皆川博子著『たまご猫』は、表題作『たまご猫』のほか、『をぐり』『厨子王』『春の滅び』『朱の檻』『おもいで・ララバイ』『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』『雪物語』『水の館』『骨董屋』の九篇が収められた短編集。
《『たまご猫』
遺書も遺さずに自殺した姉の部屋を片付ける妹の〈わたし〉。文具デザイナーだった姉の散らかり放題の部屋は、姉の心の鏡のようだ。出社する時は人一倍身綺麗だったという余所行きの姿と、よれよれのパジャマ一枚で髪を振り乱して部屋に閉じこもっていたという内向きの姿――。夫との仲もとうに冷え切っており、自殺の直接の原因も思い当たらないと言われる。〈わたし〉は、姉が手首を切ったマットレスの下から卵型の透明な球体を見つけた。硝子だろうか、水晶だろうか…継ぎ目が見当たらないのに、内部に猫の全身が掘り込まれている。仔細に見ると、猫の部分は虚ろになっているのだった。猫は光を翳す角度によって、様々な色の光彩を放った。
卵を砕けば、中の猫も消滅してしまう、謂わば非在の存在――。姉がそうであったように、〈わたし〉も虚ろの猫に魅了されていく…。
『春の滅び』
平凡な主婦だった叔母が一年前の春、失踪した。毎年三月四日に、婚家の人々にはクラス会に出席すると言って、東京を離れて向かった真の訪問先を知っているのは〈わたし〉だけだ。
…七人、殺したのよ。毎年、一人ずつ、七年かかって。今年、八人目。最後の一人を殺すの…叔母が〈わたし〉にだけ告げた言葉だった。
今年の三月四日、叔母に代わって〈わたし〉が尋ねたのは、とある漁村の網元の屋敷だ。床の間には、古びた雛人形が飾られていた。五段の段飾りである。しかし、三人官女も左大臣右大臣も仕丁もいない。最上段の男雛と女雛。それから、七人の男の楽人。残酷な目元の女雛と、世にも優しい顔立ちの年下の男雛。七人の楽人は、六人が二十代後半から三十代前半の貴人で、最も身分の低い篳篥だけが四十手前の人の良さそうな中年男だ。雑誌で取り上げられたその雛人形に魅了され、叔母が思いつめた表情で「片づけを手伝わせて欲しい」と屋敷に押しかけて来たのが、九年前。以来、毎年三月四日に屋敷を訪れ、去年失踪した。叔母は、この家で雛人形の片づけ以外に何かを毎年行っていた。それは、この家の男達だけが知っている。男の一人が、〈わたし〉に誘いをかけてきた…。
『朱の檻』
東北の旧家・久野家が道楽でやっている旅館に取材に訪れた作家の〈私〉。目的は、離れの座敷牢だ。部屋の前面に立ちふさがる牢格子は三寸角はあり、腕が一本くらい通るほどの間隔で並んでいる。薄闇の中に浮かぶ朱塗の牢。この座敷牢に〈私〉は、一晩泊まることにした。二十代で脱疽のために四肢を失い、三十四歳で座敷牢の中で狂死したという三世沢村田之助の心情に少しでも近づきたかったのだ。
鍵をかけられた牢の向こう側から語りかける久野夫人。かつて、この座敷牢に閉じ込められた人は二人。いずれも女だった。二人とも死ぬまで外に出ることはなかった。一人目は、幕末に近い頃、不義をしたという当主の妻。二人目は、久野夫人の大叔母で、久野夫人は子供時分に牢に閉じ込められた白髪の狂女を見た記憶があるという。久野夫人の口から語られる大叔母の犯した事件の顛末とは…。》
「あのね、死人には、未来とか、過去とか、現在とかって、ないの。時間の制約から自由なの」……『雪物語』より
複雑に交錯する時間軸と、曖昧になる彼岸と此岸の境界。「閉所愛好症」とでもいうべき狭い空間で展開される怪奇幻想文学は、反時代的、反社会的な際どい趣向が施されており、作家と読者の間に一種の共犯意識を芽生えさせる。善と悪、幸と不幸、一見相反するように見える現象が、見る者の立ち位置でどうとでも変わる玉虫色の現象にすぎないという、無視されがちな事実を恐れ気も無く表明している。何に幸せを感じるのかは個人の自由であるということが高らかに謳われており、彼我の線引きが出来る者が読めば心地の良い作品集なのだった。
《『たまご猫』
遺書も遺さずに自殺した姉の部屋を片付ける妹の〈わたし〉。文具デザイナーだった姉の散らかり放題の部屋は、姉の心の鏡のようだ。出社する時は人一倍身綺麗だったという余所行きの姿と、よれよれのパジャマ一枚で髪を振り乱して部屋に閉じこもっていたという内向きの姿――。夫との仲もとうに冷え切っており、自殺の直接の原因も思い当たらないと言われる。〈わたし〉は、姉が手首を切ったマットレスの下から卵型の透明な球体を見つけた。硝子だろうか、水晶だろうか…継ぎ目が見当たらないのに、内部に猫の全身が掘り込まれている。仔細に見ると、猫の部分は虚ろになっているのだった。猫は光を翳す角度によって、様々な色の光彩を放った。
卵を砕けば、中の猫も消滅してしまう、謂わば非在の存在――。姉がそうであったように、〈わたし〉も虚ろの猫に魅了されていく…。
『春の滅び』
平凡な主婦だった叔母が一年前の春、失踪した。毎年三月四日に、婚家の人々にはクラス会に出席すると言って、東京を離れて向かった真の訪問先を知っているのは〈わたし〉だけだ。
…七人、殺したのよ。毎年、一人ずつ、七年かかって。今年、八人目。最後の一人を殺すの…叔母が〈わたし〉にだけ告げた言葉だった。
今年の三月四日、叔母に代わって〈わたし〉が尋ねたのは、とある漁村の網元の屋敷だ。床の間には、古びた雛人形が飾られていた。五段の段飾りである。しかし、三人官女も左大臣右大臣も仕丁もいない。最上段の男雛と女雛。それから、七人の男の楽人。残酷な目元の女雛と、世にも優しい顔立ちの年下の男雛。七人の楽人は、六人が二十代後半から三十代前半の貴人で、最も身分の低い篳篥だけが四十手前の人の良さそうな中年男だ。雑誌で取り上げられたその雛人形に魅了され、叔母が思いつめた表情で「片づけを手伝わせて欲しい」と屋敷に押しかけて来たのが、九年前。以来、毎年三月四日に屋敷を訪れ、去年失踪した。叔母は、この家で雛人形の片づけ以外に何かを毎年行っていた。それは、この家の男達だけが知っている。男の一人が、〈わたし〉に誘いをかけてきた…。
『朱の檻』
東北の旧家・久野家が道楽でやっている旅館に取材に訪れた作家の〈私〉。目的は、離れの座敷牢だ。部屋の前面に立ちふさがる牢格子は三寸角はあり、腕が一本くらい通るほどの間隔で並んでいる。薄闇の中に浮かぶ朱塗の牢。この座敷牢に〈私〉は、一晩泊まることにした。二十代で脱疽のために四肢を失い、三十四歳で座敷牢の中で狂死したという三世沢村田之助の心情に少しでも近づきたかったのだ。
鍵をかけられた牢の向こう側から語りかける久野夫人。かつて、この座敷牢に閉じ込められた人は二人。いずれも女だった。二人とも死ぬまで外に出ることはなかった。一人目は、幕末に近い頃、不義をしたという当主の妻。二人目は、久野夫人の大叔母で、久野夫人は子供時分に牢に閉じ込められた白髪の狂女を見た記憶があるという。久野夫人の口から語られる大叔母の犯した事件の顛末とは…。》
「あのね、死人には、未来とか、過去とか、現在とかって、ないの。時間の制約から自由なの」……『雪物語』より
複雑に交錯する時間軸と、曖昧になる彼岸と此岸の境界。「閉所愛好症」とでもいうべき狭い空間で展開される怪奇幻想文学は、反時代的、反社会的な際どい趣向が施されており、作家と読者の間に一種の共犯意識を芽生えさせる。善と悪、幸と不幸、一見相反するように見える現象が、見る者の立ち位置でどうとでも変わる玉虫色の現象にすぎないという、無視されがちな事実を恐れ気も無く表明している。何に幸せを感じるのかは個人の自由であるということが高らかに謳われており、彼我の線引きが出来る者が読めば心地の良い作品集なのだった。