たそがれオヤジのクタクタ山ある記

主に北関東の山を方向音痴で歩いています。山行計画の参考にされても責任は負いかねます。深慮せず軽く読み流してください。

足尾の山ならオレが連れてってやると息子と一緒に庚申山へ。バテバテになったのはオレの方だった。

2021年11月03日 | 足尾の山
◎2021年10月30日(土)

かじか荘上駐車場(7:54)……一の鳥居(8:47)……庚申山荘(9:57)……庚申山(11:23~11:41)……お山巡りコース分岐(12:06)……(お山巡りコース下り)……旧猿田彦神社跡(13:29)……庚申七滝でうろつき(14:14~14:26)……駐車場(15:19)

 何とか百名山を好んで登る息子にはかねてから言っていた。「足尾の山には勝手に一人で行くな。オレが案内してやるから」と。その息子が遊びに来て、どこの山でもいいから連れて行ってくれと言うので、足尾の山に行くことにした。自分で言うのもなんだが、俗っぽくなった足尾の山からはすっかり遠ざかり、もう一年以上歩いていない。それは別として、自分としてのお薦めはこの時期としては社山南尾根。ただ、南尾根は今の自分に歩ける自信はない。次の候補の中倉山は栃木百名山にも入っていず、紅葉は期待できない。となると、純粋に足尾の山で栃百となると、庚申山、備前楯、鋸山、皇海山となる。袈裟丸は群馬の山と思っている。まぁ足尾入門編なら庚申山が無難だろうで落ち着いた。当初は一般道歩きではおもしろくもないと、笹ミキ沢右岸尾根やら塔の峰経由を考えたが、息子が庚申山に行くなら、ついでに備前楯山にも登りたいと言い出すに至り、楽な一般道、つまりは林道歩きで庚申山に行くことになった。ネットで調べると、タイミング的に林道沿いの紅葉がきれいらしい。だったらそれでもいいか。息子には黙っていたが、庚申山に登ったら、帰路は塔の峰経由で下るつもりでいた。息子は中倉山を知ってはいても、地図には山名もない塔の峰なる山のことはまったく知らない。その場になって、塔の峰経由で備前楯に行けるとでも言うつもりでいる。ただこれは、今にして思えば、自分の衰えた足腰を自覚していない机上のプランに過ぎなかった。
 かじか荘上の駐車場は混んでいた。新たにできたらしい下の駐車場には20台近くでいっぱい。以前からある上の駐車場にも15台ほどあったろうか。ほとんどが出払っている。なかには皇海山に行くのもいるのだろうし、前日に庚申山荘に泊まった人たちもいるはず。こちらと同じく遅い出発も5、6人ほどうろうろしている。ちなみにゲート前には車はなかった。
 ここの林道、歩き出しが地味につらく、丸石沢にかかる橋手前から平坦になる。南東から当たる朝日を浴び、林道沿いの紅葉はきれいできらきらしている。こちらはつい足を止めて写真撮りに夢中になる。息子は、その年の頃の自分と同じで、本人もまた断言していることだが、景色も紅葉もまったく興味なし。山を歩くことだけが目的。脇目も振らずに黙々と歩いて行く。当然、オレとの間が広がっていく。途中、引き止め、「ここでオレが救出されたんだ」と教えたが、返った言葉は「ふ~ん」だった。後になっても言われたことはしっかり覚えているが、その場のオレには暖簾に腕押しの感じ。
 一の鳥居で待っていてくれと言ったから、確かに息子はいたが、オレの姿を見るとさっさと歩き出した。これではオレが休めないじゃないか。おかげでここからきつくなる。同じことが庚申山荘でもあり、オレは仕方なく左に山荘をチラリと見ただけでまた休みもせずに山頂に向かうことになった。登山道が明瞭だからいいものの、あまり距離を離されたくもない。結局は、立ち休みをする繰り返すことになり、とうとう音を上げてしまい、たまたま休んでオレの様子を見ていた息子には、山頂の先の展望地で待っていてくれと伝え、いつもの遅い足取りで歩くことにした。オレの今日の目的は紅葉だと開き直った。
 自分にとってその肝心な紅葉、話は前後するが、鳥居から山荘までの間も、紅葉はなかなか飽きることもなく、さらに水も流れているから、それを見たりしているだけで、どんどん時間が経ってしまう。ただ、残念なことに、盛りだとは思うが、赤が極端に少ない。まず、モミジは見あたらない。元からないところなのだろうか。目立つ色付きは黄色とオレンジが主だ。それと、明るすぎて、露出補正をして撮ればよかったろうが、そのままで撮っていたため、後で結果を見ると鮮やかな紅葉は撮れていなかった。いつもこうやって同じような言い訳をしている。
 庚申山荘を過ぎると、岩間の通過が多くなり、紅葉そのものがどうしても遠くの景色に移ってしまう。小法師岳方面の山肌はきれいだ。目先の紅葉はすでに遅いようで、見るほどのものは次第になくなっていく。
 息子のおかげで、庚申山荘まではハイカーを何人も抜いた。そういえば、林道を歩いている際に、もう下って来たオッサンがいて、おそらく昨夜は山荘泊まりだろうと、皇海山に行きました? と聞くと、残念そうな顔で、鋸山で終わってしまったそうだ。やはり皇海山ねらいだったのか。皇海山にはどこからでも行けるが、定番といったら楽チンコースの不動沢コースになる。その登山口に向かう肝心な栗原林道が通行止めのままになっているのでは、マニアックな歩きに興味がない限り、かつての定番コースの鋸十一峰か六林班峠経由で行くしかなくなるわけで、駐車場にあった車の台数からして、これまでに出会ったハイカーはそう多くはない。まして、山荘から山頂までの間ではだれにも出会うことがなかった。ということは、大方がご苦労にもクラシカルルートで皇海山に登っているのかなと思ったものだが、意に反し、お山巡りコースで庚申山に登る方が意外に多いことに後で気づいた。ここまで記して、自分が何を言いたいのかわからなくなったので、この話題はこれで終わる。落書きになったか。さらにどうでもいいことだが、皇海山は百名山だから登るハイカーもいるわけで、現に、駐車場には九州ナンバーの車もあったが、かつて存在した岩崎百名山に皇海山の名はない。当然だろう。魅力のない山で、遠くから眺める足尾の盟主としての存在感しかない。
 休み休みで岩間歩きから抜け出すと、おとなしい樹林帯の登りになった。それでも自分にはきつく、すでにストックを一本出している。足はスパ地下だったから、岩場の通過には余計に気づかった。現に、スパイクを引っかけてこけそうになっている。休み休みの歩きは続いている。先の紅葉はなくなり、チラリと見える遠望が舞台になってしまった。
 山頂に着くと、息子が待っていた。「山頂先の展望地で待っていろと言ったろ」と言うと、息子もまた「ここに三角点があるから」とわけのわからないことを言う。「どこに三角点があるんだよ」と聞くと、これと指さす。ただの十字を刻んだ標石。「庚申山には三角点はないんだよ」と教えると、「そうだったの」だ。初めての庚申山だから仕方もあるまいが、地形図も持たずにYAMAP地図だけを見て歩いていればそんな歩きになるかもしれない。展望地で待てと言われても、まして初めての山だ。知らないのは無理からぬこと。展望地に向かおうとしたら、山頂の下を、ヘルメットをかぶった老若男女6名ほどのグループが下って行った。一瞬、皇海山にでも行っての帰りかなと、その時は思ったが、帰路ですぐ先で追いつき、歩きが遅いところからして、そんなタイプのグループではないようだった。
 展望地には3人組が食事をしていた。賑わっているかと思っていただけに拍子抜け。ここからの景色だけはいつ来ても飽きることはない。足尾の山の盟主がドンと鎮座し、入り組んだ松木川上流の景観も真下につぶさに見える。オレにとっては、ここにずっといて、間近な尾根や沢型を見ながら、こう行って、ああ行って、もしかして、あそこを歩けやしないだろうかと、夢想にふけるだけでも楽しかった。さらに三俣、シゲト、大平山を見ながらコースを考えてみたりもしたものだ。いつものことをやろうとして失笑した。今はそんな思いは起きない。
 こちらは石に座り込んで菓子パンを食べながら景色を眺めているのに、息子を見ると、立ったまま皇海山をスマホで撮っているだけ。「そこらに座わんないのか」と聞くと、「このままでいい」と、菓子パンを軽く食べはじめた。「備前楯はどうすんだい?」に対しては「もういい。疲れた」との返事。別のコースで帰ろうかと、暗に塔の峰経由を言い出すと、それでもいいとのことだったので、改めて地図を広げる。そこでふと思い出した。かつて、もう7年前になるか、笹ミキ沢右岸尾根から離れて塔の峰尾根に直に上がった際、偶然にもみー猫さんと塔の峰山頂で出会ったことがあるのだが、その際、庚申山を経由せずにずっと登りっぱなしで行ったものだから、かなりつらかった。それを思い出したら急に足が萎えてきた。
 結局、何ということもなく、オーソドックスに、途中からお山巡りコースを下って帰ることになった。息子には条件を付けた。地下タビのピンで滑り落ちる可能性があるから、離れて歩かないでくれと。何で、そんな足で来たのかと息子にたしなめられたが、お山巡りコースを歩くとは思ってもいなかったから仕方もない。そもそも、お山巡りコースは恐いからきらいなのだ。何度も、もう二度と歩くまいと思ったことか。今回の場合、ピストン歩きに少しは変化をつけてやりたかったからで、笑われるが、親心といったようなものからだ。
 またくだらない話だ。展望地にいた3人組の一人が食後に「キジ撃ちに行って来らあ」とヤブの中に入って行った。それまで何の話をしていたのか聞き耳も立てなかったが、その言葉だけはぴんときたので、思わず目を向けると、仲間の女性は、口に食い物を入れたままに「あぁ」と返事をしただけで、ごく自然な対応だった。この3人でよく歩いているんだなとおかしなことに感心してしまった。彼女も同じようなことを普通の感覚で言うのだろう。
 下る。途中で追い抜いた3人に出会う。そしてすぐ先に、先行して下ったヘルメットグループ。普通コースを下るようだ。お山巡りコースの分岐。ストックを収納して入り込む。少し行くと、往路で追い抜いたグループが登って来て通過待ち。これが2回はあったか。その先のことはあまり書きたくない。嫌いなコースなのだから、スリルもひったくれもない。下りのはずなのに、何でこうも巻き巻きの上りが多いのか。自分はヘタって当たり前だが、息子もまたかなり疲れた様子だ。
 ようやく笹ミキ沢右岸尾根にさしかかる。よほどにここを下ろうかと思ったが、その先の1462mピークがかなり高く見え、せっかくここまで下ったのに、あそこにまた登り返すのはかなわんし、尾根から離れる場所を間違えると右往左往することにもなるので、そのまま嶺峯山荘に下った。その間、右に滝があったので見に行ったが、右の黄色の葉が陽をもろに受けて白く写り、せっかくの構図ももったいない。
 旧猿田彦神社跡に着いた。息子も口数が少なくなっている。元より無口な方だ。お山巡りコースでは神経的にもかなり疲れたろう。500mlしか持参していない水は、足が攣った時に漢方薬を服用した際になくなった。息子から水をもらい、車のカギを渡した。この先はゆっくり、往路で見逃した紅葉と庚申七滝の一番上の滝に寄るつもりでいる。だが、もう午後を過ぎると陽の向きも変わり、期待したほどの紅葉を得ることはできなかった。

 帰り道の車の中で、息子に庚申山の感想を聞いた。「つまらなかった」。「その理由は?」
。「……変化があまりなくて」。見た目の変化はあったろうが、確かに一度行けば十分な山かもしれない。そんな山に10回以上行っているオレがここにいる。次は中倉山だろうか。危険を伴ってもいいかと聞くと、そこまではしたくないとのことで、変化のつけ方も工夫しないと。それ以前に、果たして今の自分に歩けるコースをしっかりと吟味しないことには。

 以下、今回は写真の羅列のみ。かなり多かったか。自分の目的は紅葉にあったし、今季、タイミングに合った紅葉にこれから出会えるかわからない。うるさかったらご容赦のほど。































































































































































































 残念ながら、アップで撮れそうなきれいなモミジやらカエデに出会うことはなかった。あくまでも、写り具合はともかく、遠くから見てむんむんした感じの紅葉の気配の写真だけを入れた。これでも満喫した紅葉だった。

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