以前、番組で多摩川の水が流れ込んでいると説明があったが、その後、多摩川の水がどうやって流れ込んでいるのか追跡企画があるのかと思っていたのに、いまだのその企画はない。
非常に残念だ。
埋め立て地であるDASH海岸。
実はDASH海岸の場所はすでにGoogleマップに載っているので調べれば簡単にわかる。
すると気がつく。
あれ?鶴見川河口のすぐ近くだよね?なんで、多摩川の水??
この辺りの地図に詳しくないとわかりにくいのだが、多摩川は、東京都と川崎市に間に河口がある。鶴見川は横浜市に河口がある。
DASH海岸に鶴見川の水が流れ込むなら、地理的に非常に近くて納得できるのだが、多摩川の水が流れ込むというのはどうも納得できないほど離れているのだ。
結果からいうと、DASH海岸に流れ込んでいる真水は、多摩川の上河原取入口と宿河原取入口からの水が合わさっているので、多摩川の中流域の真水が流れ込んでいる。
今日は図書館でみつけた本にその答えになりそうなことが書かれていた。
「二ヶ領用水400年 よみがえる水と緑」(1999年3月 神奈川新聞社発行)の巻末に江戸時代後期の二ヶ領用水水路の構成システムという資料がついている。
これをみると、上記の上河原取入口(稲毛・川崎六拾ヶ村用水)と宿河原取入口(川崎・稲毛弐ヶ領圦下五拾三ヶ村組合用水)が久地堰の手前で、合流して分水樋を通って、川崎領廿三ヶ村稲毛領拾村組合用水(川崎堀)になる。
この川崎堀は、いくつかの堰で分水されながら、鹿嶋田堰で町田用水(町田堀)となり、東海道の小土呂村と市場村の間を通って横浜市の潮田村まで流れていた。
潮田村は、鶴見川沿いの地域なので、おそらくはこのあたりで最後は鶴見川に流れ込んでいたか、当時は埋め立て地がなくて直接海岸(東京湾)に流れ込んでいたかもしれない。
そうなると、先日街歩きの際に見つけたこの案内板の内容が生きてくる訳だ。


わが国初の公営工業用水となったのが昭和14年。久地円筒分水が完成したのは昭和16年。
農業用水として江戸時代初期に開削された二ヶ領用水は、分量樋を巡る騒動の解決策として設置された最新技術の円筒分水を導入したが最終的には臨海部の工業用水となったわけ。
ところが高度成長期が終われば、工業用水としての役割も終え、今は市民の憩いの場になっているのだ。
そう、DASH海岸の真水は、工業用水として使われていた二ヶ領用水の最終地点の1つなのだ。
DASH海岸よりも鶴見川に近いところで東京湾に流れ込む場所はなさそうなので、二ヶ領用水の南端と言えるのではないだろうか?
ちなみにDASH海岸は当然一般人は立ち入り禁止なので、Googleマップとストリートビューで辺りをくまなく目視してみたが、暗渠跡は工場敷地内らしく追うことがすごく難しい。
マンホールの蓋の「雨水」などを追いたいところだが、それもかなり難しい。
面白い企画としては、昔の企画「アヒル隊長」を二ヶ領用水に流してDASH海岸までたどり着くか調査して欲しいのだが、いくつかの堰を通過できても上記の看板がある場所以降はほぼ暗渠になってしまうので難しいだろう。
DASH海岸に流れている真水が多摩川の水であるという証明は、本や史料からしか証明できないのが残念だ。
「多摩川DNA」のような証明ができるものを番組で紹介する企画があったら、ぜひ見たい!
二ヶ領用水の終着地を捜す旅は面白い!
それまで何気ない日常の生活の風景が一変して見える。
歩けばたくさん石碑や記念碑もあるし、案内板もあるし寺社仏閣、石橋、堀のあと、水に関係する地名・字名、暗渠その他もろもろ。
私は川崎の田舎の方にある鶴見川水系の農村部で生まれ育ったせいか、どうも二ヶ領用水に興味が持てない子供だった。
ところが今は違う。二ヶ領用水が面白くて仕方がない。