歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その2≫

2021-03-26 19:31:16 | 漢字について
≪【新刊紹介】金文京編『漢字を使った文化はどう広がっていたのか(東アジア文化講座第2巻)』その2≫
(2021年3月26日)
  



【はじめに】


今回のブログでは、金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年3月12日、3080円)に収められた個々の論文を紹介してみたい。
ただし、筆者の関心のある論文に限定させていただく。



【金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか』はこちらから】

漢字を使った文化はどう広がっていたのか: 東アジアの漢字漢文文化圏 (東アジア文化講座)




金文京編『東アジア文化講座第2巻 漢字を使った文化はどう広がっていたのか――東アジアの漢字漢文文化圏――』(文学通信、2021年)
本書の目次は、「序」および第1~5部に分かれている。
【目次】
序   東アジアの漢字・漢文文化圏
第1部 漢字文化圏の文字
 01  漢字の誕生と変遷―甲骨から近年発見の中国先秦・漢代簡牘まで(大西克也)
 02  字音の変遷について(古屋昭弘)
 03  新羅・百済木簡と日本木簡(李成市)
 04  ハングルとパスパ文字(鄭光)
 05  異体字・俗字・国字(笹原宏之)
 06  疑似漢字(荒川慎太郎)
 07  仮名(入口淳志)
 08  中国の女書(nushu)(遠藤織枝)
 09  中国地名・人名のカタカナ表記をめぐって(明木茂夫)

第2部 漢文の読み方と翻訳
 01  日本の訓読の歴史(宇都宮啓吾)
 02  韓国の漢文訓読(釈読)(張景俊[金文京訳])
 03  ウイグル語の漢字・漢文受容の様態(吉田豊)
 04  ベトナムの漢文訓読現象(Nguyen Thi Oanh)
 05  直解(佐藤晴彦)
 06  諺解(杉山豊)
 07  ベトナムにおける漢文の字喃訳(嶋尾稔)
 08  角筆資料(西村浩子)
 09  日中近代の翻訳語――西洋文明受容をめぐって(陳力衛)

第3部 漢文を書く
 01  東アジアの漢文(金文京)
 02  仏典漢訳と仏教漢文(石井公成)
 03  吏文(水越知)
 04  書簡文(永田知之)
 05  白話文(大木康)
 06  日本の変体漢文(瀬間正之)
 07  朝鮮の漢文・変体漢文(沈慶昊)
 08  朝鮮の吏読文(朴成鎬)
 09  琉球の漢文(高津孝)

第4部 近隣地域における漢文学の諸相
 01  朝鮮の郷歌・郷札(伊藤英人)
 02  朝鮮の時調――漢訳時調について(野崎充彦)
 03  朝鮮の東詩(沈慶昊)
 04  句題詩とは何か(佐藤道生)
 05  和漢聯句(大谷雅夫)
 06  狂詩(合山林太郎)
 07  ベトナムの字喃詩(川口健一)

第5部 漢字文化圏の交流――通訳・外国語教育・書籍往来
 01  華夷訳語――付『元朝秘史』(栗林均)
 02  西洋における中国語翻訳と語学研究(内田慶市)
 03  朝鮮における通訳と語学教科書(竹越孝)
 04  長崎・琉球の通事(木津祐子)
 05  佚存書の発生――日中文献学の交流(住吉朋彦)
 06  漢文による筆談(金文京)
 07  中国とベトナムにおける書籍交流(陳正宏[鵜浦恵訳])
 08  中国と朝鮮の書籍交流(張伯偉[金文京訳])
 09  東アジアの書物交流(高橋智)
 10  日本と朝鮮の書籍交流(藤本幸夫)
 11  日本における中国漢籍の利用(河野貴美子)





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


上記の【目次】の中から、次の論文を紹介してみたい。

〇大西克也「漢字の誕生と変遷」
〇荒川慎太郎「疑似漢字」
〇宇都宮啓吾「日本の訓読の歴史」
〇Nguyen Thi Oanh「ベトナムの漢文訓読現象」
〇嶋尾稔「ベトナムにおける漢文の字喃訳」
〇金文京「東アジアの漢文」
〇伊藤英人「朝鮮の郷歌・郷札」
〇川口健一「ベトナムの字喃詩」
〇栗林均「華夷訳語――付『元朝秘史』」
〇河野貴美子「日本における中国漢籍の利用」







大西克也「漢字の誕生と変遷」


1899年に甲骨文が発見されてから約120年、漢字の歴史的研究は目覚ましい進歩を遂げた。
とりわけ、大きな威力を発揮したのが、戦国時代から後漢・三国時代にかけての簡牘(かんどく、竹簡や木簡の総称)や帛書(はくしょ、書写用の白い絹)に筆で記された手書きの文字資料であった。
漢字の変遷のあらましは、次のように変化する。
①殷代の甲骨文字 ②周代の金文 ③秦漢時代の篆書・隷書 ④後漢末期の楷書

大西克也氏(東京大学教授、専門は中国語学・漢字学)は、単なる字姿の変化を追うのではなく、言語や社会・文化、テキストとの関わりからの視点を交えつつ、誕生から楷書の成立に至る漢字の前半生を描き出している。
(大西、2021年、25頁~33頁、428頁)

荒川慎太郎「疑似漢字」


荒川慎太郎氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授、専門は西夏語・西夏文献)は、「「漢字文明圏」と「疑似漢字」」と題して、興味深いことを述べている。
・漢字は、漢語を表記するのみならず、東アジアを中心として分布する非漢語の表記にも強い影響を与えた。
・疑似漢字には、具体的には、契丹文字、西夏文字、女真文字が該当する。
中国北方、西方、東北には、遼(契丹)(916~1125年)、西夏(1038~1227年)、金(1115~1234年)という国家が並存した。契丹文字、西夏文字、女真文字は、それぞれの国家が皇帝の名において、創製し公布した文字である。

これらの「疑似漢字」が研究され始めたのは、そのような研究背景があるとされる。
藤堂明保が、古典的な「漢字文化圏」を提示した。
〇藤堂明保「漢字文化圏の形成」
(『岩波講座世界歴史6 東アジア世界の形成Ⅲ』岩波書店、1971年)
〇藤堂明保『漢字とその文化圏』
(中国語研究・学習叢書、光生館、1971年)
藤堂の古典的な「漢字文化圏」観は、「日本・朝鮮・ベトナム」に於ける漢字受容と、各地でここに発展した漢字字形を対象としたものであった。

一方、西田龍雄は、西夏文字・契丹文字の解読と、東アジア各種文字の詳細な研究から、より深いレベルでの「漢字の周辺文化への影響」を論じた。
〇西田龍雄『漢字文明圏の思考地図』
(PHP研究所、1984年)
西田自信の用語でいえば、「漢字文明圏」と呼ばれる。
この漢字文明圏の中でも特異な位置を占めるのが、疑似漢字と呼ばれる、一群の文字体系であった。

疑似漢字はすべて使用者が絶え、「漢字系文字による、非漢語の表記を行う、独立した民族」は現在まで存在しない。
(ただ、契丹、西夏、女真文字の中で、国家さえ存続していたならば、西夏文字が存続した可能性が高いとされる)
しかし、疑似漢字という、いわば「表現システムの実験」が無駄であったかというと、そうではない。
西夏文字であれば、「漢字にない発想の会意文字の創出」、契丹文字であれば、「既存の文字に無い、興味深い表音システム」など、文字学・文字論を考えるうえで、重要な例を提供し続けてくれると、荒川氏は強調している。
(荒川、2021年、96頁~101頁)

宇都宮啓吾「日本の訓読の歴史」


宇都宮啓吾氏は、大阪大谷大学教授で、専門は日本語学、文献学である。
日本における訓読とは、漢文という中国語を日本語で理解するという点では、翻訳と似通っている。しかし、漢文の表記をそのまま用いて、語句等に切り分け、配列し直して日本語文となるように再構築することで、その表現内容を理解しようとする行為であるため、翻訳とは異なる。翻訳とは、ある言語で表現された文章内容を、その原文内容に即して別の言語に置き換えて表現することだからである。

切り分け方や配列し直す時に用いる符号、さらには日本語文として再構築(読み下し)するときに補う和訓や助詞などの用い方は、長い年月をかけて創意工夫されてきた。
例えば、漢文訓読に用いるレ点も、12世紀頃から使用されるようになり、当初は漢字と漢字の間に記入されていた。そして14世紀後半以降になると、現在のような文字の左端に記入されるようになったそうだ。

本稿では、奈良時代以前から江戸時代までの日本における漢文訓読の歴史について、文化的な背景をも考慮しながら、概観している。
(宇都宮、2021年、129頁~141頁)

Nguyen Thi Oanh「ベトナムの漢文訓読現象」


Nguyen Thi Oanh(グエン・ティ・オワイン)氏は、タンロン大学(ベトナム)のタンロン認識・教育研究所副所長である。専門は、ベトナム前近代における漢籍、漢文資料によるベトナムの漢文文学である。ベトナム・中国・日本の説話に関する比較研究なども行っている。

「漢文訓読」とは、日本人によって使用される術語である。その意味内容は次のようなものである。
〇漢文訓読は、原文から離れた訳文を作るのではない。それは、原文の文字をそのまま残しつつ、原文の漢字を日本語に置き換えながら、日本語の語順に従って読み進めるものである。
〇そして、日本語に置き換えたり、日本語の順番に転倒したりする時に、返り点、ヲコト点などの補助的符号(訓点)を採用する。

従来、漢文訓読は日本における特別な現象と考えられていた。しかし、ベトナムの李・陳王朝(11世紀から15世紀にかけて)に成立した説話集『嶺南摭怪(れいなんせきかい)』や碑文などの漢文資料には、日本と同様、訓読みの現象が確認できるとされる。

日本の変体漢文と漢文訓読からみた場合、ベトナムの訓読み、漢文訓読をいかにとらえることができるのか。これがNguyen Thi Oanh氏の問題提起である。
この問題意識のもとに、四書五経の『礼記』『孟子』の漢字・字喃(チューノム)対訳作品における訓読みと漢文訓読現象を解明しようと試みる。

ベトナムにおいて訓読が発達する前に、『日本霊異記』と同様、漢字とベトナム語(字喃)とを混淆して記したものに、『嶺南摭怪』がある。ベトナムの漢文訓読の歴史的な流れは、日本の訓読と共通点があるようだ。すなわち、最初は音読が主流であったが、訓読が発達する。次に字音が用いられると共に、字訓が定着する。
ただ、相違点もある。ベトナム語は中国語と同様、孤立語であるから、「返り点」、「ヲコト点」などという訓点符号は必要ないが、漢字の四隅に破音という小さな符号を加点することがあるという。
また、日本の漢文訓読の場合、単語は訓読み、熟語は音読みされる傾向があるが、ベトナムの訓読の場合は単語も熟語も訓読みであるそうだ(当時、辞書が少ないからであるとする)。
(Nguyen Thi Oanh、2021年、161頁~166頁、429頁)

嶋尾稔「ベトナムにおける漢文の字喃訳」


嶋尾稔氏は、慶応義塾大学言語文化研究所教授であり、専門はベトナム史である。
ベトナム前近代において、よく参照される重要な著作については、字喃で表記されたベトナム語訳が付されることがあった。
(字喃を読むためには漢字の知識が必要であり、このベトナム語訳が読めるのは漢字のできる知識人だけであった)
普通の人がこのベトナム語訳を読めたわけではなく、その訳は知識人が漢文の世界とベトナム語の世界を媒介する際の負担を若干軽減するためのものであった。
そのような事例を紹介して、ベトナムの前近代社会において、漢文がどのように読まれたかを考えるための糸口を提供している。
その際に、中国の童蒙教育書である『三字経』にベトナム語訳を付した『三字経釈義』を取り上げている。
ベトナムにおける漢文の訳について、5つのパターンを紹介している。
これらのベトナム語訳は、漢文に従属するか、漢文とセットで示されるものである。
(漢文の字喃訳を単独で刊行した事例は、今のところ発見されていないそうだ。)

なお、「ベトナムにおける漢文の字喃訳」という主題は、本講座の編者の発案で取り組んだことを、最後に断っている。
(嶋尾、2021年、181頁~185頁)

金文京「東アジアの漢文」


金文京氏は、京都大学名誉教授で、専門分野は中国文学(戯曲、小説)である。
『漢文と東アジア――訓読の文化圏』(岩波新書、2010年)などの著書があり、東アジアの漢字・漢文文化圏を研究する第一人者である。そして、本巻の編者でもある。

今日、日本で「漢文」と言えば、『論語』や『孟子』、『史記』など高校の「漢文」教科書に出てくるような文章を思い浮かべる。ただ、この「漢文」は日本での呼称である。
本家の中国では、「文言文」または「古文」と言う。「漢文」は漢代の文章のことであるそうだ。

日本での「漢文」という呼び方は、「和文」に対するものである。その背景にあるのは、和(日本)と漢(中国)を対比させる考え方である。このような考え方は、『和漢朗詠集』(1013年頃)のように、平安時代中期から顕著になった。

この「漢文」を文学史的に定義すれば、先秦時代の儒家を含む諸子百家およびその流れを汲む漢代の文章、「左国史漢」(『春秋左伝』、『国語』、『史記』、『漢書』)などの歴史書、そして唐代中期の韓愈、柳宗元の古文運動以後の唐宋八家(上記唐代の二人と、北宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曽鞏[そうきょう]、王安石)の文章、およびそれを模範とする後代の文章ということになるようだ。
ここでは、狭義の「漢文」の話に限定している。この狭義の「漢文」こそは、中国だけでなく、その影響を受けた東アジア漢字文化圏において、もっとも重んじられた文章の正宗である。
金文京氏は、その性格と文化的意義について、実例をもって示している。
(金文京、2021年、199頁~216頁)

伊藤英人「朝鮮の郷歌・郷札」


伊藤英人氏は、専修大学特任教授で、朝鮮半島の言語史、中韓言語接触史が専門である。
郷歌(きょうか)は、新羅時代の詩歌14首、高麗時代の詩歌12首を総称した名称である。郷札(きょうさつ)は、郷歌を表記した借字表記法をさす。
(「郷」が中国語(漢文)に対する地方俗語の意味で、朝鮮語を「方言」と呼んでいた新羅の言語観を反映する名称である)

888年、真聖王は大矩(だいく)和尚らに命じて郷歌を蒐集し、『三代目(さんだいもく)』という郷歌集を編纂させた。
『三代目』は、今日伝わらないが、漢字表記による現地語の詩歌集が編まれたという点で、日本の『万葉集』に、王権による官撰歌集であるという点で『古今集』に似るが、日本の和歌と郷歌の位相は、根本的に異なるようだ。

例えば、現存する8世紀以前の和歌は『万葉集』のみで4千数百首、郷歌は13首(処容歌1首のみ9世紀)である。万葉集歌は伝承されたが、朝鮮時代まで伝承されたのは処容歌1首のみである。
何よりも「和歌」と「郷歌」という名付けが両者の位相の差異を端的に物語っている。日本には平安時代には「和漢」という対等な文学意識が芽生えた。しかし朝鮮半島で「国漢(こっかん)」という概念が導入されたのは近代以降のことである。いわゆる「中国圧」の強弱が両者の性格を異にさせた主要因であったと、伊藤氏は考えている。

郷歌は、韓国の国文学史の最初を飾る「国語詩歌」として国語教育で言及されたものである。その意味では現在も「享受」されている詩歌であるといえるようだ。享受されかた、つまり解読の結果は、15世紀語のハングル表記によって示される。これは日本の国語教科書で、万葉集歌が万葉仮名表記ではなく、後代に成立した表音文字(日本の場合、仮名文字と漢字の混用)で記され、現代日本語の音韻に合わせて読まれるのと、軌を一にした現象であるそうだ。
(一般的な古典受容の在り方として、それ自体何ら異とするに足りない。言語学的には、新羅語の音価による語形再建が目的とされる)

郷札研究は、漢字音史研究からも更なる解明を俟つ沃野であるとする。それは、日韓両言語の類型論的、系統論的研究に豊富な題材を提供するものであるという。
(伊藤、2021年、279頁~289頁)

川口健一「ベトナムの字喃詩」


字喃(チュノム)とは、口語ベトナム語を表記するために考案されたベトナム文字のことである。
15~19世紀にベトナムで作られた代表的な字喃詩集と長編物語を取り上げ、概説している。

〇字喃詩集として、次の3点を取り上げ、作者や詩集の構成・題材などを解説している。
①『国語詩集』(阮廌、15世紀)
②『洪徳国音詩集』(合作詩集、15世紀)
③『春香詩集』(胡春香、印行年不明)

〇字喃詩による長編物語として、次の2点を取り上げている。
①『金雲翹新伝』(阮攸、19世紀初め)
②『陸雲仙』(阮廷炤、19世紀)
ベトナムの字喃文学は、ベトナム独特の文芸形式である六・八体(六言と八言の句を押韻しつつ交互に繰り返す形式)および双七・六・八体(七言二句に続けて六言と八言を押韻しつつ繰り返す形式)による長編物語である。
『翹伝』は、中国の原作『金雲翹伝』の通俗性を乗り越えた芸術性と文学的価値を示す傑作としてベトナム文学史に確たる位置を占めると評される。

字喃詩は、ベトナム民族の生活感情を表出することにおいて、漢詩に優る。
ただ、唐詩の形式から必ずしも自由になることができなかった点において、一定の限界があったようだ。
字喃は、文字構成が複雑なために、統一的な規範が制定されるには至らなかった。
ベトナム語表記の可能性を深く広げたのは、20世紀中葉に漢字と字喃に取って代った表記文字ローマ字(ベトナム語でクオック・グー(国語)と呼ぶ)であった。
(川口、2021年、322頁~327頁)

栗林均「華夷訳語――付『元朝秘史』」


「華夷訳語(かいやくご)」は、「華」(漢語)と「夷」(周辺民族)のことばの翻訳がその字義である。
書名としては、明朝と清朝の時代に周辺諸国との通信や使節の接受に携わる官吏の外国語学習のために編纂された漢語と外国語との対訳語彙集、および文例集を指す。

洪武22年(1389)に、漢語とモンゴル語の対訳語彙と文例集が、「華夷訳語」として公刊された。その後これに倣って、他の周辺民族の言語についても、同様な対訳語彙・文例集が、「華夷訳語」の名を冠して編纂された。
このように、「華夷訳語」には、時代的にも内容的にも異なる種類のものが存在する。

「華夷訳語」には、甲種本から丁種本まで4種類あるとされ、その特徴をまとめている。
また、副題にある『元朝秘史』とは、チンギス・カーンの一代記を中心に、その祖先から説き起こしてモンゴル帝国第二代皇帝オゴタイ・カーンの治世に至るまでの歴史を綴ったモンゴル語の著作である。
モンゴル文字で書かれていたであろう原本は伝わらず、現存するものは明朝洪武年間に漢字をもってモンゴル語を写した「漢字音訳本」である。
『元朝秘史』と甲種本「華夷訳語」は、同時代の文献という以上に、緊密な関係がある。「華夷訳語」は『元朝秘史』の原型の漢字音訳方式を反映しているそうだ。両者は明朝の翻訳官によってモンゴル語を学習するための教材として編纂された。
(栗林、2021年、331頁~340頁)

河野貴美子「日本における中国漢籍の利用」


河野貴美子氏は、早稲田大学教授で、和漢古文献研究、和漢比較文学が専門である。著書に、『日本霊異記と中国の伝承』(勉誠社、1996年)などがある。

河野氏は、「日本における中国漢籍の利用」と題して、次の3節に分けて論じている。
 1 国家経営の基盤としての漢籍の知
 2 日本における漢字・漢文学習と漢籍
 3 日本の言語文化の形成と漢籍――和と漢の往還

1 国家経営の基盤としての漢籍の知


古来、日本の学術文化は漢籍の知を主たる基盤として形成されてきた。
日本は8世紀に入り律令を制定し、中国をモデルとする国家の構築を目指した。官僚を養成する大学・国学において、経書などの漢籍を教科書とするカリキュラムが立てられ、国家経営を支える学知として、漢籍の学習が行われた。同時に漢籍の摂取に力が注がれた。

日本にとって、漢字漢文、そして漢籍を導入するには、国内の体制構築にその知を利用するだけでなく、中国を中心とする東アジアに展開していた漢字漢文文化圏の一員として、その秩序の内に加わるという意味があった。

日本に積極的に輸入された漢籍の状況は、9世紀末に編纂された漢籍目録『日本国見在書目録』(藤原佐世[ふじわらのすけよ]撰)に著録される書目からも把握できる。それは、書目の分類自体を『隋書』経籍志の分類体系に則っており、その範囲は経・史・子・集の全領域にわたる。

ただ、例えば、『枕草子』に「文は、文集。文選、新賦。史記、五帝本紀……」と記されているように、『文選』や『史記』と並んで、とりわけ白居易の『白氏文集(はくしもんじゅう)』が絶大の人気を得ている。このように、日本においては、漢籍に対して中国と異なる
独自な志向も生じた。
そしてその結果、日本では、中国に伝わらない漢籍もが、現在に至るまで、いわゆる佚存(いつぞん)書として残るというユニークな現象がみられる。

2 日本における漢字・漢文学習と漢籍


次に、日本における漢字・漢文学習や言語文化の形成において、いかなる漢籍がいかに利用されたのかについて、具体的にみている。漢字・漢文の学習のための基本的な工具書として利用されたのは、辞書、注釈書、類書、そして幼学書の類であった。

〇漢字の音義研究のための辞書としては、梁・顧野王の『玉篇』や『切韻』、あるいは仏教においては玄応(げんのう)や慧琳の『一切経音義』などがあげられる。
〇経書の注釈書としては、孔安国伝『古文孝経』や皇侃(おうがん)『論語義疏』が特に好まれ、日本にのみ伝わる佚存書となった。日本においては中国の経書が盛んに学ばれ、平安期には訓読のための訓点が施されたいわゆる点本も多数現れてくる。ただ、中世後期の抄物までは、日本で経書の注釈書が別途作成されることはなかったようだ。平安・鎌倉期においては、経書の学習は、中国の各種注疏を参照して行われた。
〇さらには、漢籍の情報を摂取するための参考書として、『芸文類聚』をはじめとする類書が活用された。
〇また、故事など中国の古典知識を学ぶ手段として、『千字文』や『蒙求(もうぎゅう)』といった幼学書がその役割を果たした。

3 日本の言語文化の形成と漢籍――和と漢の往還


漢字漢文の知は、訓読を経て日本語化され、日本の言語文化を豊かに形成する糧となった。
例えば、源為憲が撰述した『世俗諺文(せぞくげんぶん)』(寛弘4年[1007]序)がある。これは、漢籍や仏典を典拠としつつも、すでに日本語の中に「諺」として融け込んでいる語句を取り上げ、その出典の原文とともに列挙するものである。

このことは次のようなことを反映している。
・当時、漢籍由来の成語が多数日本語環境に取り込まれていたこと
・もとの漢籍の「本文」(原文)についての知識もが求められる学問世界の状況があったこと

『平家物語』冒頭で、本朝の物語を述べるにもかかわらず、「遠く異朝をとぶらへば……」と記されているように、和文による著述がなされるようになってもなお、日本の言語文化においては、漢籍と引き合わせて述べることが必要とされたようだ。
例えば、『源氏物語』をはじめとする和文作品の注釈書や和歌を論じる歌学書においても、しばしば漢字や漢語、漢文、漢籍あるいは漢詩との関係が言及される。

一例をあげている。『源氏物語』「蓬生(よもぎう)」巻の「つやゝかにかひはいて」という一節に対して、一条兼良(1402~1481年)の注釈書『花鳥余情』は「貧家浄掃地といふ心なり。東坡詩にあり」との解を加える。「貧家浄掃地」とは、蘇東坡(1036~1101年)詩の詩題である。
兼良がここで蘇東坡詩を引くのは、和文で綴られた日本の言語文化が、いかに漢籍の世界とも通じ合う価値を有するものであるかを示すものと、河野氏はみている。
また室町期の抄物や江戸期の著作は、さらに新たな漢籍の情報をも取り入れながら、知を重ねていく。

このように、日本の学術文化は、漢籍の知を吸収し、また漢籍とのつながりを意識しながら、仮名と漢字、和文と漢文の間を往還しつつ、思考を蓄積し、著述を形成してきた。
(河野、2021年、423頁~427頁)

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