青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

斜陽

2015-09-16 06:15:21 | 日記
九月のNHK『100分de名著』で取りあげられているのが、太宰治の『斜陽』である。
何故今、太宰?しかも、『斜陽』?考えてみれば、これまで『100分de名著』で取り上げられてきたのは、誰もが読んだことは無かったとしても、タイトルくらいは知っている定番中の定番ばかり。だからこそ“名著”なのであり、そう思えば、太宰の晩年の代表作である『斜陽』が取り上げられるのは、何もおかしくないのであるが…。

次々にデビューしては消えていく作家たちの中で、何故、太宰は廃れることなく愛され続けているのだろうか?中でも『人間失格』と、この『斜陽』が、いつの時代にも“今の文学”として多くの人々の心を掴んでいるのは何故だろうか?これを機に、およそ四半世紀ぶりに『斜陽』を読み直してみた。

多くの作家たちが書くことが出来なくなっていた第二次世界大戦中も太宰は精力的に執筆活動を続けていた。『斜陽』についての構想が太宰の口から語られたのは、1946年。前年の1945年8月に第二次世界大戦が終結して間もなくの、日本全土に敗戦の爪痕が深く残っていた時期である。
『斜陽』は、戦後の日本文学最初のベストセラーとなった。「斜陽族」という流行語を生み、社会現象にまでなった。
当初、太宰は、実家の津島家をモデルにして、アントン・チェーホフの晩年の戯曲『櫻の園』の日本版を書くことを構想していた。それが、太田静子の日記を受け取ったことで、内容は大きく変わっていく。太宰は、静子の日記を読み込むことで、静子になりきり、静子をモデルにかず子という人物を作り上げ、『斜陽』を書き上げた。男の立場から女を描いているのではなく、どこまでも女目線なのである。作中の女言葉が生々しい。

登場人物は、かず子、かず子の母、弟の直治、直治が心酔している作家・上原の4人。『斜陽』が他の近代文学と一線を画しているのは、男2人より、女2人の方に比重が置かれている点である。
太宰治が現れるまで、近代文学は男中心の世界ばかりを描いてきた。それは、若い息子たちが、家父長と対立し、乗り越える、或いは打ち負かされる物語で、女は登場しても、内面は無視されていた。近代文学の中で、女たちは、捨てられて死ぬ恋人だったり、夫や子に人生を捧げる母だったりでしかなかったのだ。

『斜陽』の物語は、終戦の翌年の春から始まる。語り手・かず子は、29歳。没落に瀕している華族の長女。周りからお膳立てされた愛の無い結婚生活を送り、6年前、死産を機に実家に戻された。
かず子の母は、息子の直治をして「おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」と言わしめる優雅で可憐な“最後の貴婦人”。マナーを無視した匙使いをしても、奥庭で放尿しても、その破調が却って彼女の無垢な美しさを際立たせるのだ。
かず子は、母に心酔している。そして、自分は絶対に母のようにはなれないとも思っている。だから、母と諍いになると「私は、お母さまのお女中さん」などと卑屈なことを言って泣き出したりする。この母子の諍いは、娘の方が多弁であるにも関わらず、娘の連敗状態、娘の母に対する永遠の片思いという様相なのだ。これは、父と息子、或いは、母と息子の関係では許されない構図である。

叔父からの援助が無くなり、かず子たちの生活は徐々に困窮していった。東京の家を売り払って、伊豆の別荘地で新生活を始めてすぐに、ボヤ騒ぎを起こしたかず子は、しっかりせねばと、畑仕事に精を出すようになる。
伊豆の生活に慣れた頃、かず子は、叔父から直治が戦地から帰還しているということを知らされる。直治はアヘン中毒にかかっていた。直治は家のお金を持ち出して、東京の上原という作家の元へ行き、酒に溺れる荒んだ日々を過ごすようになっていた。
更に不幸は続き、預金封鎖や財産税が課されたことで、かず子の家は、殆どの財産を失ってしまった。

かず子は、再婚するか皇族の屋敷で女中奉公するかの選択を迫られる。そんな生活の中、かず子の母は、結核を患い、病死する。
畑仕事を通じて、能動的な思考を得たかず子は、六年前に一度会ったきりの上原に一方的に手紙を書き送り、母の死後、東京まで会いに行き、彼の子供を身籠った。この時、かず子は直治に「私には、行くところがあるの」「縁談でもないの。私ね、革命家になるの」と告げている。
私生児を身籠るという “女大学”的には、アウトな生き方。しかも、かず子は上原に騙された被害者ではない。自らの意志で上原に手紙を出し、彼の子供を産むという道を選んだのである。女が欲望を表明することがはしたないとされた時代に、自ら選んだ男の子供を産み、シングルマザーとして生きる。それが、かず子の道徳革命だ。これが29歳という若さを失いつつある歳の、徒手空拳の女による社会が求める“女らしさ”への反抗なのだ。かず子は「人間は、恋と革命のために生れて来たのだ」と確信する。

一方で、直治と上原、二人の男たちの革命とは、堕落し、頽廃した生活を“正しい男たち”に見せつけることで、男社会の欺瞞を暴くことだったのだろう。しかし、その方法では、世間からの懲罰には耐えられない。

「僕は下品になりたかった。強く、いや狂暴になりたかった」
「僕は、遊んでも少しも楽しくなかったのです」

この二つの文は、ともに直治の遺書からの抜書きである。他人の目を人一倍気にする男が、他人の批判を受けるのが当たり前の生活を送るのは、殆ど苦行であっただろう。義務のように放蕩を重ねているので、楽しく等あるはずがないのである。
直治の遺書には、「人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です」といも綴られている。しかし、その裏には、本当は生きていたかったという気持ちが隠されていると思うのだ。恥の多い人生を送って来た人間の、今度こそ一からやり直したい、恥ずかしくない人間に生まれ変わりたい、と願う心。しかし、七転八倒してみてもその術が見つからなかったという絶望。それは、社会への敗北宣言である。

登場人物4人のうち、3人が滅びていく『斜陽』の世界観は決して明るくない。しかし、残されたかず子に、太宰は再生への願いを託している。同じ時間の中にいて、上原が「黄昏だ」と見たものを、かず子は「朝ですわ」と感じたのだ。
太宰は、男中心の社会を男の手で内側から変えるのは難しいと考えたのだろう。男中心の社会で、しんどい思いをしているのは、実は女よりも男の方だ。女という外の存在からの革命が男中心の社会を変える…それが男も女も救われる道につながる…太宰は、そう期待したのではないだろうか?

「生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか」……『斜陽』

この言葉が実感を失わないうちは、太宰が古びることはない。そして、人間が生きてある限り、この言葉から実感が失われることは、多分無い。それでも、かず子が感じたような僅かな光を信じて、より良く生きたいと願うのが人間なのだ。太宰がいつも我々の少し先を歩いているのは、それを知っているからであろう。

※NHK『100分de名著』は、毎週水曜午後10時から。今週は、『斜陽』の第3回目です。
コメント