ブログ原稿≪書道の歴史概観 その6≫
(2021年2月13日投稿)
【石川九楊『中国書史』はこちらから】
中国書史
今回のブログでは、顔真卿、則天武后、懐素の書を考えてみたい。あわせて、いわゆる「永字八法」「千字文」について説明しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
中国の唐代に「永字八法」の基本形が生まれたと考えられている。日本がやっと本格的に文字を学習し始めた奈良・平安時代ごろである。
最低限見積もっても2万にも及ぶ文字の複雑な点画を八つの基本単位にまで抽象したという意味で画期的であった。石川九楊も、現在でもなお通用する普遍性には舌を巻くと賞賛している。
「永字八法」は単なる基本点画書法にとどまるものではない。横画を三折法(トン・スー・トン)の横画・勒と、トン・スー二折法の横画・策とに区別している。また、左はらいの画も、三折法の「掠」と二折法の「啄」に区別している。
このように、点、横画、縦画、左はらい、右はらいのすべての画に、三折法と二折法の書法があることをふまえ、それが三折法によって統覚されているという思想をもっていると石川は説いている
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、108頁~114頁)。
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書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)
千字文は中国、梁の武帝のとき、周興嗣(521年没)が帝の命をうけて王羲之の字を集めて韻文に排列して作ったものという。千字の異なった文字を集めて、四言二百五十句の韻文としてまとめ上げたものである。「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉呼也」にいたるまで、人間社会、森羅万象について述べたものである。ただ、千字文が文の終わりの方になると意味の流れが悪くなり、「謂語助者、焉哉呼也」(助辞とは焉・哉・呼である)と苦肉の策の句で唐突に終わる。
武帝の命をうけた周興嗣は、一夜にして韻文を作り、その文を上進したが、その苦心の結果、頭髪はすべて真白になったという伝説がある。
「千字文」は漢字による「いろは歌」ともいえる。
中国歴代の書家は、千字文をよく書き、今日書道史に残っているものには、隋代の王羲之7世の孫である智永が「真草千字文」を八百本を書いて浙東の諸寺に納めたという。また、唐代に欧陽詢の「草書千字文」、褚遂良の「楷書千字文」「行書千字文」、懐素の「草書千字文」がある。
日本へは、『古事記』によると、応神天皇16年に百済の王仁(わに)が伝えたという。王羲之の筆跡の模本が天平年間に渡来し、現存する。
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、140頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、28頁~31頁、230頁~239頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、161頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、12頁~13頁)。
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吉丸竹軒 三体千字文
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三體千字文 【新版】
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書と日本人 (新潮文庫)
李家正文は、「書法流伝之図」(元鄭杓作で、『古今図書集成字学典』第85巻)という書家の系譜を紹介している。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、178頁~180頁)
それは、蔡邕(さいよう)からはじまって、やがて王羲之を経て、崔紓(さいしょ)にいたるまでの書家の系譜である。
この系図の中で、王羲之は次のように位置づけられている。
衛夫人(衛恒之従妹)―王曠―王羲之(曠之子)―王献之(羲之之子)―(省略)―釈智永(羲之九世孫)―虞世南―欧陽詢―褚遂良
また、欧陽詢の次に褚遂良のほかに、もう一人陸柬之(世南之甥)を挙げている。そして、次のような系図になる。
陸柬之(世南之甥)―陸彦遠(柬之之子)―張旭(彦遠之孫)―顔真卿としている。そして、この系図の中に、張旭の門下で顔真卿の兄弟子に李陽冰(りようひょう)という者がいる。李白の従叔にあたる。
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書の詩 (1974年)
中唐の革新派に張旭(生没年不詳)がいる。彼は伝統の二王の書法の権威を認めることなしに、新しい書をかいた。こうした風潮が起こった理由はどこにあるのかという問題に関して、社会史的にみた場合に、次のように平山観月は解説している。つまり、そもそも王羲之の書を生み出した社会的基盤は中世の貴族社会である。しかし中唐という時代は、貴族が没落してゆく時代で、それとともに、王羲之のような妍美な書風がすたれるのも当然であるというのである。
これは書だけの問題ではなく、文章の問題でもあった。韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。そしてその韓愈は、王羲之の書については姿媚を追う俗書だと罵っている。このように、王羲之の典型を破ろうとする革新の動きが詩文の改革とともに、当時発生しつつあった。その機運の先鋒に立ったのが張旭であり、その彼が玄宗の開元年間の末に没すると、そのあとをうけて大成した人物が顔真卿(709-785)であった。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、206頁)
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新中国書道史 (1962年)
顔真卿は名門の生まれではあるが、幼時家が貧しかったので、紙筆にとぼしく、黄土で牆(へい)に習字したといわれる。
また家が破れて雨が漏り、その雨痕(あと)の色々な形を見て大いに書法をさとったといわれ、「顔の屋漏痕(おくろうこん)」という。
文に長じ、書に巧みなばかりでなく、一身すべて忠節の権化ともいうべき大人物である。洛陽にのりこんだ安禄山に、義勇軍をあげて立ち向かった。
玄宗から帝位をゆずられた肅宗は、そんな顔真卿を法務大臣に任命して、綱紀の粛清をはかった。「争座位文稿」はそんな時に書かれた56歳の時の書である。それは座位を争って郭僕射に送った文稿である。「祭姪稿」「祭伯稿」とともに顔真卿の三稿として有名である。不用意に書いたといわれる「率意の書」であるために、顔真卿の性情がみられるといわれる。古来、「蘭亭序」とともに行書の二大双璧といわれ、また顔真卿の書として第一位に推されてきたが、「祭姪稿」の方が格調が高いとされる。
ともあれ、「争座位文稿」は「蘭亭序」の媚に対して、率意のうちに醸し出された渾樸の妙趣があるといわれる。顔真卿の楷書を大いにけなした宋代の米芾も、この「争座位文稿」だけは顔書の第一として推称した。
「千福寺多宝塔感応碑」(752年)は、唐の天宝11年(752年)、長安の平福寺に勅建したもので、僧楚金(698-759)の舎利塔碑である。43歳という最もはやい頃の書で、もっぱら欧陽詢・虞世南などの書を学んだと思われる時代のものであるようだ。だから、後半の顔法すなわち風骨遒峻、風稜人を射るごとき趣はいまだみられないといわれる。この多宝塔の拓本は、楷書の手本を適するところから、ひろく書学者の間で愛翫されてきた。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、228頁~229頁、245頁~246頁。鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、63頁~65頁。榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版、62頁~63頁)
「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」は63歳の時の書である。麻姑とは仙人のこと、仙壇とは仙人のいる山のことであり、筆力深遠円熟の作であると評される。しかし、脂ぎっている書であるために、日本人の性情に合わないせいか、あまり日本人には迎えられないという。この点、褚遂良の方は日本的情趣が豊かであるために、受け入れやすい。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、64頁)
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新説和漢書道史
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書の歴史―中国と日本 (1970年)
顔真卿は、唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感のつよい剛直の士で、王羲之のような貴族的な書は全く意に満たなかった。顔真卿が求めた書風は、妍美なものに反撥し、男性的な重みと、剛気とにみち溢れた主体的なものの表現であったと平山はみている。革新派の流れをくむ宋の蘇軾は、顔真卿の書に、最上級の讃辞を贈っている。ともあれ、顔真卿の書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立ち、中国書道史上、王羲之と並んで二大宗師と謳われる。
(平山、1965年[1972年版]、206頁~207頁)
中唐の顔真卿の「祭姪稿(さいてつこう)」は、「争座位稿」「祭伯稿」と共に、三稿として有名である。「祭姪稿」は、明快、ズバズバと書きおろし、独特なふくらみのある逞しい線で書かれている。数多く残されている碑文も、碑ごとに書相を異にしていたので、「真卿の一碑一面貌」といわれている。空海は顔真卿没後に入唐したが、空海の名蹟「灌頂記」はこの「祭姪稿」の影響が多いといわれている。
(鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年、121頁)
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書道入門 (行書編)
顔真卿の個性的な我侭は、書法上に大きく投影していた王羲之を乗り越えて、一格を形成することに成功したと理解されている。この顔真卿あたりから、書は技術的内容から、人間的、精神的内容へと比重が移行しかけ、やがて宋代の書のごとき時代思想の影響を受けた作品が産出されるにいたる。書作上における思想的傾向は、唐代においては顔真卿ばかりでなく、張旭(ちょうきょく)や懐素(かいそ)にも見られる現象だが、宋代に入って蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾の四家が輩出するにいたる(青山、1971年[1980年版]、117頁)。
顔真卿の楷書の姿は「蚕頭燕尾」と言われる。起筆は蚕の頭のように角を失って丸く大きくなり、燕の尾っぽのように、はらいの先が細く長く伸びている。この形は起筆を送筆気味に紙の奥深くへ打ち込み、その反撥する力にのっかりながら終筆へ向かい、終筆で再び紙の奥深くへ抑えこむ筆蝕によって描き出される。
ところで、高村光太郎は「美について」の中で、顔真卿について次のように書いた。「顔真卿はまつたくその書のやうに人生の造型機構に通達した偉人である」と。
石川九楊はこの説に必ずしも同意していない。その石川は、顔真卿の書について、「筆蝕」つまり「書くこと」の姿を字画の外部に露出させることによって、初唐代とは異なった新しい段階(ステージ)に立ったと語っている
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、178頁~179頁)。
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書と文字は面白い (新潮文庫)
書に向勢(向きあう)と背勢(背中合わせになる)という二種の文字結構(構成)法がある。書の歴史も向勢と背勢、そして直勢の織りなすドラマであると石川は捉えている。
「楷法の極則」と呼称される、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、「皇甫誕碑」や「温彦博碑」の背勢を内に含んだ、直勢や背勢によって成立している。起筆を強めることによって生じる直勢や背勢によって楷書の文字の構成美は完成し、頂点を極めたという。この後、顔真卿はあからさまな向勢のなまなましい線によって、表現美へと書の歴史的ステージを押し上げた。
ところで、一般的に、向勢は膨張形と受感され、暖かさ、温(ぬく)み、軟らかさ、鈍さ、安定、解放に馴染むようだ。一方、抑圧に耐える姿を連想するところから、背勢は冷たさ、寒さ、強さ、硬さ、厳しさ、鋭さ、屹立(きつりつ)、閉鎖の雰囲気を醸し出すといわれる(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、109頁~110頁)。
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現代作家100人の字 (新潮文庫)
則天武后は、中国史上まれにみる女傑である。并州文水(山西省)の人で、第3代高宗の皇后であった。はじめ太宗の後宮に入って才人に選ばれて、太宗の崩じたとき、剃髪して尼となったが、高宗に望まれて髪をたくわえ、再び後宮に入り、その寵を得て、655年皇后となった。武后33歳の時である。
則天武后の書は太宗の影響をうけて、堂々たるものがあり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも勁いといわれる。
(平山、1965年[1972年版]、254頁~255頁)
高宗が崩じてからは、形式的には実子である中宗・睿宗を立てたが、実権を握り、690年、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と号した。その業績については、政治家としてみるべきものがあったとする説と、唐の宗室をほとんど傾けさせたことに対する非難とが相半ばしている。
則天武后は書にも精通しており、「昇仙太子碑(しょうせんたいしひ)」(699年)は今に残っている。この碑は河南省偃師県の東南の緱山(こうざん)の昇仙太子廟にある。昇仙太子というのは、周の霊王の太子晋のことで、王子晋といわれ、仙道をおさめ、白鶴に乗って緱氏山上から昇天したと伝えられている。
則天武后は国号を周と改め、河南の嵩岳(すうがく)に行幸して封禅の礼を行なった。行幸の際、廟の修築を命じ、碑を建立させたのである。
唐の王室は老子をその祖としたのに対して、武氏は周王室の姫姓(きせい)の出であるとして、その宗室の仙人を尊んで、アピールしたのである。
この碑の書は草書で、石刻では最初の例とされ、また女性の書碑として珍しいものとされている。武后の書は太宗の影響をうけ、王羲之の書をよく学んでいる。同じく太宗を学んだ高宗にくらべると、強く豊かであると真田は評している。また、この碑文の中には、武后の時代に作られたいわゆる則天文字(たとえば、○(星)など)が用いられている。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、201頁~204頁)
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中国書道史〈上巻〉 (1967年)
書は音楽にも親しい表現であるといわれる。哲学者・西田幾多郎は、「書の美」というエッセイの中で、「音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捕らはれることなく、直にリズムそのものを表現する」と書いた。
書にかぎらず、中国には春秋戦国時代から同質であって長短等しくないさまを参差(しんし)と言い、「参差不斉」なる言葉があって、参差が美を構成する上で不可欠と考えられていた。ちなみに参差とは竹の管を束ねた簫(笛)のことであるという。書は参差、つまり音階の芸術でもあった。書は強弱を基盤とする書字の律動(筆蝕)の上に成立する。
唐代の懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であるといわれる。石川はその筆蝕をひとつの交響曲として理解している。西欧古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、この懐素の「自叙帖」を嚆矢とすると捉えている。古法=歴史的書法=二折法は、書史上においては懐素の「自叙帖」によって、完膚なきまでに粉砕されたとみる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、205頁、216頁)。
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中国書史
(2021年2月13日投稿)
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中国書史
【はじめに】
今回のブログでは、顔真卿、則天武后、懐素の書を考えてみたい。あわせて、いわゆる「永字八法」「千字文」について説明しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・「永字八法」について
・「千字文」について
・「書法流伝之図」について
・顔真卿について
・向勢と背勢について
・則天武后(623~705)の書について
・懐素の「自叙帖」について
「永字八法」について
中国の唐代に「永字八法」の基本形が生まれたと考えられている。日本がやっと本格的に文字を学習し始めた奈良・平安時代ごろである。
最低限見積もっても2万にも及ぶ文字の複雑な点画を八つの基本単位にまで抽象したという意味で画期的であった。石川九楊も、現在でもなお通用する普遍性には舌を巻くと賞賛している。
「永字八法」は単なる基本点画書法にとどまるものではない。横画を三折法(トン・スー・トン)の横画・勒と、トン・スー二折法の横画・策とに区別している。また、左はらいの画も、三折法の「掠」と二折法の「啄」に区別している。
このように、点、横画、縦画、左はらい、右はらいのすべての画に、三折法と二折法の書法があることをふまえ、それが三折法によって統覚されているという思想をもっていると石川は説いている
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、108頁~114頁)。
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書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)
「千字文」について
千字文は中国、梁の武帝のとき、周興嗣(521年没)が帝の命をうけて王羲之の字を集めて韻文に排列して作ったものという。千字の異なった文字を集めて、四言二百五十句の韻文としてまとめ上げたものである。「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉呼也」にいたるまで、人間社会、森羅万象について述べたものである。ただ、千字文が文の終わりの方になると意味の流れが悪くなり、「謂語助者、焉哉呼也」(助辞とは焉・哉・呼である)と苦肉の策の句で唐突に終わる。
武帝の命をうけた周興嗣は、一夜にして韻文を作り、その文を上進したが、その苦心の結果、頭髪はすべて真白になったという伝説がある。
「千字文」は漢字による「いろは歌」ともいえる。
中国歴代の書家は、千字文をよく書き、今日書道史に残っているものには、隋代の王羲之7世の孫である智永が「真草千字文」を八百本を書いて浙東の諸寺に納めたという。また、唐代に欧陽詢の「草書千字文」、褚遂良の「楷書千字文」「行書千字文」、懐素の「草書千字文」がある。
日本へは、『古事記』によると、応神天皇16年に百済の王仁(わに)が伝えたという。王羲之の筆跡の模本が天平年間に渡来し、現存する。
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、140頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、28頁~31頁、230頁~239頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、161頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、12頁~13頁)。
【吉丸竹軒『三体千字文』金園社はこちらから】
吉丸竹軒 三体千字文
【小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂はこちらから】
三體千字文 【新版】
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書と日本人 (新潮文庫)
「書法流伝之図」について
李家正文は、「書法流伝之図」(元鄭杓作で、『古今図書集成字学典』第85巻)という書家の系譜を紹介している。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、178頁~180頁)
それは、蔡邕(さいよう)からはじまって、やがて王羲之を経て、崔紓(さいしょ)にいたるまでの書家の系譜である。
この系図の中で、王羲之は次のように位置づけられている。
衛夫人(衛恒之従妹)―王曠―王羲之(曠之子)―王献之(羲之之子)―(省略)―釈智永(羲之九世孫)―虞世南―欧陽詢―褚遂良
また、欧陽詢の次に褚遂良のほかに、もう一人陸柬之(世南之甥)を挙げている。そして、次のような系図になる。
陸柬之(世南之甥)―陸彦遠(柬之之子)―張旭(彦遠之孫)―顔真卿としている。そして、この系図の中に、張旭の門下で顔真卿の兄弟子に李陽冰(りようひょう)という者がいる。李白の従叔にあたる。
【李家正文『書の詩』木耳社はこちらから】
書の詩 (1974年)
顔真卿について
中唐の革新派に張旭(生没年不詳)がいる。彼は伝統の二王の書法の権威を認めることなしに、新しい書をかいた。こうした風潮が起こった理由はどこにあるのかという問題に関して、社会史的にみた場合に、次のように平山観月は解説している。つまり、そもそも王羲之の書を生み出した社会的基盤は中世の貴族社会である。しかし中唐という時代は、貴族が没落してゆく時代で、それとともに、王羲之のような妍美な書風がすたれるのも当然であるというのである。
これは書だけの問題ではなく、文章の問題でもあった。韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。そしてその韓愈は、王羲之の書については姿媚を追う俗書だと罵っている。このように、王羲之の典型を破ろうとする革新の動きが詩文の改革とともに、当時発生しつつあった。その機運の先鋒に立ったのが張旭であり、その彼が玄宗の開元年間の末に没すると、そのあとをうけて大成した人物が顔真卿(709-785)であった。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、206頁)
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新中国書道史 (1962年)
顔真卿は名門の生まれではあるが、幼時家が貧しかったので、紙筆にとぼしく、黄土で牆(へい)に習字したといわれる。
また家が破れて雨が漏り、その雨痕(あと)の色々な形を見て大いに書法をさとったといわれ、「顔の屋漏痕(おくろうこん)」という。
文に長じ、書に巧みなばかりでなく、一身すべて忠節の権化ともいうべき大人物である。洛陽にのりこんだ安禄山に、義勇軍をあげて立ち向かった。
玄宗から帝位をゆずられた肅宗は、そんな顔真卿を法務大臣に任命して、綱紀の粛清をはかった。「争座位文稿」はそんな時に書かれた56歳の時の書である。それは座位を争って郭僕射に送った文稿である。「祭姪稿」「祭伯稿」とともに顔真卿の三稿として有名である。不用意に書いたといわれる「率意の書」であるために、顔真卿の性情がみられるといわれる。古来、「蘭亭序」とともに行書の二大双璧といわれ、また顔真卿の書として第一位に推されてきたが、「祭姪稿」の方が格調が高いとされる。
ともあれ、「争座位文稿」は「蘭亭序」の媚に対して、率意のうちに醸し出された渾樸の妙趣があるといわれる。顔真卿の楷書を大いにけなした宋代の米芾も、この「争座位文稿」だけは顔書の第一として推称した。
「千福寺多宝塔感応碑」(752年)は、唐の天宝11年(752年)、長安の平福寺に勅建したもので、僧楚金(698-759)の舎利塔碑である。43歳という最もはやい頃の書で、もっぱら欧陽詢・虞世南などの書を学んだと思われる時代のものであるようだ。だから、後半の顔法すなわち風骨遒峻、風稜人を射るごとき趣はいまだみられないといわれる。この多宝塔の拓本は、楷書の手本を適するところから、ひろく書学者の間で愛翫されてきた。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、228頁~229頁、245頁~246頁。鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、63頁~65頁。榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版、62頁~63頁)
「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」は63歳の時の書である。麻姑とは仙人のこと、仙壇とは仙人のいる山のことであり、筆力深遠円熟の作であると評される。しかし、脂ぎっている書であるために、日本人の性情に合わないせいか、あまり日本人には迎えられないという。この点、褚遂良の方は日本的情趣が豊かであるために、受け入れやすい。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、64頁)
【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】
新説和漢書道史
【榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社はこちらから】
書の歴史―中国と日本 (1970年)
顔真卿は、唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感のつよい剛直の士で、王羲之のような貴族的な書は全く意に満たなかった。顔真卿が求めた書風は、妍美なものに反撥し、男性的な重みと、剛気とにみち溢れた主体的なものの表現であったと平山はみている。革新派の流れをくむ宋の蘇軾は、顔真卿の書に、最上級の讃辞を贈っている。ともあれ、顔真卿の書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立ち、中国書道史上、王羲之と並んで二大宗師と謳われる。
(平山、1965年[1972年版]、206頁~207頁)
中唐の顔真卿の「祭姪稿(さいてつこう)」は、「争座位稿」「祭伯稿」と共に、三稿として有名である。「祭姪稿」は、明快、ズバズバと書きおろし、独特なふくらみのある逞しい線で書かれている。数多く残されている碑文も、碑ごとに書相を異にしていたので、「真卿の一碑一面貌」といわれている。空海は顔真卿没後に入唐したが、空海の名蹟「灌頂記」はこの「祭姪稿」の影響が多いといわれている。
(鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年、121頁)
【鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社はこちらから】
書道入門 (行書編)
顔真卿の個性的な我侭は、書法上に大きく投影していた王羲之を乗り越えて、一格を形成することに成功したと理解されている。この顔真卿あたりから、書は技術的内容から、人間的、精神的内容へと比重が移行しかけ、やがて宋代の書のごとき時代思想の影響を受けた作品が産出されるにいたる。書作上における思想的傾向は、唐代においては顔真卿ばかりでなく、張旭(ちょうきょく)や懐素(かいそ)にも見られる現象だが、宋代に入って蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾の四家が輩出するにいたる(青山、1971年[1980年版]、117頁)。
顔真卿の楷書の姿は「蚕頭燕尾」と言われる。起筆は蚕の頭のように角を失って丸く大きくなり、燕の尾っぽのように、はらいの先が細く長く伸びている。この形は起筆を送筆気味に紙の奥深くへ打ち込み、その反撥する力にのっかりながら終筆へ向かい、終筆で再び紙の奥深くへ抑えこむ筆蝕によって描き出される。
ところで、高村光太郎は「美について」の中で、顔真卿について次のように書いた。「顔真卿はまつたくその書のやうに人生の造型機構に通達した偉人である」と。
石川九楊はこの説に必ずしも同意していない。その石川は、顔真卿の書について、「筆蝕」つまり「書くこと」の姿を字画の外部に露出させることによって、初唐代とは異なった新しい段階(ステージ)に立ったと語っている
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、178頁~179頁)。
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書と文字は面白い (新潮文庫)
向勢と背勢について
書に向勢(向きあう)と背勢(背中合わせになる)という二種の文字結構(構成)法がある。書の歴史も向勢と背勢、そして直勢の織りなすドラマであると石川は捉えている。
「楷法の極則」と呼称される、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、「皇甫誕碑」や「温彦博碑」の背勢を内に含んだ、直勢や背勢によって成立している。起筆を強めることによって生じる直勢や背勢によって楷書の文字の構成美は完成し、頂点を極めたという。この後、顔真卿はあからさまな向勢のなまなましい線によって、表現美へと書の歴史的ステージを押し上げた。
ところで、一般的に、向勢は膨張形と受感され、暖かさ、温(ぬく)み、軟らかさ、鈍さ、安定、解放に馴染むようだ。一方、抑圧に耐える姿を連想するところから、背勢は冷たさ、寒さ、強さ、硬さ、厳しさ、鋭さ、屹立(きつりつ)、閉鎖の雰囲気を醸し出すといわれる(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、109頁~110頁)。
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現代作家100人の字 (新潮文庫)
則天武后(623~705)の書について
則天武后は、中国史上まれにみる女傑である。并州文水(山西省)の人で、第3代高宗の皇后であった。はじめ太宗の後宮に入って才人に選ばれて、太宗の崩じたとき、剃髪して尼となったが、高宗に望まれて髪をたくわえ、再び後宮に入り、その寵を得て、655年皇后となった。武后33歳の時である。
則天武后の書は太宗の影響をうけて、堂々たるものがあり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも勁いといわれる。
(平山、1965年[1972年版]、254頁~255頁)
高宗が崩じてからは、形式的には実子である中宗・睿宗を立てたが、実権を握り、690年、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と号した。その業績については、政治家としてみるべきものがあったとする説と、唐の宗室をほとんど傾けさせたことに対する非難とが相半ばしている。
則天武后は書にも精通しており、「昇仙太子碑(しょうせんたいしひ)」(699年)は今に残っている。この碑は河南省偃師県の東南の緱山(こうざん)の昇仙太子廟にある。昇仙太子というのは、周の霊王の太子晋のことで、王子晋といわれ、仙道をおさめ、白鶴に乗って緱氏山上から昇天したと伝えられている。
則天武后は国号を周と改め、河南の嵩岳(すうがく)に行幸して封禅の礼を行なった。行幸の際、廟の修築を命じ、碑を建立させたのである。
唐の王室は老子をその祖としたのに対して、武氏は周王室の姫姓(きせい)の出であるとして、その宗室の仙人を尊んで、アピールしたのである。
この碑の書は草書で、石刻では最初の例とされ、また女性の書碑として珍しいものとされている。武后の書は太宗の影響をうけ、王羲之の書をよく学んでいる。同じく太宗を学んだ高宗にくらべると、強く豊かであると真田は評している。また、この碑文の中には、武后の時代に作られたいわゆる則天文字(たとえば、○(星)など)が用いられている。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、201頁~204頁)
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中国書道史〈上巻〉 (1967年)
懐素の「自叙帖」について
書は音楽にも親しい表現であるといわれる。哲学者・西田幾多郎は、「書の美」というエッセイの中で、「音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捕らはれることなく、直にリズムそのものを表現する」と書いた。
書にかぎらず、中国には春秋戦国時代から同質であって長短等しくないさまを参差(しんし)と言い、「参差不斉」なる言葉があって、参差が美を構成する上で不可欠と考えられていた。ちなみに参差とは竹の管を束ねた簫(笛)のことであるという。書は参差、つまり音階の芸術でもあった。書は強弱を基盤とする書字の律動(筆蝕)の上に成立する。
唐代の懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であるといわれる。石川はその筆蝕をひとつの交響曲として理解している。西欧古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、この懐素の「自叙帖」を嚆矢とすると捉えている。古法=歴史的書法=二折法は、書史上においては懐素の「自叙帖」によって、完膚なきまでに粉砕されたとみる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、205頁、216頁)。
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中国書史
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