【僕が死にたくなるとき】
いつもだ。
いつもいつでもいつだって、今も、昔も……
……そしてあしただって。
未来もずっと永劫、永遠に、永久に――死にたい。
でも、それは。
それはただの願望だ。望みであり、願いだ。
ただ、僕がヒトである限り、その限りにおいて。
いつか必ずやってくる。
いつでもやってくる可能性がある。
どんなときでも「死ぬかもしれない」という可能性からは逃れられない。
願いは、叶う。もう、叶った、叶っている。
おまえはもう、死んでいる。
言われなくてもわかっていることだ。
はっきりしている。
この曖昧で、限度も加減もわからない、ちょっとやそっとのことで明暗を別つ世界で。
それだけははっきりとしている。
特に疑問も浮かばないような、浮かんでこないような。
当たり前にある死。
それは、何だ?
死の意味は……死ぬ前にあるのは生か。
ならば、死の答えは生にあるのか?
もし、死ぬという出来事に、ご都合主義的に意味を見い出そうとするならば。
生きてみるしかない。
生きて見るしか、無い。
か……
僕にはここに句点を打つ勇気がない。
もちろん、死後の世界を信じているわけではない。
だからといって絶対に存在しないとも、言い切れない。
僕には自信がない。
死んでいる、とうに死んでいる僕にとって、自身さえないのだけれど。
どうやら。
こうやって思考できるのなら。
少なくとも、我思うゆえに我あり、と。
言ってしまっても良いのかもしれない。
言ってしまっても悪くないのかもしれない。
だが、やはり、自信がない。
この思考も、この思考さえ。嗜好も、志向も。
すべてが、疑似的に、創られたモノ――だったとしたら?
まぁ。
それはそれ、そうだったらそうだったで、いいじゃないか。
問題は。
僕は死んだように生きているが、なぜ、いまだに死を迎えていないのか、だ。
僕より悪い人間はさっさとくたばればいい。
しかし。
僕より善いヤツはどうだ?
そういうヤツに限って早死にしたりするだろう?
つまり、つまるところ、どう生きていたって、どんな生き方をしたところで。
なんにも変わらないんだよ。
善いヤツが損をして悪い人間が得をする。
と、いうのはもちろん偏見だが、真実の一側面ではあるだろう。
いや、いやいや、いやいやいや。
真実の一側面。
そんな言い方をしたら身も蓋もない。
逆に言えば、真実でない事象は存在していないのだから。
真実とは、何かを突き止めたとき、人間の誰かによって「真実」と呼ばれるモノじゃあないか。
たとえば教科書に必ず書いてあることは、その後の未来でも必ず真実なのか?
真実は覆されてこそ真実になる。
何を信じるのかは人の勝手だ。
だから聖書を信じたり詐欺師を信じたり占い師を信じたりするのは悪くない。
ただしそれは、マジックを超魔術だと信じるように滑稽である。
そして、地球は回っていると信じていることと大差ない。
つまり、何かを信じること、それ自体がどこか、ズレていて、無駄に面白い。
だから僕は信じない。
何も信じない。
臆面もなく衒いもなく言い直そう。
信じるとは、馬鹿のすることだ。
一気に僕のエリート思考が炸裂した。
ひとつ付け加えておきたい。
何かを信じなければ、なにも得られない。
僕みたいにさ。
―――ぁあ、死にたいよ。
いつもだ。
いつもいつでもいつだって、今も、昔も……
……そしてあしただって。
未来もずっと永劫、永遠に、永久に――死にたい。
でも、それは。
それはただの願望だ。望みであり、願いだ。
ただ、僕がヒトである限り、その限りにおいて。
いつか必ずやってくる。
いつでもやってくる可能性がある。
どんなときでも「死ぬかもしれない」という可能性からは逃れられない。
願いは、叶う。もう、叶った、叶っている。
おまえはもう、死んでいる。
言われなくてもわかっていることだ。
はっきりしている。
この曖昧で、限度も加減もわからない、ちょっとやそっとのことで明暗を別つ世界で。
それだけははっきりとしている。
特に疑問も浮かばないような、浮かんでこないような。
当たり前にある死。
それは、何だ?
死の意味は……死ぬ前にあるのは生か。
ならば、死の答えは生にあるのか?
もし、死ぬという出来事に、ご都合主義的に意味を見い出そうとするならば。
生きてみるしかない。
生きて見るしか、無い。
か……
僕にはここに句点を打つ勇気がない。
もちろん、死後の世界を信じているわけではない。
だからといって絶対に存在しないとも、言い切れない。
僕には自信がない。
死んでいる、とうに死んでいる僕にとって、自身さえないのだけれど。
どうやら。
こうやって思考できるのなら。
少なくとも、我思うゆえに我あり、と。
言ってしまっても良いのかもしれない。
言ってしまっても悪くないのかもしれない。
だが、やはり、自信がない。
この思考も、この思考さえ。嗜好も、志向も。
すべてが、疑似的に、創られたモノ――だったとしたら?
まぁ。
それはそれ、そうだったらそうだったで、いいじゃないか。
問題は。
僕は死んだように生きているが、なぜ、いまだに死を迎えていないのか、だ。
僕より悪い人間はさっさとくたばればいい。
しかし。
僕より善いヤツはどうだ?
そういうヤツに限って早死にしたりするだろう?
つまり、つまるところ、どう生きていたって、どんな生き方をしたところで。
なんにも変わらないんだよ。
善いヤツが損をして悪い人間が得をする。
と、いうのはもちろん偏見だが、真実の一側面ではあるだろう。
いや、いやいや、いやいやいや。
真実の一側面。
そんな言い方をしたら身も蓋もない。
逆に言えば、真実でない事象は存在していないのだから。
真実とは、何かを突き止めたとき、人間の誰かによって「真実」と呼ばれるモノじゃあないか。
たとえば教科書に必ず書いてあることは、その後の未来でも必ず真実なのか?
真実は覆されてこそ真実になる。
何を信じるのかは人の勝手だ。
だから聖書を信じたり詐欺師を信じたり占い師を信じたりするのは悪くない。
ただしそれは、マジックを超魔術だと信じるように滑稽である。
そして、地球は回っていると信じていることと大差ない。
つまり、何かを信じること、それ自体がどこか、ズレていて、無駄に面白い。
だから僕は信じない。
何も信じない。
臆面もなく衒いもなく言い直そう。
信じるとは、馬鹿のすることだ。
一気に僕のエリート思考が炸裂した。
ひとつ付け加えておきたい。
何かを信じなければ、なにも得られない。
僕みたいにさ。
―――ぁあ、死にたいよ。
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