延喜式内社 旧 式下郡 蔵堂
祭神 天之久之比神(アメノクシヒノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)

大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。
天之久之比神は、天津彦根命の御子にして天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)の別名である。(『古史傳』・姓氏録)太玉命に属隷して天孫降臨の時、金工として從った倭鍛冶等の祖である。このことから、この地域に大陸から移って来た渡来人の技術者が多数住居していたたことが考えられる。
元は、今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊予戸氏)の氏神であった。
この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内という。更に南へ行くと、幸市・市町等の小字が残る。
古道・中ツ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にあることから、本社祭礼に近郷から参詣者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。
天正(1573-91)の頃、織田信長と十市氏の戦いで兵火に合い、市場衰退し、田原本藩ができることによって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
祭禮は12月23日、夕刻 青竹の先に鯛を2匹と大根、人参を吊るして神饌とする三夜祭が現在も行われている。
本社祭禮には、壬申の乱の功があった三神を巡る御渡が行われていた。事代主神を云われるこの久須々美神社と、大安寺の森市神社(生霊神)を巡り、本社にもどっていた。元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、御渡りは廃絶し、現在にいたっている。

 

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天之久之比神 「久」と一緒に祀られているから

久須々美・・・

と、いうことは?

美穂****と一緒に祀られているから

美穂須々美?

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村屋坐彌冨都比賣神社 (murayajinja.com)

延喜式内大社で、旧県社、大神神社(オオミワジンジャ)の別宮(※)といわれていた。
日本書記によると、主神 三穂津姫命(ミホツヒメ)は、高皇産霊命(タカミムスビノミコト)の姫神で大物主命(オオモノヌシノミコト)が国譲りをされた時その功に報いるためと大物主命の二心のないようにという願いから、自分の娘を贈られたという神話に出てくる神です。またその時に高天原から3本の稲穂を持って降りられ、稲作を中津国に広め国を豊かにした『内助の功』にあたる神でもあります。
これらの故事等から縁結びの神、家内安全の神、商売繁盛の神として信仰され、大物主命は大神神社の祭神で、その妃神(キサキカミ)を祭っていることから、大神神社の別宮とも称せられています。
かつて、この地では正月の大とんどで大神神社と村屋神社の火種子をもらって帰り、めおと(夫婦)火とし、それで雑煮を炊いて1年の家内安全を家族で祈願していたという習慣が残っていました。また大神神社(夫神)と村屋神社(妻神)を両方お参りすることでいっそう利益が得られると謂われています。

拝殿の千木は美穂神社と同じ・・ような 横並び。

が、両方とも 国津神の様相

最上の屋根の千木も 地千木

と、いうことは・・・

美穂津姫は 国津神の扱い?

岐多志太神社

祭神
以下の二柱を祀る。

天香山命
天児屋根命
社伝では、天香山命は石凝姥命と同一とされ、天児屋根命とともに鏡作坐天照御魂神社と同様の祭神を祀っているとされる。「岐多志太」の社号は「キタ氏の田」という意味であり、キタ(鉄)を鍛える鉄工の神であるという。そして、この地域を根拠地とした物部大木連の一族に、鏡作連の祖である鍛冶師連(きたしのむらじ)があり、この鍛冶師連が奉斎した神社が当社とされる。