歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その12≫

2021-02-14 18:26:08 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その12≫
(2021年2月14日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログからは、日本の近代以降の書を取り上げる。
 まず、石川九楊の日本書史の見方について紹介し、西郷隆盛、夏目漱石、正岡子規、会津八一の書について考えてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・石川九楊の日本書史の見方について
・西郷隆盛の書について
・夏目漱石(1867-1916)の書について
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石と日展
・会津八一(1881-1956)と書の評
・会津の書と絵についてのエピソード







日本の書道の歴史 近代以降


石川九楊の日本書史の見方について


明治時代以降において、日本の芸術の近代化は、絵画・音楽と書では、その近代化のモデルが異なっていたと石川九楊は捉えている。
900~1800年代半ばまで、日本の書の基本スタイルは、三蹟のスタイル(和様)で変わらなかった。つまり、927年に小野道風の「屏風土代」という書が書かれたが、三蹟の一人藤原行成の「白氏詩巻」が典型的、代表的な三蹟の書であると石川はみなす。この作品は、ちょうど『源氏物語』が生まれた1000年過ぎぐらいの書である。この一般に和様とよぶスタイル(書体)の書が明治時代に入るまで、日本の書史の中央を歩んだ。江戸時代の御家(おいえ)流もその系譜上の書である。もと江戸時代の大判や小判の字は、御家流で書かれていた。
つまり、小野道風に始まり藤原行成で完璧になった三蹟のスタイル(和様)は、明治維新まで日本の書の中央にあった。特に江戸時代には徳川幕府御用達の御家流とよばれる公用の基本書体として、公文書のたぐいはこの書体で書かれていた。しかし明治時代に入り、書は一大変革をとげた。
(石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年、149頁~151頁)

【石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店はこちらから】

万葉仮名でよむ『万葉集』

それでは次に、明治時代以降、現代までの作家・書家などの書の歴史を作者別に見てゆきたい。

西郷隆盛の書について


西郷隆盛は、大久保利通、伊藤博文らと並んで、明治維新の立役者で、時代の英傑であった。明治の元勲のなかでも、西郷隆盛の書はことに人気が高いといわれる。
肉の豊かな堂堂とした書風は、腹の据わった偉丈夫を思わせ、躍動的で、振幅に富んでいる書が多いそうだ。西郷の書風は、その波乱万丈の生涯におのずと通じ、その人生を締めくくった悲劇的な最期が、折り重なっていると鈴木はみている。
また、書を良くした西郷には、扁額に「敬天愛人」なる墨跡がある。この扁額について、平山観月は、
「すこぶる豪快で英雄の風格を伝えて躍如たるものがある。すなわちこの風格こそは書美の内容をなすものなのである。題材と一般に呼ばれる敬天愛人の辞句は、けだし大西郷の座右の銘であったであろう。かれはこの信念のために生きかつ倒れたのである。」と記している。まさに「書は人なり」であって、西郷の遺墨には、その人間像を偲ばせる魅力がある。
(鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、86頁~87頁。平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、269頁)。

【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】

百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)

【平山観月『書の芸術学』有朋堂はこちらから】

書の芸術学 (1964年)

夏目漱石(1867-1916)の書について


鈴木史楼は『百人一書―日本の書と中国の書―』(新潮選書、1995年[1996年版])において、日本と中国の書を合計100書紹介している。書家だけの書とは限らず、作家、画家などの書も含まれる。
その中で、夏目漱石の「則天去私」という書もある。素人の目からみても、「うまい」と感心する。それもそのはずで、「近代の作家で、夏目漱石ほど書を熱心に習った文豪はいなかった」と鈴木史楼は解説している。そのことは、漱石の蔵書目録を見てもわかるそうだ。そこには、顔真卿、懐素、王羲之の法帖が並んでおり、それのみならず、石鼓文、礼器碑、孔子廟堂碑などの拓本を持っていた。
漱石の「則天去私」という書は、我流ではなく、習うべきものは習った上で、安心して筆を運んでいるが、そこから一歩でも先へ進もうという欲はなく、それゆえに、さほど印象に残るような顔が、書から浮かんでくることもないと鈴木は説明している。書の専門家から見ると、漱石は習ったものを踏まえて、いたって正直に書いているだけのもので、あまり面白い書とはいえないようだ。
それではなぜ漱石は書に趣味を持つようになったのであろうか。この点について、筆を運んでいると、面倒なことを考えずにすみ、小説を書いているときの自分を忘れることができたからであろうと鈴木は推測している。
漱石はその小説のなかで、人間のエゴイズムを描いた。『草枕』の私、『それから』の代助、『門』の宗助などの主人公に、エゴイズムと闘う苦悩を背負わせた。人間の私利私欲を、漱石は胃に痛みを覚えつつ執筆した。そうして、一作ごとに、漱石は人間の理想的な境地である「則天去私」の世界へ近づいていった。この書には、小説のような沈痛な表情は少しも見えない。小説では四苦八苦している大きな問題を、漱石は自分の書で事もなげに解決してしまったように思うと、鈴木は解説している。興味深い書の読み方・見方である。
(鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]、112頁~~113頁)

【鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書はこちらから】

百人一書―日本の書と中国の書 (新潮選書)


漱石の翰墨趣味はかなりもので、書にも深くのめりこんだ。先述したように、彼の書は我流ではなく、書聖と呼ばれる王羲之の書はもとより、習うべき書は習わなければ気がすまなかったものとみえて、書棚には歴代の名品を収めた法帖をきちんと並べていた。
漱石の「夜静庭寒」と「文質彬々(ぶんしつひんぴん)」という作品に関しては、構えたところがなく、うっとりと心のあるがまま筆を運んでいるといった書で、見るからに正直な書であると鈴木史楼は説明している。「文質彬々」とは、「文質彬彬として然る後に君子なり」という『論語』に出てくる言葉で、外見と内容が一つになって初めて君子だということである。漱石は、これを自らの力量に応じて、痛快に筆を運んでいる。
明治38年(1905)の『我輩は猫である』から始まって、大正5年(1916)の『明暗』に至るまで、漱石は体調さえよければ毎日ほとんど原稿用紙のなかで暮らしていた。小説のことで行き詰まると、疲れた頭を休めて気分を変えるために、書をかいた。漱石にとって書は彼の心をそのまま正直に映す鏡であったといわれる。晩年に近づくにつれて、以前にも増して書にのめりこみ、書の虜になった。かといって、そこにきて腕が一段と上がったというわけでもなさそうである。
ところで、夏目漱石には、友人の一人に正岡子規(1867-1902)がいた。二人は学生時代からの友人であった。夏目漱石のその「漱石」という雅号は、もともと子規が自分で使いたいと思って考えた雅号だった。それを漱石に請われて、子規は友人に譲り渡したという。
二人の“浅からぬ因縁”はまだほかにもあり、大学を卒業して2年後、漱石は彼の小説の舞台となった四国の松山中学に英語の教師として赴任したが、松山は子規の故郷であった。
それは、明治28年(1895)のことで、二人とも28歳であった。二人は漱石の松山在住時代に同じ屋根の下で50日ほど暮らした。漱石の下宿で静養していた子規のもとには、毎日のように俳句の仲間が訪ねてきたこともあり、句会に加わり、漱石も俳句を作り始めた。
句会の折に目にした子規の筆を漱石はどういう目で眺めていたかについて、鈴木史楼は想像している。この点については、漱石は子規の筆を見るたびに、なんとも言えない羨望を感じていたのではなかったかというのである。
子規の25歳のときの書である「若鮎の二手になりて上りけり」(「若鮎」という句)は、俳句に自信があるためか、漱石の筆に比べるとはるかに躍動的で、痛快な筆で、澄みきった線であると鈴木は解説している。鈴木はそこに子規の強い自我が現れているいるとみている。確かに子規の書はうまいと感じる。
そして漱石も、子規も、書では良寛の筆が抜きんでて絶妙だと見ていたそうだ。良寛の筆が漱石と子規の二人の書を“浅からぬ因縁”の糸で結んでいるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、142頁~154頁)

【鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書はこちらから】

書のたのしみかた (新潮選書)

神田喜一郎も、「漱石の書」(1965年)と題した短いエッセイがある。
漱石は、書に対して深く関心をもち、また独自の見識をもっていたという。漱石は、玄人や専門書家の書を喜ばなかったようだ。というのは、習熟の結果から来た技法上の巧みさはあっても、それがあるために、かえって俗になると考えていたからである。
明治の知識人の多くは、漱石とは違って、専門書家の書を随喜した。例えば、巖谷一六、日下部鳴鶴、長三洲などである。しかし、そうした人の書は漱石の眼中にはなかった。わずかに心を惹かれたのは、中林梧竹の書にすぎなかった。専門書家の書より、池邊三山とか菅虎雄といった素人の書を愛した。また古人でも、当時にはほとんど一般には問題にもされていなかった良寛とか明月の書を愛した。
このように漱石が専門書家よりもむしろ素人の書を愛したのは、天巧を尊んだからであると神田喜一郎はみている。つまり天巧とは、高尚な人格から自然に生まれた、いわゆる工まざる巧みさのことであり、天衣無縫の妙といってもよい。ここに漱石の書に対するすぐれた見識があるという。
唐の柳公権は「心正しければ、筆正し」といった。いいかえれば、「書は人なり」ということになる。漱石自身の書においても、端的にこれが見られる。その書は、高雅であり、超脱であり、俗気などは微塵もないと神田は評している。
(神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]、31頁~33頁)。

【神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店はこちらから】

墨林間話


漱石・子規の書に対する石川九楊の評価


石川九楊は、明治の文士の書として、高村光太郎と会津八一の書は特筆すべきとして注目するものの、夏目漱石、正岡子規の書に対する評価は厳しい。
次のように記している。
「しかしこれら森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、正岡子規等の書に見るべきものはあまりなく、これらの文士への書の讃辞はたぶんにファンの贔屓(ひいき)の心理にあるように思われます。」と(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、230頁~232頁)。
つまり、夏目漱石や正岡子規の書への讃辞はファンの贔屓の心理にあると石川はみている。

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)


漱石と日展


日展の前身である文展を批判した夏目漱石は、「文展と藝術」において、次のように述べていることを、大溪は抜粋して擱筆している。
「文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を顚倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから己を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騒ぐなら、神聖な神輿(みこし)をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。」
「文展が今日の様に世間から騒がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と其の邊を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。」
「個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。」
(大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、180頁~185頁)

このように漱石は文展の審査のあり方を根本的に批判していた。
会津八一も日展を戦後まもなく批判していた。
「然るに、昨年秋の日展に行きますと、何とも名状すべからざる字がある。成るべく人が判らないやうにしてゐる。履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字がある」と、1950年の講演「書道の諸問題」(昭和25年3月18日)において批判している。
(会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]、126頁)

「何とも名状すべからざる字」とか「履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字」と痛烈で皮肉な評言で、日展の書のあり方を非難している。会津は書道において明瞭でわかる字を書くことを何より主張していた
(会津、1967年[1983年版]、104頁~105頁参照)

【会津八一『会津八一書論集』二玄社はこちらから】

会津八一書論集 (1967年)

会津八一(1881-1956)と書の評価


鄭道昭と王羲之に対する会津八一の評価についていえば、会津は、北魏の書家である鄭道昭(?―516)が非常に好きであるという。王羲之の字がいいという人は鄭道昭の字を見てもさほど感服しないが、王羲之は少し暗すぎていかんというような考えの人が鄭道昭を見ると、非常に喜ぶそうだ。ここがいわば分かれ目であるとみる。つまり、南方と北方の趣味の差があらわれる。一言でいえば、王羲之の字は不明瞭で陰鬱であるという。文字に明瞭を求めた会津らしい言説である。王羲之の書を万人の手本とするのは、大なる誤った態度であると会津は信じていた。
会津が北方の鄭道昭の書が好きである理由として、「実にいい気持で、何か気のふさぐやうな時にそれを出して見てゐると、大変心気朗かになつてくる」点を挙げている。
(会津、1967年[1983年版]、24頁~25頁、64頁~65頁)

ついでに言えば、会津は中林梧竹(1827-1913)の書は好きだが、唐の欧陽詢の書を学び、端正で明快な書風である巻菱湖(1777-1843)の書は嫌いであるという。梧竹の字は「浮世ばなれのした字」で、竹箒で書いても味わいのある字だが、巻菱湖の字は、砂の上に書いても字にならないという。巻菱湖は字はうまいが、陰気な字で、どこか痛々しいというような感じがする。それに対して、梧竹の字は「何時も明るい大きい味はひが出て来る」という。
ただ、巻菱湖という人は日本一流の名家で、明治書道界の第一人者である日下部鳴鶴(1838-1922)などに影響を与えた。もっとも、その日下部鳴鶴が晩年のような字になったのは、中国から来た楊守敬の刺戟を受けて、日本風にかたまっていた頭を開いて、別天地をそこに展開し、中国の法帖を借りて手習したり、引き写したりしたのが、晩年大成する素因をなしたようだ。その結果、日下部の暗い字も明るくなってきたと会津はみている。
(会津、1967年[1983年版]、67頁~70頁)。


会津の書と絵についてのエピソード


書道の練磨のために、渦巻を内側から書いたり、外側から書いたりすることを会津は勧めている。こうして、いい線が書けるようにせよという。そうすれば、書道は無論のこと、絵も描けるようになるという。
そして、今日、画家の絵が軽薄であるのは、線を書くことを知らないからだと主張している。会津が鳩居堂で、絵を描いたのを出した時、帝室博物館の美術部長である溝口禎次郎がやって来て、次のような質問をした。会津の絵は実に不思議な絵である。溝口は美術学校にいた時から雪舟の画風を慕って、花木山水を描いてきたが、会津のような線はとても書けない。いつ絵を研究されたのかと問いかけた。
それに対して、会津は別に絵の稽古などしたことはないと答えた。線が書けないで画をかくの、字を書くのというのが、そもそも間違いであると諭し、会津の線かきの秘訣を教えたという。
(会津、1967年[1983年版]、39頁~41頁)。



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