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→音楽の喜び フルートとともに
https://m-fluteangel16.hatenablog.com/
日曜日、私が働いている間男たちは夕飯に、いろいろ作っていました。私がほぼ作らないメニューに挑戦!

焼きそばパン。
フランスパンは次男好物のカリカリの固めの京田辺の「ポップステップ」で買ってきたらしい。
次男は「うまい!うまい!」と焼きそばを口の端から垂らしながらあっという間に完食しました。
夫は彼方昔の学生時代の感傷に浸って「うまいだろ〜!」と満足そうです。
後手作りハンバーグとポテトとサラダ。
男飯の夜は野球とビール。
私もお相伴して満足、満足。
ルネッサンス時代のイタリアの食文化や食マナーは、ほかのどこの諸外国よりも、最先端を行き、他国が手掴みで食べ物を頬張っていたとき、イタリアでは、フォークで食べ物を口に運んでいたそうです。
ルネッサンス当時は、ナイフ担当、すなわちトリチャンテ「切り分け係り」という、専門職が存在していました。
1581年に発行された「トリンチャンテ」マニュアル

メデイチ家の宮廷晩餐会

「トリンチャンテ」という言葉は、いまは「包丁が切れる」とか「肉切り包丁」という意味で使われる、トリンチャンテ(Trinciante)という言葉が、彼らの呼び名です。
晩餐会の役職には
スカルコ(Scalco):晩餐会の総監督。
トリンチャンテ(Trinciante):お客様の前で、肉を切り分ける係り。
クレデンツィエレ(Credenziere):食器担当
ボッティリエレ(Bottigliere):料理に合ったワインを提供するソムリエ。当時のソムリエは、味の確認はもちろんのこと、毒が盛られているかどうかの、毒味の役割もありました。
コッピエレ(Coppiere):主賓にグラスを置き、飲み物を注ぐ係り。肌が白く、手先がよく手入れされた、若い美男子担当。
ソヴラスタンテ(Sovrastante):ウエイター。カップルに一人ついたそうです。

スズキとかマグロなど

アーティチョークは
果物のカテゴリーだったんだ。
メロン、リンゴ、洋ナシなど。



クロスティーニ ディ カテリーナ ディ メディチ”。
ホウレンソウと牛の脳味噌。

フィレンツェ風ビステッカ
キアニーナ牛
などなど
などなど
そしてもちろん音楽も!


オルレアン公アンリとカトリーヌ(1519-1589年)の結婚式。ジョルジョ・ヴァザーリ画。1550年。
カトリーヌはヴァイオリンをアマディに作らせ、
《ポーランド使節のためのバレエ》(the Ballet aux ambassadeurs polonais)は1573年に行われたとされるものです。(《ポーランド人のバレエ》と訳されることもあります。)

1573年にカトリーヌ・ド・メディシス

がポーランドから訪問中の使節のためにテュイルリー宮殿で披露した見世物でした。
振付家は、イタリア出身のバルタザール・ド・ボージョワイユー(イタリア名ではベルジオジョーゾ)で、もともとヴァイオリン奏者であり、カトリーヌに音楽監督と宮廷主席従者に任命されていた宮廷人でした。
歴史家ブランドームによれば、テュイルリー宮殿の大広間で、フランスの16の地方を表す16人の美女を登場させて「世界に比類ない美しいバレエを見せた」そうです。
彼女たちはみごとに規定された正確さで、さまざまな型を見せ、「旋回と一周と方向転換、交錯と混合、対面と休止」を演じました。
そして、それ以上に独創的な新しさを示し、真の意味の宮廷バレエの初めの『王妃のバレエ・コミック(演劇的バレエ)』を上演させました。
このバレエはポーランドからの来賓をもてなす外交の一環として、演じられました。
四方から取り囲む貴賓、観客からその踊りの図形の変化をたのしめました。
観客たちは上から見下ろす形で、演じ手の動きが成す幾何学的な動きを見て楽しんだようです。
このバレエの音楽を担当したと言われているのは
オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso)(1532年 - 1594年)ベルギー、エノー州のモンスに生まれ、

生年は1532年頃とされていますすが厳密には不明。
通称から割り出された氏名はローラン・ドゥラットル(Roland Delattre)。
生い立ちには確証のない逸話がいくつも伝えられています。
中でも最も有名なものは、あまりの比類ない美声に3度も誘拐されてイタリアに辿り着いたというものです。
12歳の時にフェランテ・ゴンザーガに連れられ、北海湾岸のネーデルラントを旅立ち、マントヴァとシチリア、そして(1547年から1549年まで)ミラノに足を運びます。
ミラノ在留中にマドリガーレ作曲家のオステ・ダ・レッジョ(Hoste da Reggio)の面識を得て、初期の作曲様式に影響を受けます。
1550年代初頭からナポリでコンスタンティーノ・カストリオートにより声楽家兼作曲家として雇われました。
ラッソの最初期の作品はこの時期までさかのぼります。
それからローマへ移り、同地のフィレンツェ公家に仕官しました。
1553年には、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長に就任します。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
わずか21歳の人間にとっては華々しい名誉職であったにもかかわらず、ラッソはわずか1年間だけで離職してしまいます(後任はパレストリーナ、1555年着任)。
1554年になると所在についての確たる証拠がなくなるものの、フランスとイングランドを訪問していたといわれています。
1555年にネーデルラントに帰国し、初期作品をアントウェルペンで出版しました(1555年~1556年)。
1556年にバイエルン公アルブレヒト5世(1528-1579年)

の宮廷音楽家に採用されます。ラッソはミュンヘンに勤めるネーデルラント出身者のひとりでここで有名になりました。
1563年には楽長に昇格。
ミュンヘン時代は幸福だったようで、この地に定住することを決め、1568年に所帯をもち、後に作曲家になる息子ふたりをもうけました。

ラッソは終生にわたってバイエルン宮廷に奉公し、アルブレヒト5世とその後継者ヴィルヘルム5世(1548-1626年)

に仕えました。
ラッソが1560年代までにかなり有名になり、ミュンヘンに留学してラッソの門を叩くものも現れるようになりました。
ラッソの名声は限られた音楽界の外にも広まるようになり、1570年には神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世(1527-1576年)

から貴族に叙列されました。
作曲家には異例の待遇でした。
1571年には教皇グレゴリオ13世 (1502-1585年)

より教皇庁騎士に叙任され、黄金拍車勲章を授与されます(作曲家に対する待遇は、それから200年後にモーツァルトに対して行われただけです)。
1571年と1573年には、シャルル9世の招待でフランスを訪問しました。
この時、「王妃のバレエ」を作曲したと思われます。
こうした君主や貴族の中には、より魅力的な地位を申し出てラッソを口説き落とそうとする者もありましたが、ラッソは報酬よりも、自分の地位の確かさと、バイエルン宮廷の申し分のない演奏活動に対する関心が優先したようです。
1580年には、ザクセン公よりドレスデン宮廷への就職を打診された際、ラッソは次のように書き送っています。
「私は自宅からも自宅の庭からも、そのほかのミュンヘンのよいところからも離れたくはないのです。」
(しかしながら別の見方も可能かもしれない。ラッソは結婚するまでに幾多の宮廷を渡り歩くことで、当時の宮廷社会の裏側や暗部を知っていた可能性があり、おそらく、当時の複雑なヨーロッパの社会情勢や宗教界の分裂を考え、家庭を守る意味から、より高い名声や報酬を棒に振ったのでと考えられてもいます。また、当時のヨーロッパ君主や諸侯のかけ引きに乗じることで、主君から慰留のために報酬が上乗せされたのかもしれません)。
ラッソは1570年代後半から1580年代にかけて、数回イタリアを訪れ、当時の最も進んだ音楽様式と流行に遭遇しました。
1590年代には健康が衰え始め、心気症の治療を受けている。
しかし、なお作曲に加えて、時おり旅行に出ることもできました。
絶筆は、精緻を極めた21の宗教マドリガーレからなる曲集《聖ペテロの涙 Lagrime di San Pietro 》で、没後に出版された楽譜(1595年)は、ローマ教皇クレメンス8世に献呈されました。
バレエ音楽は残っていないので、他の曲。
Osculetur Me 彼は私にキスしてくれるでしょう
ちょうど、きのう、バレエを見たきたところでした。チャイコフスキーの頃は、もう、バレエは完成された芸術になっていますね。1870年代に白鳥の湖が完成しているので、オルランド・ディ・ラッソの時代から300年後ですね。(^^)