≪東南アジアの歴史と文化【補足】~高校世界史より≫
(2023年11月14日投稿)
インターネットのルーターの故障により、ブログの更新が滞ってしまった。
今回のブログでは、高校世界史の東南アジア(前近代)、とりわけ、ボロブドゥールとアンコール=ワットについて、どのように記述されていたかについて、再度みておきたい。
参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
とりわけ、『世界史B』(東京書籍)およびその英文において、8世紀という時代とボロブドゥーについて、取り上げており、注目すべき視点を提供していた。
作家・田中阿里子は『ボロブドウル幻想』(徳間文庫、1993年)において、ボロブドゥールについて述べている。8世紀という時代とボロブドゥールという視点は、改めて重要な考え方だと思う。
(ボロブドゥールとアンコール=ワットについては、後日、改めて詳しく解説してみたい)
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
第6章 東南アジア世界
1 海の道の形成と東南アジア
2 東南アジア諸国家の再編成
第6章 東南アジア世界
ユーラシア大陸東南部には、高温多湿の熱帯から亜熱帯に属し、夏にはインド洋から、冬には南シナ海から吹く二つの季節風のもたらす潤沢な雨量と、熱帯の豊富な熱量にめぐまれた東南アジア地域に広がる。それらは、うっそうとした森と水量豊かな大河からなる自然環境を生みだしている。そこには高床式住居の村落、巻きスカート型の衣服、魚と米の食文化など、環境に対応した共通の文化をもつ世界が広がっている。また、山や岩、樹木など、自然を崇拝する精霊信仰や祖先信仰が生きている。この東南アジアの基層文化は、日本のそれと同質である。
東南アジアの環境は大きく三つに分かれる。北部の山地は、森林にめぐまれた照葉樹林で、西日本の気候とよく似ている。大陸部の平原には、稲作に適した熱帯サバンナ地帯が広がり、島嶼部はおおむね熱帯雨林におおわれ、香辛料などの国際商品を生みだした。北部の山地と平原は、西からイラワディ川、チャオプラヤ川、メコン川、紅河(ホン川)などの大河川の水路で結ばれており、大陸と島嶼はマラッカ海峡など、無数の海路で緊密に結ばれている。
東南アジアは、地域全体で用いられる共通の言語や宗教をもたない。また、歴史上、一度も地域全体を統合する政治勢力はあらわれなかった。
東南アジアは海に囲まれている。その海は、南シナ海とインド洋という、豊かで広大な市場をもつ海である。東南アジアは、東西の両市場を海で結ぶ地域であった。と同時に、古代では香辛料や象牙など、近代ではコーヒー、砂糖、ゴムなど、世界が求める熱帯物産を生みだす地域でもあった。東南アジアには、自給的な面と、国際商業に対応する面との、二つの面がある。
国際市場と強い関係をもった東南アジアは、隣接するインドや中国などの文明の影響を強く受けつつ、独自の東南アジア文明を形成した。
この章では、基層文化の上に交易網が発達し、東南アジアの産物が国際市場に結びつく8世紀ごろまでをあつかう。
前3世紀~後1世紀 ドンソン文化最盛期
2~3世紀 林邑、扶南の成立 港市国家群
7世紀 東南アジア古代国家群
8~9世紀 ボロブドゥール寺院
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、104頁~105頁)
【海の道の発展】
7世紀に、東方では、隋・唐のもとで長安や洛陽など華北に大規模な諸都市が建設され、華中・華南の開発もすすんだ。大運河の開通はこの華中・華南の海のルートと、華北の陸のルートを結びつけた。また西方では、アッバース朝がその都市文明を発展させていった。
両世界の都市の需要にこたえて海の東西交易は著しく発展した。これまで通過が困難だったマラッカ海峡に中継港が整備され、安全な航行が可能になった。東西両世界が海で直接結ばれた。多くの西アジア人が、広州など華中・華南の港市に移り住んだ。唐は海の東西交易に対応するため、広州に交易を管理する市舶司を置き、ベトナムに安南都護府を建設し、南海交易の基地とした。
【海路を支配する国家】
マラッカ海峡が主要ルートになると、マレー人の港市国家群がスマトラのパレンバンを中心に連合し、シュリーヴィジャヤ(Shrivijaya)を建てて、マラッカ海峡を管理した。シュリーヴィジャヤはインドから大乗仏教を導入し、東南アジア、東アジアへの仏教布教センターとなった。南シナ海では、ルートの変更に対応できなかった扶南がおとろえ、かわってベトナム中部にあった林邑が南シナ海交易を主宰して、西方世界の文物や東南アジアの物産を東アジアの市場に運んだ。
いっぽう、マラッカ海峡のマレー人の勢力は、ジャワ島北岸にも進出し、香辛料の産地であるモルッカ諸島とマラッカ海峡を結んだ。8世紀には、ジャワのマレー人勢力がシャイレンドラ朝(Sailendra)を名のり、強大な海軍力で東南アジアの海路を支配した。8~9世紀、シャイレンドラ朝は、ジャワ中部のボロブドゥールに世界最大級の大乗仏教寺院を建設している。
<ボロブドゥール寺院>
ジャワ島中部に8~9世紀につくられた仏教建築の最高傑作。最下層から地下、地上、天上の3世界をあらわしている。
第11章 海域世界の発展と東南アジア
1 三つの海域世界の成立
2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展
世界の交易は、10世紀ごろから大きく海上交易に傾斜していく。この時代から、これまで東西交易の中心ルートだった中央アジア、北アジアはしだいに衰退し、海域世界が発展する。陸から海への変化の要因は、
①ヨーロッパでは地中海諸都市とバルト海・北海沿岸諸都市の二つの軸を結ぶ遠距離交易網が成立したこと、
②イスラーム世界の中心が陸路のターミナルであるバグダード、ダマスカスから、インド洋と地中海を結ぶエジプトに移動したこと、
③東アジア世界で宋代以降経済の中心が華中、華南に移動したこと、
④東西交易の主要な商品が絹のような高価な奢侈品や香辛料だけでなく、重い陶磁器や比較的安価な綿布が重要になったことである。
海の時代の開幕とともに、物資の流通、人の交流がさかんになり、沿岸港市が発展し、交易を基盤とする国家群が生まれ、世界の一体化の道が準備された。この世界的な交易構造の変化に対応して、航海技術の大革新がこの時代におこる。なかでもジャンク船の発明はアジアの交易に決定的な影響を与えた。ジャンク船は隔壁に丈夫な壁材を張った構造をもち、鈍重だが堅固で大量の船荷を積むことができる。10世紀以降、南シナ海ではジャンク船が主要な交易路になり、南シナ海は中国商人の海になった。いっぽう、東にすすんだイスラーム勢力は北インドの諸都市をイスラーム化し、11世紀には東南アジア諸都市への伝道を開始する。イスラームの海のネットワークを通じて、香辛料や陶磁器など東の物資が地中海に運ばれた。地中海では、十字軍を契機にイタリア諸都市の活動がさかんになる。
こうして、南シナ海を中心とする中国商人の海、インド洋を中心とするムスリム商人の海、地中海を中心とするイタリア商人の海の、三つの海が生まれた。
三つの海の交わりに位置する交易都市が発展し、海の東西交易を支えた。インド東海岸のチョーラやスリランカがインド洋やベンガル湾交易に参加する。南アジアも大きく海に関係してくる。東南アジアでは、ビルマのパガン、カンボジアのアンコールなど交易の海と生産の陸を統合的に支配する新しい型の国家群が生まれ、現代の国家につながっていく。
本章でとりあげる10~13世紀の海の分割は、仏教や儒教、イスラーム教、キリスト教という現在の宗教分布と基本的にかわらない。この時代、三つの異なる宗教世界を交易が結んだのであった。
8世紀 ムスリム商人団、インド洋・南シナ海に進出
10世紀 中国商人団、南シナ海に進出
11世紀 イタリア商人団、東地中海に進出
東南アジア港市国家群の発展
東南アジア内陸国家群の形成
12世紀 スワヒリ文化の発展
13世紀 元軍の東南アジア遠征
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、186頁~187頁)
【南シナ海―中国商人の海】
10世紀末、宋代の中国の商業経済は急速な成長をとげた。都市人口は急増し、香辛料など大量の海外物資を輸入するようになった。また青磁・白磁などすぐれた陶磁器が生産され、東シナ海、南シナ海、インド洋、アラビア海、地中海の沿岸都市に大量に輸出された。海の道に沿ったこの陶磁器交易路を「陶磁器の道」とよぶ。
同時期、中国式の外洋船ジャンク船が開発された。大きな船腹をもったジャンクは、陶磁器や銅銭など新しく登場してきた重量物交易品の積載に適していた。南シナ海交易はそれまでインド洋に本拠地をもつムスリム商人やインド商人の活動の一部としておもに営まれていたが、唐末の政情不安で彼らが中国南部の港市から撤退したこともあって、市場と資本そしてジャンク船をもつ中国商人が南シナ海交易の主体になった。また中国の陶磁器や工芸品を求めるインドや東南アジアの諸国は、争って宋に朝貢し、香辛料などの特産品を中国市場に輸出した。広州、杭州、明州(寧波[ニンポー])、泉州など重要な港市には、市舶司が設置された。市舶司は専売品の買い上げ、関税の徴収、中国船の出航の許認可などをつかさどった。その収益は、宋の歳入の確保に寄与した。南宋の時代までには、中国商人のジャンク船はマラッカ海峡をこえてインド洋に進出するようになり、インドの諸港市で西からのムスリム商人と直接取引するようになった。
1279年に南宋を滅ぼした元は、南シナ海交易からより多くの利益を確保するために、陸の道と同じように海の道を軍事的に統制しようとした。元はベトナムの大越国(陳朝)、チャンパー王国、ジャワのシンガサリ王国に大軍を派遣した。朝貢交易を強制された東南アジア諸国は一斉に反発した。ベトナム、ジャワで元軍は敗退し、元のもくろみは、日本への元寇と同じく失敗に終わった。そのいっぽうで、インドの諸港市まで拡大したジャンク船による交易は、引きつづき活発に営まれた。
【港市国家の発展】
唐末の中国の大変動により、中国経済は一時的に停滞したが、宋のもとで急速に回復し、10世紀末以降、南海交易が活況を呈した。この情勢は、東南アジアに大きな変化をもたらした。
ベトナム北部では、唐の衰亡にともなって、ハノイの安南都護府が解体した。新たなジャンク船のルートは、華南の諸港からベトナム中部沿岸のチャンパー王国の港に直航するようになった。このためにベトナム北部は国際交易から孤立した。この時期に、ベトナム北部は中国の支配から独立する。現在のベトナムの原型が生まれた。
ベトナム北部にかわって、ベトナム中部のチャム人の建てたチャンパー(占城)王国が、南シナ海航路の船の中継港として栄えた。チャンパーは、背後の山地でとれる沈香や象牙などを中国に輸出した。
同時期、マラッカ海峡沿いのマレー半島やスマトラ島の沿岸には、南シナ海、ジャワ海、インド洋を結ぶ無数の港市国家が生まれていたが、11世紀以後、三仏斉という連合国家をつくり、宋に朝貢して対中国貿易で繁栄した。
マラッカ海峡と香辛料の産地モルッカ諸島を結ぶジャワ島東部では、11世紀以来、クディリ王国(Kediri, 928~1222)、ついでシンガサリ王国(Singhasari, 1222~92)がジャワ島内陸部の農業発展と香辛料交易の中継で繁栄し、三仏斉と覇権を争っていたが、13世紀中ごろにはスマトラ島にまで勢力を拡大した。13世紀末、元はシンガサリ王国を攻撃したが、ジャワ軍は元軍を撃退し、新しい指導者がマジャパヒト王国(Majapahit, 1293~1520ごろ)を建てた。マジャパヒト王国は交易発展の波にのり、14世紀後半には三仏斉を圧倒して、東インドネシア、ジャワ全島からスマトラ島東海岸に及ぶ、ほぼ現在のインドネシア全域の交易を掌握した。
このように、11世紀ごろから海の東南アジアでは、港市国家は従来の沿岸部と海路の支配にとどまることなく、内陸の産地と沿岸の港市を統合して広大な領域を形成し、これを国際商業のなかに位置づけた。またこの時期からイスラーム教が本格的に広がるようになり、土着的な文化と、インド文明、イスラーム文明を融合させた民族文化がつくりだされた。現代の島嶼部東南アジア諸国の原型が生まれた。
第2章 アジア・アメリカの古代文明
【インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成】
東南アジアでは、前2千年紀末に、ベトナムやタイ東北部を中心に、青銅器が製作されていた。前4世紀になると、中国の影響下に、ベトナム北部を中心に独特の青銅器や鉄製農具をうみだしたドンソン文化が発展した。青銅製の銅鼓は、中国南部から東南アジアの広い地域で発見されており、当時の文化や交易の広がりを物語っている。
紀元前後から盛んになるインドや中国との交流のなかで、1世紀末に東南アジア最古の国家ともされる扶南(1世紀末~7世紀)がメコン川下流域に建国された。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国をつくったという神話をもつこの国の港オケオでは、ローマ貨幣やインドの神像が出土している。また2世紀末、ベトナムの中部に、チャム人がのちにチャンパー(Champa, 2世紀末~17世紀)と呼ばれる国をたてた。
4世紀末から5世紀になると、インド船の盛んな活動を背景として、広い地域で「インド化」と呼ばれる諸変化が生じ、各地の政権のなかに、インドの影響が強くみられるようになった。
大陸部では、6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジア(Cambodia)がおこり、扶南を滅ぼした。この王国は、9世紀以降アンコールに都をおき、12世紀にはヒンドゥー教や仏教の強い影響をうけながらも独自の様式と規模をもつアンコール=ワット(Angkor Wat)を造営した。
イラワディ川下流域では、9世紀までビルマ(ミャンマー)系のピュー(Phū)人の国があった。11世紀にはパガン朝(Pagan, 1044~1299)がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。チャオプラヤ川下流では、7世紀から11世紀頃にかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国(Dvaravati)が発展し、上座部仏教が盛んにおこなわれた。なお、のちの13世紀半ばにタイ北部におこったタイ族最古の王朝であるスコータイ朝(Sukhothai, 13~15世紀)の歴代の王も、上座部仏教を信仰した。
諸島部でも「インド化」がすすみ、いくつかの王国が成立した。7世紀半ばには、スマトラ島のパレンバンを中心にシュリーヴィジャヤ王国(Srivijaya, 7~14世紀)が成立した。この王国は海上交易に積極的にたずさわり、唐にも朝貢使節を派遣した。義浄はインドへの往復の途中滞在し、仏教が盛んな様子を記している。中部ジャワでは、仏教国のシャイレンドラ朝(Sailendra, 8~9世紀頃)やヒンドゥー国のマタラム王国(Mataram, 732~1222)がうまれた。シャイレンドラ朝のもとでは、仏教寺院ボロブドゥール(Borobudur)が建造されたが、その後、ヒンドゥー教の勢力が強くなっていった。
ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏が大越(ダイベト)国をたて、李朝(1009~1225)を成立させた。しかし、李朝とそれにつづく陳朝(1225~1400)の統治は、いずれも広域支配にはならず、チャンパー勢力とも対立を続けた。中部から南部にかけて長期にわたって勢力を保持したチャンパーは、インド洋から南シナ海を結ぶ海上交易活動にたずさわり、インドの影響を強くうけたいくつもの寺院群を築いた。
<オケオ出土のローマの金貨>
ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの肖像と銘がある。
<「インド化」>
ヒンドゥー教や大乗仏教、王権概念・インド神話・サンスクリット語・インド式建築様式などがまとまって受け入れられた。
<アンコール=ワット>
12世紀前半の王の墓として造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神であり、回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りされている。
<ボロブドゥール>
この世界的な仏教遺跡は、20世紀初めからの大規模な復元工事により現在の姿になった。回廊には経典の内容をあらわす多数の浮き彫りがほどこされている。縦・横120m、高さ42m。
上(写真)は上部回廊にならぶ仏像。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、62頁~65頁)
・ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
東南アジアの歴史~高校世界史より
Chapter 4 :The East Asian World
3 World Empire in the East
■Chinese Civilization Spread
The expansion policy of the Han dynasty(漢) was also directed towards the south. It
destroyed Nanyue(南越) ; introduced a province-prefecture system in the Yunnan region; and expanded its territory to the middle of Vietnam and established nine provinces there
such as Jiaozhi (near Hanoi). However, the political and social situation in the Vietnam
area was always unstable. Northern part of Vietnam became under the control of the
Protectorate General to Pacify the South of the Tang dynasty. In Yunnan, Nanzhao
(南詔) of Tibet-Burma became independent. The center of their movement was Dali.
These states accepted a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty
and introduced Chinese characters and other aspects of Chinese Civilization. Champa
(チャンパー Linyi 林邑) in the middle part of Vietnam, Khmer (クメール Zhenla 真臘)
in the west, and Srivijaya (シュリーヴィジャヤ Sumatra) were under the influence
of India, but maintained a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty.
The Sui and Tang Empires were the only superpowers in East Asia at that time. Other
nations around the empires had to always consider the movement of the empires to keep
their own existence and growth. They adopted Chinese civilization such as Confucianism,
Buddhism, law systems, Chinese characters, and city planning and tried to make Chinese
Civilization to fuse into their own cultures. Thus, in East Asia, one civilized area was
created, where the surrounding nations more or less shared a common base of Chinese
civilization(中華文明).
This East Asian Civilization came into contact with Indian Civilization on the Tibetan
plateau and Southeast Asia.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、74頁~75頁)
Chapter 6 : The Southeast Asian World
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 6 : The Southeast Asian World 東南アジア世界
Southeast Asia which is located in vast region of the southeastern Eurasia
belongs to the hot and humid tropical zone and the subtropical zone. Monsoons
blow from the Indian Ocean in summer and from the South China Sea in winter,
bringing plentiful rainfall to this region. The tropical climate provides a lot of heat.
All of these factors generate its natural environment such as thick forests and big
rivers with huge amounts of water. Corresponding to this environment, areas in
the region share a common set of cultural elements such as villages with raised-
floor houses, wrap-around type clothes and fish and rice eating culture. There is
ancestor worship and animism that worship nature such as mountains, rocks and
trees. This common culture of this region is similar to that of Japan.
The natural environment of Southeast Asia is classified to thre categories.
The mountainous areas in the north are laurel forest lands with many forests, and
their climate is very similar to that of western Japan. The mainland Southeast
Asian region has grasslands of tropical savanna which are good for rice farming.
The archipelago area is covered with tropical forests and yields international
commodities such as spices. The northern mountainous areas and the grasslands
are connected by big rivers namely, from west to east, the Chao Phraya River, the
Irrawaddy River, the Mekong River and the Red River. The islands and the mainland
areas are closely connected by numerous sea routes such as the Strait of Malacca.
There is no common language nor religion in Southeast Asia, and no one political
power historically could consolidate all areas there.
Southeast Asia is surrounded by rich seas such as the South China Sea and the
Indian Ocean, which has rich and large markets. Southeast Asia has been a place to
connect East and West markets via the sea routes. Southeast Asia has been also a
region to produce tropical commodities sought by whole world, such as spices and
ivory in the ascent time, and coffee, sugar and rubber in the modern time. Southeast
Asia is a self-sufficient region and also an international trade area.
Southeast Asia had kept close relations with international markets, being strongly
influenced by adjacent India and China, and yet generated its own culture.
In this chapter, we will see the period to the 8th century when the trade networks
had been developed on the basis of fundamental culture and the produce of
Southeast Asia became connected to international markets.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、85頁~86頁)
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
■Development of the Sea Road
In the 7th century, large cities were built in North China like Chang’an, and Luoyang,
under the Sui and Tang dynasties, and the development of Central and South China
advanced. The opening of the Grand Canal connected sea routes of Central and South
China with land routes of North China. In addition, in the west, the Abbasid dynasty
developed its city civilization.
The East-West maritime trade was developed remarkably in response to the demand of
the cities of both the eastern and western worlds. Transit ports were built along the coast
of the Strait of Malacca(マラッカ海峡) where passage had been very difficult, and the
navigation became safe. Both the eastern and the western worlds were linked directly
by sea. Many West Asians moved to the port cities of Central and South China, including
Guangzhou. The Tang dynasty put a maritime trade commissioner’s office (shibosi 市舶司)
which managed trades in Guangzhou to cope with the East-West maritime trade, and
built Protectorate General to Pacify the South in Vietnam(安南都護府) and made it
a base of southern maritime trade.
■States Ruling Maritime Routes
When the Strait of Malacca became the principal route, port polity groups formed a
coalition centering around Palembang of Sumatra and built Shrivijaya
(シュリーヴィジャヤ), a maritime state, and to manage the strait. Shrivijaya introduced
Buddhism of India and it became a Buddhism propagation center in Southeast and East
Asia. In the South China Sea, the power of Funan, which could not cope with the change
of the route, weakened, and instead, Champa in the central part of Vietnam, presided over
maritime trade of the South China Sea. It carried merchandise of the western world and
Southeast Asia to the East Asian markets.
On the other hand, the Malays around the Strait of Malacca also went into the northern
coast of Java, and connected the Moluccas, which was a production center of spices, and
the Strait of Malacca. In the 8th century, the Malays in Java established the Sailendra
(“Lord of the Mountain”)dynasty(シャイレンドラ朝), and succeeded Shrivijaya, and ruled
over the Southeast Asian maritime routes with mighty maritime power. In the 9th century,
Shrivijaya of the Sailendra dynasty built the largest Mahayana Buddhism(大乗仏教)
temple in the world in Borobudur(ボロブドゥール) in central Java.
【東南アジア内陸国家の再編】
港市国家の拡大の動きに対応して、内陸の国家群も拡大をつづけ、広大な領域を支配するようになった。
11世紀はじめにベトナム北部に建てられた大越国の李朝(1009~1225)は、国際交易から切り離され、また国際性のある特産物にもめぐまれなかった。このため、農業を重視する中国文明の受容につとめて国家建設をすすめる一方、紅河(ホン川)デルタの開墾による農業生産の拡大に努めた。13世紀、李朝にかわった陳朝(1225~1400)は、紅河デルタに堤防網を建設し、大きな農業人口を確保した。同世紀末の3次にわたる元軍の侵略に対して、デルタの農民たちははげしく抵抗した。元軍を退けた陳朝は、南シナ海交易に参加するために南下し、中部沿岸の港市国家チャンパーへの侵略をくりかえして、領域を南に広げていった。
14世紀末、陳朝にかわった胡朝(1400~1407)は、陳朝のころにつくられたベトナム独自の文字チュノム(字喃)の使用を奨励して、漢籍の翻訳をすすめ、また科挙官僚を登用して独自な官僚制国家の整備に努めた。15世紀はじめ、大越は一時明に併合されるが、まもなく黎朝(1428~1527、1532~1789)のもとに独立を回復した。黎朝は、儒教を積極的に導入し、中国にならった官僚制的な中央集権国家を建設した。また、チャンパー王国を併合して、17世紀までに、ほぼ現在のベトナムの領域にまで広がった。
カンボジアでは9世紀以来、クメール王国(Khmer, アンコール朝 Angkor, 802ごろ~1431ごろ)がカンボジアや東北タイの平原の農業開拓に成功して、アンコールの地に大都市アンコール=トムを建設していた。12世紀に入ると、カンボジアやタイの物産を集荷して、メコン川を通じて南シナ海交易に進出した。クメール王国は13世紀はじめには、アンコールを中心にカンボジアからタイ、ラオス、マレー半島北部にいたる広大な地域を結ぶ交易路を支配下に置いた。
クメール王国による大陸内部の交易ルートの形成は、チャオプラヤ、サルウィンなど大河川の流域で稲作農業を営んでいたタイ人をめざめさせた。13世紀後半、タイ人は各地でクメールから独立し、新しい交易網をつくりあげていった。13世紀末には中部タイのスコータイ王国(Sukhothai, 1257~1438)が、14世紀中ごろにはチャオプラヤ川中流域におこったアユタヤ王国(Ayuthaya, 1351ごろ~1767)が有力になった。とくにアユタヤ王国は、内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め、これを中国や琉球に供給して発展した。また、上座部仏教を導入し、これを保護した。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり、ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。
ビルマでは、11世紀中ごろにビルマ人がイラワディ川中流域にパガン王国(Pagan, 1044~1287)を建てた。この王国は、雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、灌漑事業をおこしてビルマ平原の農業開拓に成功した。また、大乗仏教や密教と混在していた上座部仏教をとくに積極的に保護し、パガンを中心に多数の寺院を建立した。パガン王国は13世紀末以後、元軍の侵略とタイ系のシャン人の南下によって衰退したが、南部のモン人はベンガル湾沿岸にペグー(Pegu)などの港市国家を建設し、ベンガル湾交易を担った。
このように、大陸部東南アジアでは、内陸国家を内陸ルートを整備し、沿岸の港市国家を統合する努力がすすめられた。しだいに現在の国家領域を形づくられていった。
<アンコール=ワット>
世界最大のヒンドゥー教遺跡。クメール王国の12世紀の王スールヤヴァルマン2世が建設した(のちに仏教寺院)。
<パガンの仏教寺院群>
イラワディ川中流域のパガンには、12世紀以来、3000以上の寺院や仏塔が建造された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、193頁~196頁)
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
■Development of Port Polities
Although the Chinese economy lagged temporarily by the violent upheavals in China
in the end of the Tang(唐) dynasty, it recovered quickly under the Song. The South Sea
trade(南海交易) increased after the end of the 10th century. This brought big changes
to Southeast Asia.
In northern Vietnam, the Annan Protectorate(安南都護府) in Hanoi was dissolved
with ruin of the Tang dynasty. The junk ships which left South Chinese ports sailed
directly to Champa ports in central Vietnam. For this reason, northern Vietnam was
isolated from international trade. At this time, northern Vietnam became independent
of Chinese rule and the archetype of current Vietnam was made.
Instead of northern Vietnam, the Champa kingdom(チャンパー[占城]王国), which
was founded by Cham(チャム) of central Vietnam, prospered as a transit port of the South
China Sea route. Champa exported ivory and agarwood, which could be harvested in
its mountains, to China.
In that same period, on the coast of the Malay peninsula and Sumatra Island along the
Strait of Malacca, there emerged innumerable port polities which had connecting routes
among the South China Sea, the Java Sea and the Indian Ocean. After the 11th century,
a federal state called San-fo-ch’i(三仏斉) was founded. It prospered from tributary trade
with the Song dynasty of China.
After the 11th century, the Kediri kingdom(クディリ王国), located in eastern Java,
prospered. The kingdom connected the Moluccas Islands that produced spices to the Strait
of Malacca. Thereafter, the Shinghasari kingdom(シンガサリ王国) prospered due to
the agricultural development of the inland region Java the relay trade of spices. They had
competed with San-fo-ch’i for hegemony, and by the middle of the 13th century their
influence expanded even to Sumatra. Although the Yuan dynasty attacked and conquered
the Singhasari kingdom at the end of the 13th century, the Javanese army repulsed the
Yuan and a new leader founded the Majapahit kingdom(マジャパヒト王国). The Majapahit
rode a wave of trade development, and overwhelmed San-fo-ch’i in the second half of
the 14th century. Then they controlled the trade of almost the whole area of what is now
Indonesia which ranges from eastern Indonesia, all the Javanese islands to the Sumatra’s
east coast.
Thus, in maritime Southeast Asia since around the 11th century, the port polities unified
the producing inland and port cities and formed vast territories beyond the conventional
rule over the coasts and the sea routes. Their states were strengthened by connecting
international commerce. At this time, the indigenous such as Wayang in Indonesia, Indian
and Islamic culture merged to ethnic cultures. Here, we can see the prototypes of
Southeast Asian island countries of today.
■Reorganization of the Inland States in Southeast Asia
Corresponding to the expansion movement of the port polities, inland states also
continued to expand their territories and came to govern vast domains.
As the Ly dynasty(李朝) of Dai Viet(大越国) built in northern Vietnam at the beginning of the 11th century, it was separated from international trade and not blessed with special produce. Therefore, it made efforts to receive the Chinese civilization, which emphasized
farming, and to consolidate its national strength. It also strove to expand the agricultural
output by cultivating the Red River Delta(紅河[ホン川]デルタ). The Tran dynasty(陳朝)
replaced the Ly in the 13th century and built the network of dykes in the Red River Delta,
thereby creating condition for a large farming population. The farmers of the delta fiercely
resisted three invasions from the Yuan army in the end of the century. The Tran dynasty,
which drove back the Yuan army, advanced south in order to participate in the South China
Sea trade, and it repeatedly invaded Champa, a port polity in the central coastal region,
thereby extending its domain to the south.
At the end of the 14th century, the Ho dynasty(胡朝), which replaced the Tran dynasty,
encouraged the use of the unique Chu Nom characters(チュノム[字喃]) of Vietnam. It also
promoted the translation of Chinese books using the Chu Nom and made efforts to develop
a new bureaucratic nation which appointed bureaucrats only who passed an employment
examination. Although Dai Viet was merged temporarily into the Ming in the early 15th
century, it soon regained its independence under the Le dynasty(黎朝). The Le introduced
Confucianism and built a centralized state which adopted the politico-legal system
(律令制度) modeled after the Chinese system. It merged the Champa kingdom and, by the
17th century, spread its domain almost to the whole area of present day Vietnam.
In Cambodia, since the 9th century, the Khmer kingdom(クメール王国, Angkor dynasty
アンコール朝) succeeded in agricultural exploitation of the plains of Cambodia and northeastern Thailand, and built the big Angkor Thom(アンコール=トム) city in Angkor. Since the beginning of the 12th century, the Khmer collected produce from Cambodia and
Thailand. It advanced into the South China Sea trade by carrying goods through the
Mekong River(メコン川). At the beginning of the 13th century, the Khmer kingdom
dominated the trade routes that connected the vast area around Angkor, including
Cambodia, Thailand, Laos, to the northern Malay peninsula.
The development of the inland trade routes under the Khmer kingdom awoke the Thai
people, who were cultivating rice fields in the basins of great rivers such as the Chao
Phraya(チャオプラヤ) and Salween(サルウィン) Rivers. In the second half of the 13th
century, the Thais became independent of the Khmer in various places, and built a new
trade network. At the end of the 13th century the Sukhothai kingdom(スコータイ王国)
of central Thailand was dominant. The Ayutthaya kingdom(アユタヤ王国), founded in
the middle reaches of the Chao Phraya River, expanded its strength in about the
mid-14th century. It collected and brought inland produce to the Thailand bay
area and carried them to China or Ryukyu, thereby prospering. The king introduced and
protected Theravada Buddhism(上座部仏教). The kingdom brought the district powers in
northern or northeastern Thailand under its control and succeeded in the integration
of the area that roughly corresponds to present day Thailand in the 15th century.
In Burma, the Burmese built the Pagan kingdom(パガン王国) in the middle Irrawaddy
River(イラワディ川) basin in the mid-11th century. This kingdom prospered from trade
which connected the Bay of Bengal(ベンガル湾) and Yunnan(雲南). It also started an
irrigation enterprise, and succeeded in agricultural development of the Burma plain.
The kingdom declined after the invasion of the Yuan army and southern incursions of
the Thai Shans(シャン人) after the end of the 13th century. The Mons(モン人),
who lived in the south of Burma, built port polities, such as Pegu(ペグー) on the Bay of
Bengal coast, and thereby controlled the bay trade.
Thus, in mainland Southeast Asia, the landlocked states built the inland routes and
continued to make their efforts to unify the coastal port polities. This is how the territories
of present nation state were gradually formed.
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])においては、ボロブドゥールについて、次のように、8世紀という時代との関連で取り上げていた。
【8世紀の世界 文明世界の成立】
古代の帝国が民族移動などで解体したのち、8世紀にはふたたび広大な領域を支配する帝国が繁栄し、その帝国を中心として一つの文明を共有する広域の文明世界が成立した。東アジアには儒教・仏教の唐が、中央アジアから北アフリカにはイスラーム教のアッバース朝が、東ヨーロッパにはキリスト教のビザンツ帝国が栄え、それぞれ東アジア世界、イスラーム世界、東ヨーロッパ世界が形成された。また、フランク王国は、イスラーム勢力の侵攻を防ぎ、ビザンツ皇帝と対立するローマ教会との結びつきを強めて西ヨーロッパ世界をまとめていった。
唐は周辺諸国に大きな影響を与え、東アジア諸国は律令、漢字、儒教、仏教などを受容した。首都の長安は、諸外国の使節や留学生のほか、ソグド人、イラン人、アラブ人などの商人が訪れ、仏教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられた国際都市となった。広大な領域を支配したアッバース朝のもとではイスラーム法にもとづく統治がめざされ、さまざまな学問の研究がすすめられた。また、ムスリム商人は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸の陸上交易や、インド洋、南シナ海の海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに、世界各地の物産が市場(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。ビザンツ帝国は、皇帝が教会を支配する独自の世界をきずいた。首都コンスタンティノープルは、絹織物など各種の手工業や商業がさかんで、貨幣経済は繁栄をつづけ、国際的な交易都市として栄えた。
<アーヘンの大聖堂>
ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し、王宮、大聖堂を建てた。
<聖(ハギア)ソフィア大聖堂>
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに6世紀に建てられた円蓋のある大聖堂。円蓋の直径は32mにも達する。
<ウマイヤ=モスク>
8世紀前半にダマスカスに完成した現存する世界最古のモスク。もとはキリスト教の教会であったが、モスクとして増改築された。
<唐を訪れた外国使節>
唐の都長安には遠方より多くの使節が貢ぎ物をささげてやってきた。左の3人は接待をしている唐の役人で、右の3人が外国使節。黒服の人物はビザンツ帝国のの使者、その右が新羅の使者と考えられている。
<新羅の古墳公園>
新羅は7世紀後半に百済、高句麗を倒して半島全域を統一した。唐の冊封を受け、中国の制度を導入し、仏教文化を開花させた。
<遣唐使船>
7世紀前半にはじまった遣唐使は、唐の文化や政治制度の摂取に努めた。小型の4隻の船で渡航するのが一般的であった。
※なお、「8世紀の世界」の地図には、シャイレンドラ朝のボロブドゥールが記されている!
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、136頁~137頁)
■World in the 8th century
After ancient empires were ruined by migrant movements and others, new
empires appeared again in the 8th century, which governed vast areas. Byzantine
Empire of Christianity, Abbasid dynasty of Islam and Tang dynasty of Confucianism
and Buddhism flourished. And three worlds centering around those empires were
formulated.
Frankish Kingdom 732 Battle of Tours-Poitiers
Byzantine Empire ~Constantinople
Abbasid dynasty 751 Battle of Talas Transmission of papermaking to West
Tang dynasty ~Chang’an
Southeast Asia Borobudur
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、108頁~109頁)
【ボロブドゥールについて】(ウィキペディアより)
ボロブドゥールは、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する仏教遺跡である。
ミャンマーのパガン、カンボジアのアンコール=ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺の1つである。
インドから東南アジアに伝播した仏教は、一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。
シャイレーンドラ王朝の時代、大乗仏教を報じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられている。
シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀にかけて、オーストラロイド系の民族がジャワ島中部に建てたとされる王朝である。
シャイレーンドラはサンスクリット語で、「山からの王」という意味である。
インドシナ半島の古代王国扶南の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。
・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)
・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)
ボロブドゥールは、それ自体が仏教的宇宙観を象徴する巨大な曼荼羅といわれ、一説には、須弥山を模したものとも考えられている。
田中阿里子(1921~2016)は、京都市に生まれ、京都高等女学校を卒業後、日本電池に勤務して、昭和18年、インドネシア、スラバヤ支社に勤務した。そして、この本に収録された「ボロブドウルと私」において、昭和19年の秋頃に、先輩社員に案内されて、中部ジャワの旅に出て、その際に、ボロブドウル(ボロブドゥール)を訪れたことを記している。
(そして、1980年代から90年代に、何度か再び訪れたという)
〇田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年
・昭和19年の秋頃、田中阿里子氏はボロブドゥールを訪れた。
・当時、遺蹟に近付いてみると、それはいかにも灰の下で埋もれていたというように色があせており、基壇の一部などは今にもこわれそうに風化したいたという。
・「日本では奈良の東大寺が造られた頃にこれも出来た。メラピ火山の噴火の灰の中で長く眠っていた。それが、1814年にはじめて西洋人が、汚れた仏蹟を発見して後にオランダ政府が一応の修理をした」と案内者が話していた。
・回廊に出てみるとそこはまだしっかりしている。左の方へ歩くと、一方の石の欄干には等間隔で仏像が安置してあり、他方は壁になっていて、そこに彫刻が施してあった。
「これが話にきいていた釈尊の一代記だ」と気がついて心が躍り、レリーフを一枚ずつみて歩いた。嬉しいことに母の摩耶夫人が受胎の夢をみる処も、ルンビニ園へ行く場面もはっきりとみてとれる。さらに貴重な、「天上天下唯我独尊」の誕生仏をも拝して、心が喜びにみたされた、と記している。
・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)
田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている。
「この日もやはり私達は、第一回廊主壁上段のレリーフを見るのが精いっぱいで、第二、第三、
第四までの回廊をめぐる元気はなかった。五キロメートルを超える距離もさりながら、レリーフの数は二千数百枚に上るのであり、そのうち釈尊の生涯を語るものは、百二十面にすぎない。ほかは本生譚とか、あるいは人間のめぐる六道輪廻の世界とかを描いているのであろう。」
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、14頁~15頁)
・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)
田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている
「石仏の方は最初は五百四体あったらしいが、今は損傷して数が減っている。けれども第一、第二、第三回廊に安置された仏像のうち、東方に阿閦如来(あしゅくにょらい)、西方に阿弥陀如来、南方に宝生(ほうしょう)如来、北方に不空成就如来、そして第四回廊の石仏はすべて大日如来像、ストウパの中の仏が釈迦如来と、ガイドの人の話をきけば、私はもう充分であった。青春の日に参詣してからすでに四十年近い年月を経ているが、その間にはボロブドウル修復キャンペーンの展覧会もみたりしているので、知識はふえている。しかし実際の石仏を拝み、釈迦伝を見廻ってくると、それで仏蹟参拝の満足感は何物にもかえがたい喜びを私にもたらした。
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、15頁)
(2023年11月14日投稿)
【はじめに】
インターネットのルーターの故障により、ブログの更新が滞ってしまった。
今回のブログでは、高校世界史の東南アジア(前近代)、とりわけ、ボロブドゥールとアンコール=ワットについて、どのように記述されていたかについて、再度みておきたい。
参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
とりわけ、『世界史B』(東京書籍)およびその英文において、8世紀という時代とボロブドゥーについて、取り上げており、注目すべき視点を提供していた。
作家・田中阿里子は『ボロブドウル幻想』(徳間文庫、1993年)において、ボロブドゥールについて述べている。8世紀という時代とボロブドゥールという視点は、改めて重要な考え方だと思う。
(ボロブドゥールとアンコール=ワットについては、後日、改めて詳しく解説してみたい)
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ボロブドゥールの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・ボロブドゥールの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
・アンコール=ワットの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・アンコール=ワットの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・アンコール=ワットの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
・8世紀という時代とボロブドゥール~『世界史B』(東京書籍)および英文より
・ボロブドゥールと作家・田中阿里子~『ボロブドウル幻想』より
ボロブドゥールの記述~『世界史B』(東京書籍)より
第6章 東南アジア世界
1 海の道の形成と東南アジア
2 東南アジア諸国家の再編成
第6章 東南アジア世界
ユーラシア大陸東南部には、高温多湿の熱帯から亜熱帯に属し、夏にはインド洋から、冬には南シナ海から吹く二つの季節風のもたらす潤沢な雨量と、熱帯の豊富な熱量にめぐまれた東南アジア地域に広がる。それらは、うっそうとした森と水量豊かな大河からなる自然環境を生みだしている。そこには高床式住居の村落、巻きスカート型の衣服、魚と米の食文化など、環境に対応した共通の文化をもつ世界が広がっている。また、山や岩、樹木など、自然を崇拝する精霊信仰や祖先信仰が生きている。この東南アジアの基層文化は、日本のそれと同質である。
東南アジアの環境は大きく三つに分かれる。北部の山地は、森林にめぐまれた照葉樹林で、西日本の気候とよく似ている。大陸部の平原には、稲作に適した熱帯サバンナ地帯が広がり、島嶼部はおおむね熱帯雨林におおわれ、香辛料などの国際商品を生みだした。北部の山地と平原は、西からイラワディ川、チャオプラヤ川、メコン川、紅河(ホン川)などの大河川の水路で結ばれており、大陸と島嶼はマラッカ海峡など、無数の海路で緊密に結ばれている。
東南アジアは、地域全体で用いられる共通の言語や宗教をもたない。また、歴史上、一度も地域全体を統合する政治勢力はあらわれなかった。
東南アジアは海に囲まれている。その海は、南シナ海とインド洋という、豊かで広大な市場をもつ海である。東南アジアは、東西の両市場を海で結ぶ地域であった。と同時に、古代では香辛料や象牙など、近代ではコーヒー、砂糖、ゴムなど、世界が求める熱帯物産を生みだす地域でもあった。東南アジアには、自給的な面と、国際商業に対応する面との、二つの面がある。
国際市場と強い関係をもった東南アジアは、隣接するインドや中国などの文明の影響を強く受けつつ、独自の東南アジア文明を形成した。
この章では、基層文化の上に交易網が発達し、東南アジアの産物が国際市場に結びつく8世紀ごろまでをあつかう。
前3世紀~後1世紀 ドンソン文化最盛期
2~3世紀 林邑、扶南の成立 港市国家群
7世紀 東南アジア古代国家群
8~9世紀 ボロブドゥール寺院
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、104頁~105頁)
第6章2 東南アジア諸国家の再編成
【海の道の発展】
7世紀に、東方では、隋・唐のもとで長安や洛陽など華北に大規模な諸都市が建設され、華中・華南の開発もすすんだ。大運河の開通はこの華中・華南の海のルートと、華北の陸のルートを結びつけた。また西方では、アッバース朝がその都市文明を発展させていった。
両世界の都市の需要にこたえて海の東西交易は著しく発展した。これまで通過が困難だったマラッカ海峡に中継港が整備され、安全な航行が可能になった。東西両世界が海で直接結ばれた。多くの西アジア人が、広州など華中・華南の港市に移り住んだ。唐は海の東西交易に対応するため、広州に交易を管理する市舶司を置き、ベトナムに安南都護府を建設し、南海交易の基地とした。
【海路を支配する国家】
マラッカ海峡が主要ルートになると、マレー人の港市国家群がスマトラのパレンバンを中心に連合し、シュリーヴィジャヤ(Shrivijaya)を建てて、マラッカ海峡を管理した。シュリーヴィジャヤはインドから大乗仏教を導入し、東南アジア、東アジアへの仏教布教センターとなった。南シナ海では、ルートの変更に対応できなかった扶南がおとろえ、かわってベトナム中部にあった林邑が南シナ海交易を主宰して、西方世界の文物や東南アジアの物産を東アジアの市場に運んだ。
いっぽう、マラッカ海峡のマレー人の勢力は、ジャワ島北岸にも進出し、香辛料の産地であるモルッカ諸島とマラッカ海峡を結んだ。8世紀には、ジャワのマレー人勢力がシャイレンドラ朝(Sailendra)を名のり、強大な海軍力で東南アジアの海路を支配した。8~9世紀、シャイレンドラ朝は、ジャワ中部のボロブドゥールに世界最大級の大乗仏教寺院を建設している。
<ボロブドゥール寺院>
ジャワ島中部に8~9世紀につくられた仏教建築の最高傑作。最下層から地下、地上、天上の3世界をあらわしている。
第11章 海域世界の発展と東南アジア
1 三つの海域世界の成立
2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展
第11章 海域世界の発展と東南アジア
世界の交易は、10世紀ごろから大きく海上交易に傾斜していく。この時代から、これまで東西交易の中心ルートだった中央アジア、北アジアはしだいに衰退し、海域世界が発展する。陸から海への変化の要因は、
①ヨーロッパでは地中海諸都市とバルト海・北海沿岸諸都市の二つの軸を結ぶ遠距離交易網が成立したこと、
②イスラーム世界の中心が陸路のターミナルであるバグダード、ダマスカスから、インド洋と地中海を結ぶエジプトに移動したこと、
③東アジア世界で宋代以降経済の中心が華中、華南に移動したこと、
④東西交易の主要な商品が絹のような高価な奢侈品や香辛料だけでなく、重い陶磁器や比較的安価な綿布が重要になったことである。
海の時代の開幕とともに、物資の流通、人の交流がさかんになり、沿岸港市が発展し、交易を基盤とする国家群が生まれ、世界の一体化の道が準備された。この世界的な交易構造の変化に対応して、航海技術の大革新がこの時代におこる。なかでもジャンク船の発明はアジアの交易に決定的な影響を与えた。ジャンク船は隔壁に丈夫な壁材を張った構造をもち、鈍重だが堅固で大量の船荷を積むことができる。10世紀以降、南シナ海ではジャンク船が主要な交易路になり、南シナ海は中国商人の海になった。いっぽう、東にすすんだイスラーム勢力は北インドの諸都市をイスラーム化し、11世紀には東南アジア諸都市への伝道を開始する。イスラームの海のネットワークを通じて、香辛料や陶磁器など東の物資が地中海に運ばれた。地中海では、十字軍を契機にイタリア諸都市の活動がさかんになる。
こうして、南シナ海を中心とする中国商人の海、インド洋を中心とするムスリム商人の海、地中海を中心とするイタリア商人の海の、三つの海が生まれた。
三つの海の交わりに位置する交易都市が発展し、海の東西交易を支えた。インド東海岸のチョーラやスリランカがインド洋やベンガル湾交易に参加する。南アジアも大きく海に関係してくる。東南アジアでは、ビルマのパガン、カンボジアのアンコールなど交易の海と生産の陸を統合的に支配する新しい型の国家群が生まれ、現代の国家につながっていく。
本章でとりあげる10~13世紀の海の分割は、仏教や儒教、イスラーム教、キリスト教という現在の宗教分布と基本的にかわらない。この時代、三つの異なる宗教世界を交易が結んだのであった。
8世紀 ムスリム商人団、インド洋・南シナ海に進出
10世紀 中国商人団、南シナ海に進出
11世紀 イタリア商人団、東地中海に進出
東南アジア港市国家群の発展
東南アジア内陸国家群の形成
12世紀 スワヒリ文化の発展
13世紀 元軍の東南アジア遠征
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、186頁~187頁)
第11章1 三つの海域世界の成立
【南シナ海―中国商人の海】
10世紀末、宋代の中国の商業経済は急速な成長をとげた。都市人口は急増し、香辛料など大量の海外物資を輸入するようになった。また青磁・白磁などすぐれた陶磁器が生産され、東シナ海、南シナ海、インド洋、アラビア海、地中海の沿岸都市に大量に輸出された。海の道に沿ったこの陶磁器交易路を「陶磁器の道」とよぶ。
同時期、中国式の外洋船ジャンク船が開発された。大きな船腹をもったジャンクは、陶磁器や銅銭など新しく登場してきた重量物交易品の積載に適していた。南シナ海交易はそれまでインド洋に本拠地をもつムスリム商人やインド商人の活動の一部としておもに営まれていたが、唐末の政情不安で彼らが中国南部の港市から撤退したこともあって、市場と資本そしてジャンク船をもつ中国商人が南シナ海交易の主体になった。また中国の陶磁器や工芸品を求めるインドや東南アジアの諸国は、争って宋に朝貢し、香辛料などの特産品を中国市場に輸出した。広州、杭州、明州(寧波[ニンポー])、泉州など重要な港市には、市舶司が設置された。市舶司は専売品の買い上げ、関税の徴収、中国船の出航の許認可などをつかさどった。その収益は、宋の歳入の確保に寄与した。南宋の時代までには、中国商人のジャンク船はマラッカ海峡をこえてインド洋に進出するようになり、インドの諸港市で西からのムスリム商人と直接取引するようになった。
1279年に南宋を滅ぼした元は、南シナ海交易からより多くの利益を確保するために、陸の道と同じように海の道を軍事的に統制しようとした。元はベトナムの大越国(陳朝)、チャンパー王国、ジャワのシンガサリ王国に大軍を派遣した。朝貢交易を強制された東南アジア諸国は一斉に反発した。ベトナム、ジャワで元軍は敗退し、元のもくろみは、日本への元寇と同じく失敗に終わった。そのいっぽうで、インドの諸港市まで拡大したジャンク船による交易は、引きつづき活発に営まれた。
第11章2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展
【港市国家の発展】
唐末の中国の大変動により、中国経済は一時的に停滞したが、宋のもとで急速に回復し、10世紀末以降、南海交易が活況を呈した。この情勢は、東南アジアに大きな変化をもたらした。
ベトナム北部では、唐の衰亡にともなって、ハノイの安南都護府が解体した。新たなジャンク船のルートは、華南の諸港からベトナム中部沿岸のチャンパー王国の港に直航するようになった。このためにベトナム北部は国際交易から孤立した。この時期に、ベトナム北部は中国の支配から独立する。現在のベトナムの原型が生まれた。
ベトナム北部にかわって、ベトナム中部のチャム人の建てたチャンパー(占城)王国が、南シナ海航路の船の中継港として栄えた。チャンパーは、背後の山地でとれる沈香や象牙などを中国に輸出した。
同時期、マラッカ海峡沿いのマレー半島やスマトラ島の沿岸には、南シナ海、ジャワ海、インド洋を結ぶ無数の港市国家が生まれていたが、11世紀以後、三仏斉という連合国家をつくり、宋に朝貢して対中国貿易で繁栄した。
マラッカ海峡と香辛料の産地モルッカ諸島を結ぶジャワ島東部では、11世紀以来、クディリ王国(Kediri, 928~1222)、ついでシンガサリ王国(Singhasari, 1222~92)がジャワ島内陸部の農業発展と香辛料交易の中継で繁栄し、三仏斉と覇権を争っていたが、13世紀中ごろにはスマトラ島にまで勢力を拡大した。13世紀末、元はシンガサリ王国を攻撃したが、ジャワ軍は元軍を撃退し、新しい指導者がマジャパヒト王国(Majapahit, 1293~1520ごろ)を建てた。マジャパヒト王国は交易発展の波にのり、14世紀後半には三仏斉を圧倒して、東インドネシア、ジャワ全島からスマトラ島東海岸に及ぶ、ほぼ現在のインドネシア全域の交易を掌握した。
このように、11世紀ごろから海の東南アジアでは、港市国家は従来の沿岸部と海路の支配にとどまることなく、内陸の産地と沿岸の港市を統合して広大な領域を形成し、これを国際商業のなかに位置づけた。またこの時期からイスラーム教が本格的に広がるようになり、土着的な文化と、インド文明、イスラーム文明を融合させた民族文化がつくりだされた。現代の島嶼部東南アジア諸国の原型が生まれた。
ボロブドゥールおよびアンコール=ワットの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
第2章 アジア・アメリカの古代文明
【インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成】
東南アジアでは、前2千年紀末に、ベトナムやタイ東北部を中心に、青銅器が製作されていた。前4世紀になると、中国の影響下に、ベトナム北部を中心に独特の青銅器や鉄製農具をうみだしたドンソン文化が発展した。青銅製の銅鼓は、中国南部から東南アジアの広い地域で発見されており、当時の文化や交易の広がりを物語っている。
紀元前後から盛んになるインドや中国との交流のなかで、1世紀末に東南アジア最古の国家ともされる扶南(1世紀末~7世紀)がメコン川下流域に建国された。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国をつくったという神話をもつこの国の港オケオでは、ローマ貨幣やインドの神像が出土している。また2世紀末、ベトナムの中部に、チャム人がのちにチャンパー(Champa, 2世紀末~17世紀)と呼ばれる国をたてた。
4世紀末から5世紀になると、インド船の盛んな活動を背景として、広い地域で「インド化」と呼ばれる諸変化が生じ、各地の政権のなかに、インドの影響が強くみられるようになった。
大陸部では、6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジア(Cambodia)がおこり、扶南を滅ぼした。この王国は、9世紀以降アンコールに都をおき、12世紀にはヒンドゥー教や仏教の強い影響をうけながらも独自の様式と規模をもつアンコール=ワット(Angkor Wat)を造営した。
イラワディ川下流域では、9世紀までビルマ(ミャンマー)系のピュー(Phū)人の国があった。11世紀にはパガン朝(Pagan, 1044~1299)がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。チャオプラヤ川下流では、7世紀から11世紀頃にかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国(Dvaravati)が発展し、上座部仏教が盛んにおこなわれた。なお、のちの13世紀半ばにタイ北部におこったタイ族最古の王朝であるスコータイ朝(Sukhothai, 13~15世紀)の歴代の王も、上座部仏教を信仰した。
諸島部でも「インド化」がすすみ、いくつかの王国が成立した。7世紀半ばには、スマトラ島のパレンバンを中心にシュリーヴィジャヤ王国(Srivijaya, 7~14世紀)が成立した。この王国は海上交易に積極的にたずさわり、唐にも朝貢使節を派遣した。義浄はインドへの往復の途中滞在し、仏教が盛んな様子を記している。中部ジャワでは、仏教国のシャイレンドラ朝(Sailendra, 8~9世紀頃)やヒンドゥー国のマタラム王国(Mataram, 732~1222)がうまれた。シャイレンドラ朝のもとでは、仏教寺院ボロブドゥール(Borobudur)が建造されたが、その後、ヒンドゥー教の勢力が強くなっていった。
ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏が大越(ダイベト)国をたて、李朝(1009~1225)を成立させた。しかし、李朝とそれにつづく陳朝(1225~1400)の統治は、いずれも広域支配にはならず、チャンパー勢力とも対立を続けた。中部から南部にかけて長期にわたって勢力を保持したチャンパーは、インド洋から南シナ海を結ぶ海上交易活動にたずさわり、インドの影響を強くうけたいくつもの寺院群を築いた。
<オケオ出土のローマの金貨>
ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの肖像と銘がある。
<「インド化」>
ヒンドゥー教や大乗仏教、王権概念・インド神話・サンスクリット語・インド式建築様式などがまとまって受け入れられた。
<アンコール=ワット>
12世紀前半の王の墓として造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神であり、回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りされている。
<ボロブドゥール>
この世界的な仏教遺跡は、20世紀初めからの大規模な復元工事により現在の姿になった。回廊には経典の内容をあらわす多数の浮き彫りがほどこされている。縦・横120m、高さ42m。
上(写真)は上部回廊にならぶ仏像。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、62頁~65頁)
ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
・ボロブドゥールの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
東南アジアの歴史~高校世界史より
Chapter 4 :The East Asian World
3 World Empire in the East
■Chinese Civilization Spread
The expansion policy of the Han dynasty(漢) was also directed towards the south. It
destroyed Nanyue(南越) ; introduced a province-prefecture system in the Yunnan region; and expanded its territory to the middle of Vietnam and established nine provinces there
such as Jiaozhi (near Hanoi). However, the political and social situation in the Vietnam
area was always unstable. Northern part of Vietnam became under the control of the
Protectorate General to Pacify the South of the Tang dynasty. In Yunnan, Nanzhao
(南詔) of Tibet-Burma became independent. The center of their movement was Dali.
These states accepted a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty
and introduced Chinese characters and other aspects of Chinese Civilization. Champa
(チャンパー Linyi 林邑) in the middle part of Vietnam, Khmer (クメール Zhenla 真臘)
in the west, and Srivijaya (シュリーヴィジャヤ Sumatra) were under the influence
of India, but maintained a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty.
The Sui and Tang Empires were the only superpowers in East Asia at that time. Other
nations around the empires had to always consider the movement of the empires to keep
their own existence and growth. They adopted Chinese civilization such as Confucianism,
Buddhism, law systems, Chinese characters, and city planning and tried to make Chinese
Civilization to fuse into their own cultures. Thus, in East Asia, one civilized area was
created, where the surrounding nations more or less shared a common base of Chinese
civilization(中華文明).
This East Asian Civilization came into contact with Indian Civilization on the Tibetan
plateau and Southeast Asia.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、74頁~75頁)
Chapter 6 : The Southeast Asian World
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 6 : The Southeast Asian World 東南アジア世界
Southeast Asia which is located in vast region of the southeastern Eurasia
belongs to the hot and humid tropical zone and the subtropical zone. Monsoons
blow from the Indian Ocean in summer and from the South China Sea in winter,
bringing plentiful rainfall to this region. The tropical climate provides a lot of heat.
All of these factors generate its natural environment such as thick forests and big
rivers with huge amounts of water. Corresponding to this environment, areas in
the region share a common set of cultural elements such as villages with raised-
floor houses, wrap-around type clothes and fish and rice eating culture. There is
ancestor worship and animism that worship nature such as mountains, rocks and
trees. This common culture of this region is similar to that of Japan.
The natural environment of Southeast Asia is classified to thre categories.
The mountainous areas in the north are laurel forest lands with many forests, and
their climate is very similar to that of western Japan. The mainland Southeast
Asian region has grasslands of tropical savanna which are good for rice farming.
The archipelago area is covered with tropical forests and yields international
commodities such as spices. The northern mountainous areas and the grasslands
are connected by big rivers namely, from west to east, the Chao Phraya River, the
Irrawaddy River, the Mekong River and the Red River. The islands and the mainland
areas are closely connected by numerous sea routes such as the Strait of Malacca.
There is no common language nor religion in Southeast Asia, and no one political
power historically could consolidate all areas there.
Southeast Asia is surrounded by rich seas such as the South China Sea and the
Indian Ocean, which has rich and large markets. Southeast Asia has been a place to
connect East and West markets via the sea routes. Southeast Asia has been also a
region to produce tropical commodities sought by whole world, such as spices and
ivory in the ascent time, and coffee, sugar and rubber in the modern time. Southeast
Asia is a self-sufficient region and also an international trade area.
Southeast Asia had kept close relations with international markets, being strongly
influenced by adjacent India and China, and yet generated its own culture.
In this chapter, we will see the period to the 8th century when the trade networks
had been developed on the basis of fundamental culture and the produce of
Southeast Asia became connected to international markets.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、85頁~86頁)
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
■Development of the Sea Road
In the 7th century, large cities were built in North China like Chang’an, and Luoyang,
under the Sui and Tang dynasties, and the development of Central and South China
advanced. The opening of the Grand Canal connected sea routes of Central and South
China with land routes of North China. In addition, in the west, the Abbasid dynasty
developed its city civilization.
The East-West maritime trade was developed remarkably in response to the demand of
the cities of both the eastern and western worlds. Transit ports were built along the coast
of the Strait of Malacca(マラッカ海峡) where passage had been very difficult, and the
navigation became safe. Both the eastern and the western worlds were linked directly
by sea. Many West Asians moved to the port cities of Central and South China, including
Guangzhou. The Tang dynasty put a maritime trade commissioner’s office (shibosi 市舶司)
which managed trades in Guangzhou to cope with the East-West maritime trade, and
built Protectorate General to Pacify the South in Vietnam(安南都護府) and made it
a base of southern maritime trade.
■States Ruling Maritime Routes
When the Strait of Malacca became the principal route, port polity groups formed a
coalition centering around Palembang of Sumatra and built Shrivijaya
(シュリーヴィジャヤ), a maritime state, and to manage the strait. Shrivijaya introduced
Buddhism of India and it became a Buddhism propagation center in Southeast and East
Asia. In the South China Sea, the power of Funan, which could not cope with the change
of the route, weakened, and instead, Champa in the central part of Vietnam, presided over
maritime trade of the South China Sea. It carried merchandise of the western world and
Southeast Asia to the East Asian markets.
On the other hand, the Malays around the Strait of Malacca also went into the northern
coast of Java, and connected the Moluccas, which was a production center of spices, and
the Strait of Malacca. In the 8th century, the Malays in Java established the Sailendra
(“Lord of the Mountain”)dynasty(シャイレンドラ朝), and succeeded Shrivijaya, and ruled
over the Southeast Asian maritime routes with mighty maritime power. In the 9th century,
Shrivijaya of the Sailendra dynasty built the largest Mahayana Buddhism(大乗仏教)
temple in the world in Borobudur(ボロブドゥール) in central Java.
アンコール=ワットの記述~『世界史B』(東京書籍)より
【東南アジア内陸国家の再編】
港市国家の拡大の動きに対応して、内陸の国家群も拡大をつづけ、広大な領域を支配するようになった。
11世紀はじめにベトナム北部に建てられた大越国の李朝(1009~1225)は、国際交易から切り離され、また国際性のある特産物にもめぐまれなかった。このため、農業を重視する中国文明の受容につとめて国家建設をすすめる一方、紅河(ホン川)デルタの開墾による農業生産の拡大に努めた。13世紀、李朝にかわった陳朝(1225~1400)は、紅河デルタに堤防網を建設し、大きな農業人口を確保した。同世紀末の3次にわたる元軍の侵略に対して、デルタの農民たちははげしく抵抗した。元軍を退けた陳朝は、南シナ海交易に参加するために南下し、中部沿岸の港市国家チャンパーへの侵略をくりかえして、領域を南に広げていった。
14世紀末、陳朝にかわった胡朝(1400~1407)は、陳朝のころにつくられたベトナム独自の文字チュノム(字喃)の使用を奨励して、漢籍の翻訳をすすめ、また科挙官僚を登用して独自な官僚制国家の整備に努めた。15世紀はじめ、大越は一時明に併合されるが、まもなく黎朝(1428~1527、1532~1789)のもとに独立を回復した。黎朝は、儒教を積極的に導入し、中国にならった官僚制的な中央集権国家を建設した。また、チャンパー王国を併合して、17世紀までに、ほぼ現在のベトナムの領域にまで広がった。
カンボジアでは9世紀以来、クメール王国(Khmer, アンコール朝 Angkor, 802ごろ~1431ごろ)がカンボジアや東北タイの平原の農業開拓に成功して、アンコールの地に大都市アンコール=トムを建設していた。12世紀に入ると、カンボジアやタイの物産を集荷して、メコン川を通じて南シナ海交易に進出した。クメール王国は13世紀はじめには、アンコールを中心にカンボジアからタイ、ラオス、マレー半島北部にいたる広大な地域を結ぶ交易路を支配下に置いた。
クメール王国による大陸内部の交易ルートの形成は、チャオプラヤ、サルウィンなど大河川の流域で稲作農業を営んでいたタイ人をめざめさせた。13世紀後半、タイ人は各地でクメールから独立し、新しい交易網をつくりあげていった。13世紀末には中部タイのスコータイ王国(Sukhothai, 1257~1438)が、14世紀中ごろにはチャオプラヤ川中流域におこったアユタヤ王国(Ayuthaya, 1351ごろ~1767)が有力になった。とくにアユタヤ王国は、内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め、これを中国や琉球に供給して発展した。また、上座部仏教を導入し、これを保護した。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり、ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。
ビルマでは、11世紀中ごろにビルマ人がイラワディ川中流域にパガン王国(Pagan, 1044~1287)を建てた。この王国は、雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、灌漑事業をおこしてビルマ平原の農業開拓に成功した。また、大乗仏教や密教と混在していた上座部仏教をとくに積極的に保護し、パガンを中心に多数の寺院を建立した。パガン王国は13世紀末以後、元軍の侵略とタイ系のシャン人の南下によって衰退したが、南部のモン人はベンガル湾沿岸にペグー(Pegu)などの港市国家を建設し、ベンガル湾交易を担った。
このように、大陸部東南アジアでは、内陸国家を内陸ルートを整備し、沿岸の港市国家を統合する努力がすすめられた。しだいに現在の国家領域を形づくられていった。
<アンコール=ワット>
世界最大のヒンドゥー教遺跡。クメール王国の12世紀の王スールヤヴァルマン2世が建設した(のちに仏教寺院)。
<パガンの仏教寺院群>
イラワディ川中流域のパガンには、12世紀以来、3000以上の寺院や仏塔が建造された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、193頁~196頁)
アンコール=ワットの英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
■Development of Port Polities
Although the Chinese economy lagged temporarily by the violent upheavals in China
in the end of the Tang(唐) dynasty, it recovered quickly under the Song. The South Sea
trade(南海交易) increased after the end of the 10th century. This brought big changes
to Southeast Asia.
In northern Vietnam, the Annan Protectorate(安南都護府) in Hanoi was dissolved
with ruin of the Tang dynasty. The junk ships which left South Chinese ports sailed
directly to Champa ports in central Vietnam. For this reason, northern Vietnam was
isolated from international trade. At this time, northern Vietnam became independent
of Chinese rule and the archetype of current Vietnam was made.
Instead of northern Vietnam, the Champa kingdom(チャンパー[占城]王国), which
was founded by Cham(チャム) of central Vietnam, prospered as a transit port of the South
China Sea route. Champa exported ivory and agarwood, which could be harvested in
its mountains, to China.
In that same period, on the coast of the Malay peninsula and Sumatra Island along the
Strait of Malacca, there emerged innumerable port polities which had connecting routes
among the South China Sea, the Java Sea and the Indian Ocean. After the 11th century,
a federal state called San-fo-ch’i(三仏斉) was founded. It prospered from tributary trade
with the Song dynasty of China.
After the 11th century, the Kediri kingdom(クディリ王国), located in eastern Java,
prospered. The kingdom connected the Moluccas Islands that produced spices to the Strait
of Malacca. Thereafter, the Shinghasari kingdom(シンガサリ王国) prospered due to
the agricultural development of the inland region Java the relay trade of spices. They had
competed with San-fo-ch’i for hegemony, and by the middle of the 13th century their
influence expanded even to Sumatra. Although the Yuan dynasty attacked and conquered
the Singhasari kingdom at the end of the 13th century, the Javanese army repulsed the
Yuan and a new leader founded the Majapahit kingdom(マジャパヒト王国). The Majapahit
rode a wave of trade development, and overwhelmed San-fo-ch’i in the second half of
the 14th century. Then they controlled the trade of almost the whole area of what is now
Indonesia which ranges from eastern Indonesia, all the Javanese islands to the Sumatra’s
east coast.
Thus, in maritime Southeast Asia since around the 11th century, the port polities unified
the producing inland and port cities and formed vast territories beyond the conventional
rule over the coasts and the sea routes. Their states were strengthened by connecting
international commerce. At this time, the indigenous such as Wayang in Indonesia, Indian
and Islamic culture merged to ethnic cultures. Here, we can see the prototypes of
Southeast Asian island countries of today.
■Reorganization of the Inland States in Southeast Asia
Corresponding to the expansion movement of the port polities, inland states also
continued to expand their territories and came to govern vast domains.
As the Ly dynasty(李朝) of Dai Viet(大越国) built in northern Vietnam at the beginning of the 11th century, it was separated from international trade and not blessed with special produce. Therefore, it made efforts to receive the Chinese civilization, which emphasized
farming, and to consolidate its national strength. It also strove to expand the agricultural
output by cultivating the Red River Delta(紅河[ホン川]デルタ). The Tran dynasty(陳朝)
replaced the Ly in the 13th century and built the network of dykes in the Red River Delta,
thereby creating condition for a large farming population. The farmers of the delta fiercely
resisted three invasions from the Yuan army in the end of the century. The Tran dynasty,
which drove back the Yuan army, advanced south in order to participate in the South China
Sea trade, and it repeatedly invaded Champa, a port polity in the central coastal region,
thereby extending its domain to the south.
At the end of the 14th century, the Ho dynasty(胡朝), which replaced the Tran dynasty,
encouraged the use of the unique Chu Nom characters(チュノム[字喃]) of Vietnam. It also
promoted the translation of Chinese books using the Chu Nom and made efforts to develop
a new bureaucratic nation which appointed bureaucrats only who passed an employment
examination. Although Dai Viet was merged temporarily into the Ming in the early 15th
century, it soon regained its independence under the Le dynasty(黎朝). The Le introduced
Confucianism and built a centralized state which adopted the politico-legal system
(律令制度) modeled after the Chinese system. It merged the Champa kingdom and, by the
17th century, spread its domain almost to the whole area of present day Vietnam.
In Cambodia, since the 9th century, the Khmer kingdom(クメール王国, Angkor dynasty
アンコール朝) succeeded in agricultural exploitation of the plains of Cambodia and northeastern Thailand, and built the big Angkor Thom(アンコール=トム) city in Angkor. Since the beginning of the 12th century, the Khmer collected produce from Cambodia and
Thailand. It advanced into the South China Sea trade by carrying goods through the
Mekong River(メコン川). At the beginning of the 13th century, the Khmer kingdom
dominated the trade routes that connected the vast area around Angkor, including
Cambodia, Thailand, Laos, to the northern Malay peninsula.
The development of the inland trade routes under the Khmer kingdom awoke the Thai
people, who were cultivating rice fields in the basins of great rivers such as the Chao
Phraya(チャオプラヤ) and Salween(サルウィン) Rivers. In the second half of the 13th
century, the Thais became independent of the Khmer in various places, and built a new
trade network. At the end of the 13th century the Sukhothai kingdom(スコータイ王国)
of central Thailand was dominant. The Ayutthaya kingdom(アユタヤ王国), founded in
the middle reaches of the Chao Phraya River, expanded its strength in about the
mid-14th century. It collected and brought inland produce to the Thailand bay
area and carried them to China or Ryukyu, thereby prospering. The king introduced and
protected Theravada Buddhism(上座部仏教). The kingdom brought the district powers in
northern or northeastern Thailand under its control and succeeded in the integration
of the area that roughly corresponds to present day Thailand in the 15th century.
In Burma, the Burmese built the Pagan kingdom(パガン王国) in the middle Irrawaddy
River(イラワディ川) basin in the mid-11th century. This kingdom prospered from trade
which connected the Bay of Bengal(ベンガル湾) and Yunnan(雲南). It also started an
irrigation enterprise, and succeeded in agricultural development of the Burma plain.
The kingdom declined after the invasion of the Yuan army and southern incursions of
the Thai Shans(シャン人) after the end of the 13th century. The Mons(モン人),
who lived in the south of Burma, built port polities, such as Pegu(ペグー) on the Bay of
Bengal coast, and thereby controlled the bay trade.
Thus, in mainland Southeast Asia, the landlocked states built the inland routes and
continued to make their efforts to unify the coastal port polities. This is how the territories
of present nation state were gradually formed.
8世紀という時代とボロブドゥール
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])においては、ボロブドゥールについて、次のように、8世紀という時代との関連で取り上げていた。
【8世紀の世界 文明世界の成立】
古代の帝国が民族移動などで解体したのち、8世紀にはふたたび広大な領域を支配する帝国が繁栄し、その帝国を中心として一つの文明を共有する広域の文明世界が成立した。東アジアには儒教・仏教の唐が、中央アジアから北アフリカにはイスラーム教のアッバース朝が、東ヨーロッパにはキリスト教のビザンツ帝国が栄え、それぞれ東アジア世界、イスラーム世界、東ヨーロッパ世界が形成された。また、フランク王国は、イスラーム勢力の侵攻を防ぎ、ビザンツ皇帝と対立するローマ教会との結びつきを強めて西ヨーロッパ世界をまとめていった。
唐は周辺諸国に大きな影響を与え、東アジア諸国は律令、漢字、儒教、仏教などを受容した。首都の長安は、諸外国の使節や留学生のほか、ソグド人、イラン人、アラブ人などの商人が訪れ、仏教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられた国際都市となった。広大な領域を支配したアッバース朝のもとではイスラーム法にもとづく統治がめざされ、さまざまな学問の研究がすすめられた。また、ムスリム商人は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸の陸上交易や、インド洋、南シナ海の海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに、世界各地の物産が市場(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。ビザンツ帝国は、皇帝が教会を支配する独自の世界をきずいた。首都コンスタンティノープルは、絹織物など各種の手工業や商業がさかんで、貨幣経済は繁栄をつづけ、国際的な交易都市として栄えた。
<アーヘンの大聖堂>
ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し、王宮、大聖堂を建てた。
<聖(ハギア)ソフィア大聖堂>
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに6世紀に建てられた円蓋のある大聖堂。円蓋の直径は32mにも達する。
<ウマイヤ=モスク>
8世紀前半にダマスカスに完成した現存する世界最古のモスク。もとはキリスト教の教会であったが、モスクとして増改築された。
<唐を訪れた外国使節>
唐の都長安には遠方より多くの使節が貢ぎ物をささげてやってきた。左の3人は接待をしている唐の役人で、右の3人が外国使節。黒服の人物はビザンツ帝国のの使者、その右が新羅の使者と考えられている。
<新羅の古墳公園>
新羅は7世紀後半に百済、高句麗を倒して半島全域を統一した。唐の冊封を受け、中国の制度を導入し、仏教文化を開花させた。
<遣唐使船>
7世紀前半にはじまった遣唐使は、唐の文化や政治制度の摂取に努めた。小型の4隻の船で渡航するのが一般的であった。
※なお、「8世紀の世界」の地図には、シャイレンドラ朝のボロブドゥールが記されている!
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、136頁~137頁)
■World in the 8th century
After ancient empires were ruined by migrant movements and others, new
empires appeared again in the 8th century, which governed vast areas. Byzantine
Empire of Christianity, Abbasid dynasty of Islam and Tang dynasty of Confucianism
and Buddhism flourished. And three worlds centering around those empires were
formulated.
Frankish Kingdom 732 Battle of Tours-Poitiers
Byzantine Empire ~Constantinople
Abbasid dynasty 751 Battle of Talas Transmission of papermaking to West
Tang dynasty ~Chang’an
Southeast Asia Borobudur
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、108頁~109頁)
ボロブドゥールと作家・田中阿里子~『ボロブドウル幻想』より
【ボロブドゥールについて】(ウィキペディアより)
ボロブドゥールは、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する仏教遺跡である。
ミャンマーのパガン、カンボジアのアンコール=ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺の1つである。
インドから東南アジアに伝播した仏教は、一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。
シャイレーンドラ王朝の時代、大乗仏教を報じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられている。
シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀にかけて、オーストラロイド系の民族がジャワ島中部に建てたとされる王朝である。
シャイレーンドラはサンスクリット語で、「山からの王」という意味である。
インドシナ半島の古代王国扶南の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。
・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)
・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)
ボロブドゥールは、それ自体が仏教的宇宙観を象徴する巨大な曼荼羅といわれ、一説には、須弥山を模したものとも考えられている。
田中阿里子(1921~2016)は、京都市に生まれ、京都高等女学校を卒業後、日本電池に勤務して、昭和18年、インドネシア、スラバヤ支社に勤務した。そして、この本に収録された「ボロブドウルと私」において、昭和19年の秋頃に、先輩社員に案内されて、中部ジャワの旅に出て、その際に、ボロブドウル(ボロブドゥール)を訪れたことを記している。
(そして、1980年代から90年代に、何度か再び訪れたという)
〇田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年
・昭和19年の秋頃、田中阿里子氏はボロブドゥールを訪れた。
・当時、遺蹟に近付いてみると、それはいかにも灰の下で埋もれていたというように色があせており、基壇の一部などは今にもこわれそうに風化したいたという。
・「日本では奈良の東大寺が造られた頃にこれも出来た。メラピ火山の噴火の灰の中で長く眠っていた。それが、1814年にはじめて西洋人が、汚れた仏蹟を発見して後にオランダ政府が一応の修理をした」と案内者が話していた。
・回廊に出てみるとそこはまだしっかりしている。左の方へ歩くと、一方の石の欄干には等間隔で仏像が安置してあり、他方は壁になっていて、そこに彫刻が施してあった。
「これが話にきいていた釈尊の一代記だ」と気がついて心が躍り、レリーフを一枚ずつみて歩いた。嬉しいことに母の摩耶夫人が受胎の夢をみる処も、ルンビニ園へ行く場面もはっきりとみてとれる。さらに貴重な、「天上天下唯我独尊」の誕生仏をも拝して、心が喜びにみたされた、と記している。
・方形壇の回廊のレリーフは、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教教典『華厳経入法界品』などが描かれている。
(釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については、史実とともに数々の伝説もまじえて、詳細に表現されている)
田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている。
「この日もやはり私達は、第一回廊主壁上段のレリーフを見るのが精いっぱいで、第二、第三、
第四までの回廊をめぐる元気はなかった。五キロメートルを超える距離もさりながら、レリーフの数は二千数百枚に上るのであり、そのうち釈尊の生涯を語るものは、百二十面にすぎない。ほかは本生譚とか、あるいは人間のめぐる六道輪廻の世界とかを描いているのであろう。」
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、14頁~15頁)
・仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められている。
(いずれも一石造りによって等身大につくられている。計504体を数える)
田中阿里子氏は、1984年の夏に、ジャワの観光ツアーに出かけた際に、次のように述べている
「石仏の方は最初は五百四体あったらしいが、今は損傷して数が減っている。けれども第一、第二、第三回廊に安置された仏像のうち、東方に阿閦如来(あしゅくにょらい)、西方に阿弥陀如来、南方に宝生(ほうしょう)如来、北方に不空成就如来、そして第四回廊の石仏はすべて大日如来像、ストウパの中の仏が釈迦如来と、ガイドの人の話をきけば、私はもう充分であった。青春の日に参詣してからすでに四十年近い年月を経ているが、その間にはボロブドウル修復キャンペーンの展覧会もみたりしているので、知識はふえている。しかし実際の石仏を拝み、釈迦伝を見廻ってくると、それで仏蹟参拝の満足感は何物にもかえがたい喜びを私にもたらした。
(田中阿里子『ボロブドウル幻想』徳間文庫、1993年、15頁)
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