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makoto's daily handmades

【私見】今帰仁村に足踏み脱穀機が到るまで

相変わらず気になることは調べずにはいられません。
沖縄県今帰仁村の今帰仁村歴史文化センターで見かけたミノル式足踏み脱穀機が収蔵されていることについて、私見をまとめました。
※トップ写真右側の脱穀機です。
長文ですから、お暇な時にご覧ください。

写真左側の文明式は、鹿児島県に本社がある会社なので、島国と九州地方とはいえ物流が想定できました。
今帰仁村には、運天港(うんてんこう)という古くからの海運拠点があり、薩摩藩統治下でも拠点として使われていました。
でも神奈川県川崎市に本社があった細王舎(さいおうしゃ)の足踏み脱穀機がなぜ沖縄県にあるのか、そもそも売れに売れてパクり商品もたくさんあったといわれるミノル式がなぜここにあるのか、とても不思議でした。

それに輪をかけて、現在の今帰仁村では稲作をしていないのに、なぜ?と疑問だらけでした。
実際に3日間も沖縄本島を巡ったのに、田んぼを見かけなかったことが不思議で、気候からすれば二期作ができる沖縄県なのに、田んぼを見かけないことにも私は驚きました。

まずはミノル式足踏み脱穀機を開発した川崎市生田村(いくたむら)の細王舎は、1889(明治22)年創業、1960(昭和35)年廃業です。
足踏み脱穀機を開発したのは1913(大正2)年頃なので販売は47年間となります。
沖縄県では8~10世紀頃に稲作が始まった痕跡はあるそうです。
いわゆる琉球処分により、中国との関係を絶ち、日本政府の元で沖縄県として出発したのが1879(明治12)年。
1945(昭和20)年から1972(昭和47)年までアメリカ統治下で、1960年代に急速に稲作が衰退しました。
理由は相次ぐ台風被害とサトウキビの買い取り価格の高騰により、1952(昭和27)年に発足した琉球政府の判断により外米輸入が当たり前になったからです。
また細王舎では1920年代(昭和初期)には電動脱穀機を販売していましたが、あまり売れなかったようです。
これは電気普及率や電気料金の問題もあるでしょうけれど、足踏みの方が壊れても直しやすかった(電気配線は専門知識が必要)と想像できそうです。
そうなると、1910年代後半(大正初期)頃~せいぜい終戦前に、足踏み脱穀機が今帰仁村に持ち込まれたのではないか、と第1予想をしました。

さて持ち込んだのはどんな人なのか?という疑問を持ちました。
京浜工業地帯の一角を担う川崎市と工業地帯の歴史を調べました。
川崎市にある川崎駅は1872(明治5)年に日本で鉄道開通したその時にすでに鉄道駅が開業(日本で3番目)しました。
1900年代(明治時代末期)には、財閥が投資して重工業を担う都市の1つとなりました。
現在の川崎競馬場の場所に、1924(大正13)年富士瓦斯紡績株式会社川崎工場が創業しました。
富士瓦斯紡績では、全国から女工さんを募集したのですが中でも沖縄出身者を多く採用したそうです。
ただしその前年1923(大正12)年9月には同社川崎工場で154名が亡くなりうち沖縄出身者は48名だったという記録があることと、1910年代(大正初期~中期)に川崎市の工業化が盛んになったのと同時に人口が倍増した時期です。
現在の川崎区では、1893(明治26)年に長十郎梨(ちょうじゅうろうなし)の発見、1896年(明治29)年伝桃(でんもも)の発見、と江戸時代から果物栽培が盛んな地域で、上記の2つの品種は日本中に広まった品種でした。
ほかにもこの地域ではイチジク栽培が盛んで、果物王国川崎と言われていました。
歌人正岡子規は、果物が好物で1902(明治35)年に亡くなるまで、川崎大師参拝のついでに梨や桃を賞味し、川崎の果物を褒める俳句をいくつも残しています。
前述のように川崎駅までは鉄道がありましたし、現在の京急大師線は1899(明治32)年には国内初の電気軌道として開通していたので、正岡子規も乗っていたかもしれません。
さて、工業化が進んだのは現在の川崎区(工場地帯)で、1914(大正3)年のアミガサ事件のきっかけとなる台風、1917(大正6)年台風被害、1918(大正7)年多摩川堤防改修(アミガサ事件の余波による有吉堤等改修)により果物栽培が困難になってきました。
それを決定づけたのが、1917(大正6)年に操業開始した浅野セメント川崎工場の粉塵公害です。
果物の表面に付着した粉塵により、商品として成り立たなくなったことと、浅野セメントによる補償が芳しくなかったこと等により、果樹園が工業用地へと変遷し加速度的に当地は工業化に傾いて行き、人口も増えたことで労働者達の住まいへと変わっていったのです。
ゆえにこの地域では農機具を扱う商店は急速に少なくなってしまい、現在でも川崎区にはJA(農協)はありますが金融特化型です。

さて川崎の工場で働き始めた沖縄出身者達。
「写真集那覇百年のあゆみ」には昭和初期には、女工さん達の集合写真が掲載されています。
富士瓦斯紡績川崎工場では常時6,000人くらいの労働者がいたそうです。
先の関東大震災の死亡者数から考えても3分の1くらいは沖縄出身者と類推できそうです。
当時は言葉や風習の違いで、沖縄出身者同士でまとまって住み、協力しあっていたそうです。
今でも川崎区や横浜市鶴見区(鶴見川を挟んで隣同士の地区)には、沖縄出身者や沖縄にルーツを持つ方が多く住んでいて、その数40,000人と言われています。
そのため当地に住んでいた工場労働者が、今帰仁村に足踏み脱穀機を持ち込んだのではないか、と第2の予想をしました。

次に交通についてです。
細王舎があったのは、1939(昭和14)年までは「神奈川県橘樹郡生田村」と呼ばれた川崎市の中でも少々田舎な農村部です。
鉄道馬車等を乗り継いで行っても、不慣れな土地ではかなり遠い印象でしょう。
前述の川崎駅は日本で3番目に開業した駅ですが、1927(昭和2)年3月に現在のJR南武線、同4月に小田急線が開業します。
川崎駅から南武線で登戸駅まで行き、乗り換えて小田急線登戸稲田駅(現在の向ヶ丘遊園駅)から東生田駅(現在の生田駅)で下車すれば、細王舎に向かうことができます。
もし、沖縄出身の労働者が足踏み脱穀機の噂(仕事が楽になる)を聞きつけて購入することも可能でしょう。
もちろんわざわざ出向かなくても、農業が急速に衰退した工場地帯でなくても、少し離れた地域なら農業用品を扱う商店はあったでしょうから、購入は可能だったかとは思います。
また、当地で購入して沖縄に持ち帰るにしても、横浜港は明治になる前から国際港で1916(大正5)年には第2期築港が完了し東洋一の国際港と呼ばれました。
また工場地帯の発展に伴って1925(大正15)年には川崎港が開港しています。
ただし1923(大正12)年の関東大震災により横浜港は壊滅的被害を受けており、1930(昭和5)年の山下公園開園により震災復興事業が完了するまで、横浜港が少々不便だったことには変わりません。
なお現在、片道50時間ほどかかりますが東京―那覇間はフェリーがあります。
でも東京港の整備は横浜港と川崎港があったために昭和10年代までほぼ整備されていません。
また川崎港は被災した横浜港の臨時代替の役割を持っていました。
横浜港が使えないこの時期、代わりに台頭したのが神戸港です。
第2次世界大戦中には、横浜も川崎も工業地帯は大空襲で焼け野原になりましたから、当時は物流や海運も壊滅的被害を被っています。
また沖縄戦は1945(昭和20)年3月からですし、国家総動員法による生活品の統制が始まったのは1938(昭和13)年です。 
それ以前であれば、前述の通り、今帰仁村には運天港がありますから、船で横浜港か川崎港から足踏み脱穀機を運べば、運天港または那覇港から海運で運び込むのも難しくないと第3の予想をしました。

さて、富士瓦斯紡績川崎工場では恐慌の煽りを受けて、1930(昭和5)年労働争議が起きます。
通称煙突男という世間を騒がせた事件で、結局は労働者側が負けてしまいます。
今も川崎市内には共産党員が多いと言われていますし、労働者の町川崎と言われるのはこう言った労働争議が多かったからです。
舞台となった富士瓦斯紡績川崎工場は、1945(昭和20)年4月15日の川崎大空襲で焼失しました。
この空襲では多くの工場労働者が亡くなっています。

長くなりましたが、第1~第3の予想や戦災の様子から、私は1つの仮説を思いました。
戦前に川崎の工業地帯に出稼ぎに来た女工さん達が、故郷今帰仁村の家族達を思い、農作業が少しでも楽になるように、足踏み脱穀機を買ったのではないかと。
多分1人分の稼ぎでは電動のモノは手が出なかっただろうし、足踏み脱穀機だって1人分の稼ぎでは今後の自分の生活の面倒を見るのは苦しいから、同じ地域出身者でお金を出し合ったのかもしれません。
船便で帰郷する誰かに託して持って帰ったのかもしれません。
労働争議に参加したかは分かりかねますが、少しは待遇が良くなったかもしれません。
割とすぐに戦争が始まりますし、国家総動員法による人とモノの流動はストップするし、空襲もあったし、時代に翻弄される労働者を想像させられました。

足踏み脱穀機を大事に持ち帰り、大事に使っていたけれど稲作もやがて廃れ、サトウキビ栽培中心となった今、今帰仁村歴史文化センターに展示されることになったのではないか、と想像してみました。

この資料館に立ち寄って、展示されていた足踏み脱穀機からここまで想像してしまうだなんて、我ながら想像たくましい性格だな、と思ってしまいます。
一方で「ヤフオクで落札してみてけど、やつぱり要らないから施設に寄付した」とかという裏話くらいかもしれないです。

いつだってこんな調子で調べ物をするのが、私には楽しいだけです。





コメント一覧

makoto-hizikata
せしおさんへ
私も農業体験で蕎麦の脱穀を足踏み脱穀機でやったことがあります。
米の脱穀はやったことはありませんが、大豆も脱穀できるのですね。
今帰仁村の農業センサスを見ると、米、雑穀、大豆の生産はなく、僅かに小麦を生産している程度です。
琉球政府時代にそれまでの農業とは劇的に変わったそうなので、興味深い内容です。
secio11000
前記事のコメントが何かぐちゃぐちゃに成っててすみません<m(__)m>
思い出したのですが、私が子供の頃ご近所で使ってた脱穀機は米より大豆の脱穀に使ってましたな。
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