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→音楽の喜び フルートとともに
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家にいる土曜日。
百合の花も真っ盛り。

カシワバアジサイ

コンペイトウ

ダンスパーティー

池の中には

鯉もいました。

パドヴァ植物園の16世紀の版画 — 元々の場所にある最古の学術植物園




などの著作が著され、ピタゴラス音階への論駁や多声音楽の否定など、のちの音楽の科学や展開に貢献する多くの説が生まれました。
家にいる土曜日。
先週行った緑化センターの写真の整理です。

百合の花も真っ盛り。
冒頭写真はオリエンタルリリー ビッグスマイルです。

オリエンタルリリー トリコロール

オリエンタルリリー カメレオン

カサブランカ

オリエンタルリリー トリコロール

オリエンタルリリー カメレオン

カサブランカ
紫陽花も盛りでした。


カシワバアジサイ

コンペイトウ

ダンスパーティー

アナベル

池の中には

鯉もいました。
学術的な植物園の最古のものは、エジプトのアレクサンドリアにあったアレクサンドリア図書館に隣接して設けられていました。
アレクサンドリアのものは、薬草として使うために、種類ごとに採集、分類して栽培されていたものだと伝えられています。
古代中国の神農(三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたと言われています。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされています。)は、経済的または薬用価値のある植物を探して遠くの地域にコレクターを派遣しました。
薬草栽培は、中世ヨーロッパでは修道院を中心に盛んに行われました。
中世初期の庭園でイスラムスペインの例では医師が造った11世紀ウエルタデル・レイの庭、将来の植物園に似ていたものにトレドのイブンワフィド(999から1075 CE)があります。
モントピーリア医学校もスペインのアラブ人医師によって設立され、西暦1250年までにフィジカルガーデンを備えていました。
ヨーロッパでは、例えば、アリストテレス(384 BCE - 322 BCE)はアテナイのリュケイオンに薬用庭園を持っていました。
パドヴァ大学は、1222年に創立。
パドヴァ大学は、1222年に創立。
イタリアではボローニャ大学に次いで2番目に古い大学です。
特に医学、自然科学の分野での名声を勝ち取り、ガリレオやダンテ、ペトラルカが教鞭を取り、コペルニクスが学んだことでも有名です。
そこに世界遺産に登録された植物園があります。

パドヴァ植物園の16世紀の版画 — 元々の場所にある最古の学術植物園
植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想し、建築家のアンドレア・モロニが設計しました。

1545年5月29日にヴェネツィア共和国議会により設立が許可されました。
ジュスティーナ修道院の一部を植物園にすることで同年7月7日に開園しました。
これは研究目的の大学付属施設の植物園としては世界で最も古いと言われています。
敷地の面積は2.19ha。植物園内には創設当時の設計による庭園が残ります。
庭園は円形を基調とし、主に4つのエリアで区切られています。
植物園内最古の植物は、1585年に植えられたヤシの木です。

ゲーテが1786年にこの植物園を訪れた時に、このヤシの木を見て独自の自然観を得たとも伝わっています。
現在ではゲーテのヤシとも呼ばれています。
また、多くの有名な植物学者がここの「プラエフェクトゥス」(園長)を務めたことがあり、ミズアオイ科(学名のPontederiaceaeは元園長のジュリオ・ポンテデーラに由来)のような彼らの科学的業績にちなんで名付けられた植物もあります。
さらに、この植物園では、ヒマワリの花を、ヨーロッパで最初に開花させることに成功、イタリアで初めてジャガイモの栽培も行われました。
世界遺産には、1997年に登録されました。
トリエント公会議( Concilium Tridentinum,)は、教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の第19回公会議のことです。
プロテスタントの勃興により、追い込まれたカトリック教会が、教義や文化あらゆる側面から討論し、見直しが行われました。
パドヴァ大学の植物園が建てられたのも調度その頃です。
南ヨーロッパの植物園は医療の発展のために大学医学部に関連し、イタリア北部のピサ植物園(1544)、パドヴァの植物園(1545)、センプリチ庭園(1545)、パヴィア王立大学(1558年)ボローニャのオルト・ボタニコ(1568年)dell'Universitàdi Bologna (1568年)などが、その頃続々と建てられています。
ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei, 1520年頃 - 1591年)サンタ・マリーア・ア・モンテ生まれ、フィレンツェ没

は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイ、およびリュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父です。
後期ルネサンス音楽の重要人物で、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。
幼少期よりリュートを学びました。
1562年までにピサに移り、貴族の娘と結婚。
1564年、長男のガリレオ・ガリレイが生まれ( ヴィンチェンツォには、この後、ガリレオを含めて6人または7人の子供が(続々と)誕生します。
1575年、ミケランジェロ・ガリレイが生まれます(ミケランジェロのほうは、成長後、リュート奏者で作曲家となります)。
ヴィンチェンツォは技量の高いリュート奏者で、その前半生においては有力で人脈豊かな後援者達の注目を集めました。
1563年、ヴェネツィアで16世紀における最も重要な音楽理論学者ジョゼッフォ・ツァルリーノと出会い、このツァルリーノの下で学び始めます。
しばらく後、ヴィンチェンツォはカメラータ(ジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵主催による詩人、音楽家、知識人の集まり)に参加し、また古代ギリシア音楽に関する当時随一の学者であったジローラモ・メーイとも交流して、古代ギリシアの音楽や劇を再現することに興味をもつようになります。
1570年代には、ヴィンチェンツォの音楽理論と作曲に対する関心もそのような方向へと向かうようになりました。
その後、ツァルリーノとヴィンチェンツォは音律を巡る激しい論争を引き起こしました。
無伴奏で歌を歌う場合に、純正律を擁護するツァルリーノに対し、ヴィンチェンツォは平均律の優位性を主張しました。
この論争の中で『古代と今日の音楽に関する対話』

などの著作が著され、ピタゴラス音階への論駁や多声音楽の否定など、のちの音楽の科学や展開に貢献する多くの説が生まれました。
ヴェンチェンツィオ ガリレイ
対位法contrapont
2022年、奈良ムジークフェストに行った時、ヴェンチェンツィオ ガリレイの曲が演奏されました。歌と舞曲というギターソロの演奏でした。
ガリレイのコンサート行かれたのですね!
リュートの名人だった彼の作品はよくギター奏者によって演奏されていますね。
生で聴けるなんていいなぁ!