違うじゃん

 

ま、Tじいちゃんなら「おお、そうか?それならお前が直しておいてくれ」って言うだろうな。

真面目で気のいいおじいさんだったから。

 

まさか祖父の手書き加筆修正に惑わされるだなんて考えもしなかったのです。

祖父の加筆修正は、位牌と過去帳と見比べながら実行したようです。

だがしかし、位牌にも過去帳にもない人物も書き込みがあり、祖父は一体どこからこの戒名を見つけてきたのだろうか?と。

これはこれで謎が深まり、20年前に亡くなった祖父に今更惑わされるとは思ってもみなかったです。


ご先祖さまを探る その2 時代推定

2025-03-28 08:13:55 | 日記

※長文なのと、ご先祖さまに興味がない方にはムダな記事なので、興味の無い方は読み飛ばしてください。

 

私の兄は始祖さま(初代)から12代目。

初代は没年しか分かりませんが、逆算すると1647年頃の生まれと判明。

世代差30年と仮定して30年×12代目=360年。

1647+360=2007年…現在2025年なので、-18年。

平均寿命は江戸時代は50歳ほど、農村部ですから結婚は早めで男性20歳前後、女性17歳前後。

 

ですが私の実家の場合、順当に次世代に命を繋いでいたとは言い難いようです。

比較的綱渡り状態と伺えます。

江戸時代のご先祖さまは、没年月日しか分からないのですが、関係性が分からない子どもや未婚者の戒名を手がかりに、各世代が生きた時代の推定を試みました。

条件1:夫婦間年齢差6歳差以内(後妻は除く)

条件2:当主とその妻は、寿命を5歳刻み、特別な事情を除き50〜75歳とする

条件3:跡取りの出生時の年齢を20〜39歳とする

条件4:当主夫婦以外の戒名は、信士と信女は推定20歳、童子と童女は推定10歳、孩児と孩女は推定5歳未満とする(ただし、童子と童女は便宜上5歳とすることもある)

条件5:その他の戒名は個別に推定する

条件6:当主夫婦と当主夫婦以外の戒名に親子関係(または兄弟関係)に矛盾が生じない年齢差を考慮する

 

以上の条件が成立する時代推定をしてみたら、以下のようになりました。

 

初代:1647年(推定)〜1697年没 推定50歳

初代妻:1652年(推定)〜1702年没 推定50歳

 

2代 1677年(推定)〜1736年没 推定60歳

2代妻 1680年(推定)〜1719年没 推定40歳

 

3代 1707年(推定)〜1771年没 推定65歳

3代妻 1712年(推定)〜1787年没 推定75歳

 

4代 1741年(推定)〜1796年没 推定55歳

4代前妻 1743年(推定)〜1773年没 推定30歳

4代後妻 1749年(推定)〜1799年没

推定50歳

 

5代 1775年(推定)〜1835年没 推定60歳

5代妻 1778年(推定)〜1838年没 推定60歳

 

6代 1804年(推定)〜1879年没 推定75歳

6代妻 1806年(推定)〜1876年没 推定70歳

 

7代 1832年(推定)〜1897年没 推定65歳

7代妻 1838年(推定)〜1922年没 84歳

 

8代以降および当主夫婦以外は割愛。

 

特筆すべきは2代妻が40歳程度で亡くなり後妻がいません。

でも4代には前妻と後妻がいるので前妻は早めに亡くなっています。

ところが5代には兄がいて、どうやっても70歳前後まで生存し、しかも戒名がどう考えても僧侶っぽい。

4代は前妻との男児を出家させて、後妻を娶り後妻の男児を5代とした、とすれば矛盾が無くなります。

 

この仕打ちに現代を生きる私は4代と4代後妻に戦慄しますが、おそらく4代後妻の実家が「跡取りはおらが孫にするなら嫁にやる」という条件付きだったのでしょう。

農村ではそういう条件付きの後妻はそれほど珍しくないので、ま、そんなもんか、と納得するしかありません。

 

また、5代の子ども世代(6代の兄)の1人が欠落者(けつらくしゃ)です。

欠落とは宗門人別改帳(当時の戸籍に相当)から欠け落ちた、という意味です。

この欠落者を供養したのは、もしかしたら前述の4代前妻の男子(僧侶っぽい戒名の人物、5代の兄)かな?と。

この人物はちょっとしたキーパーソンになりそうで、5代の縁者は供養した人数が増えているのです。

 

これまで気づいていなかったご先祖さまの姿が、時代推定をすることで少しずつ浮かび上がってきました。