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畏敬の念をしればこそ・・見えてくるものがあるのではないか?(再掲載2)

2023年10月13日 | 歴婆の勝手な解釈

古代の歴史の中にうずもれている「経緯」を考えるなかで、

いわゆる、神秘的な部分。霊的な部分。というのを

度外視できないという思いがあった。

出雲大社にしろ

一方では祟りを恐れていたとしか思えない逆結界が張られているとしか思えないが

祟りという「霊的な部分」をそのころの人間がどうとらえていたか。

このあたりは、いっさい、不思議なことを体験したことがない人と

先にかいたような不思議なことを体験したことがある人では、

なにかしら、とらえ方が違うという思いもする。

 

例えば、大国主命の幸魂と奇魂が海から光を伴って現れる。

それを嘘か真か煎じ詰めても仕方がない。

それは、ホタルイカだとか、夜光虫だとか・・・はてには、UFOだとか・・

そんなことはどうでも良いことで

なぜ、大国主命にそのようなことがあったのか、書くのだろう?

神武天皇の弓矢に金色の鳶がとまったのも、

黄金バットのみまちがいかい?

(古くて、判らない?長いこと生きてる黄金バットである)

 

それらが、通じる(そうだろうなあ)という

後ろにある物を見なきゃいけなかろう。

 

例えば、大国主命の幸魂と奇魂が海から光を伴って現れる。

大物主の助力があったとしか思えないような

りっぱな国造りをしてきたからこそ

和魂の出現はさもありなんと

そうだろうなあと思われる。

 

現象の真偽を言うのではない。

だから、代理が先のようなことをいえば

髙橋があほかというわけでwww

これが、仮に人徳高く、日々精進しておれば

お前の言う夢は本当だろうなあ。と、なる。

 

何らかの実働がなければ、

「そういうあほげたこと」をかいて

おかしいと思われずにすまないという計算式は

編集者たちだって、判ろう。

 

仮に祟り神になるという考えが認識されたとして

その祟りを起こすもとになる人間(本人)の感情を掘り下げていければ

歴史の中に何があったか、見えてくる。(はず)

 

そういう感情が、判らなくなってしまうのは

歴史書の欠点?だろう。

 

その部分では、

小説になってくると

多く、仮想でしかないものであるが

その感情を描き出すことができる。

 

それは有りえたことと

有りえるかもしれないという

守備範囲の違いになってくる部分はある。

ところが、

古代になってくると

ありえないだろうという、事が

有った事として描かれる。

 

どうも、ここは、

なんともいえないが

自分の思い込みのたがをはずすことが先になって

全体像がみえなくなってしまう。

 

で、前記のように、

あ、それもあるか。

礼はできないか?

と、一種、普通に生きている人間に対してのような感情をもつタイプには、

不思議でもなんでもない。

もっと、拡大解釈すれば、普通の生活。人間同士で

「良い思いをかけられて、ありがたい」

と、おもわぬほうがおかしかろう?

もっと、いってしまえば

そんな風な良い思いを掛けてもらえる自分で良かったと思えるかどうかであろう。

 

そこからして、

大国主命に大物主があらわれるという

その下にある思想はまた

至誠通天であり、

一生懸命人の為国の為誠を尽くしていれば

神?さえも加勢する。

そういう思想?が、その不可思議な出来事を肯定させる。

 

言い換えれば、

その話を信じれる人は

実際に物事にせいいっぱい人事を尽くしたら

不思議とうまくいったという

その手柄をわがものにせず

不思議な声援とか見えない力がはたらいた。という

いわゆる「おかげ」を信じることができる人だろう。

 

そのあたりの感覚がないと

そんな馬鹿なことはないという真偽にこだわってしまう。

 

自然崇拝、八百万の神とともにくらしてきた古代の人々の

畏れと敬いのDNAはどこかにながれているはずなのに

現代の様に

我勝ちの心や

人の思いにありがたみを感じない世情をみても

蛍だとかUFOだとか

即物的な見方しかできなくなってしまったのかと思わぬでもない。

 


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