歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫

2023-08-31 19:20:00 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫
(2023年8月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたい。

 参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 今回のブログで、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたいと考えた理由は、教科書に次のような記述があったからである。

 たとえば、ナポレオンとダヴィッドという画家との関係は、それぞれの教科書で次のように言及されている。
●福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)において、第15章の【革命政治の推移とナポレオン帝政】の項目で、次のように言及されている。
<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、280頁)

●本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)において、Chapter 15の【■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire】の項目で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >と挿絵を載せて、次のように言及されている。

  Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

●木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)において、第10章の【皇帝ナポレオン】の項目で、次のように言及されている。

1802年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。
 
 そして、ダヴィド作の「ナポレオンの戴冠式」の挿絵(部分図)が掲載されている。
<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、253頁)


 フランスの絵画に中心にして、解説する際に、次の著作を参考とした。
〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』

※これらは、以前、私のブログで取り上げたものであることをお断りしておきたい。
それは、≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年4月1日投稿)である。

ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』の写真【筆者撮影 2004年】





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫
●フランソワ1世の肖像画
●ヴァトー
●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』






世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して


今回のブログで、参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]


福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)の記述



第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
4 フランス革命とウィーン体制
5 自由主義の台頭と新しい革命の波

4フランス革命とウィーン体制
【フランス革命の背景】
革命前の旧体制(アンシャン=レジーム, Ancien Régime)では、身分制のもとで第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は国土の大半と重要官職を占有しながら、免税特権をもっていた。人口の9割以上にあたる第三身分(平民)のなかでは、事業に成功した豊かなブルジョワ階層が経済活動の自由を求める一方、大部分を占めた農民は領主への地代や税負担に苦しみ、都市民衆もきびしい生活を送っていた。
 18世紀後半には、イギリスとの対抗上も、社会や経済の改革、とくに戦費負担からくる国庫赤字の解消と財政改革が必要であった。改革派には、身分や立場のちがいを問わず啓蒙思想の影響が広まっていた。ルイ16世(Loui XVI, 在位1774~92)は、重農主義者テュルゴ(Turgot, 1727~81)や銀行家ネッケル(Necker, 1732~1804)など改革派を登用して財政改革を試みたが、課税を拒否する貴族など特権集団の抵抗で、逆に政治的な危機が生じた。しかも、凶作などを原因とする経済的・社会的な危機が重なった。

【立憲王政から共和政へ】
危機回避のために国王が招集した三部会は、1789年5月、ヴェルサイユで開会されたが、議決方式をめぐる対立から議事に入れなかった。平民代表は『第三身分とは何か』の著者シェイエス(Sieyès, 1748~1836)の提案で、第三身分の部会を国民議会と称し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は譲歩してこれを認め、聖職者や貴族からも同調者が合流して憲法制定国民議会が成立したが、反動派に動かされた国王は、軍隊でおさえこもうとした。武力制圧の危険を感じたパリの市民は、1789年7月14日、バスティーユ要塞を襲って武器弾薬の奪取に成功した。この報が伝わると、各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃した。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択をあいついで決めた。ここに旧体制は崩壊し、基本的人権・国民主権・所有の不可侵など、革命の理念が表明された。
 地方自治体の改革や教会財産の没収、ギルドの廃止など、当初はラ=ファイエット(La Fayette, 1757~1834)やミラボー(Mirabeau, 1749~91)など自由主義貴族の主導下に、1791年憲法が示すように立憲王政がめざされた。しかし憲法制定の直前、国王一家がオーストリアへ亡命をくわだてパリに連れもどされるヴァレンヌ逃亡事件がおこり、国王の信用は失墜した。
 1791年に発足した制限選挙制による立法議会では、立憲王政のフイヤン派(Feuillants)をおさえて、ブルジョワ階層を基盤にした共和主義のジロンド派(Girondins)が優勢となった。ジロンド派は、1792年春、内外の反革命勢力を一掃するためにオーストリアに宣戦布告し、革命戦争を開始した。革命軍が不利になると、全国からパリに集結した義勇兵と、サン=キュロットとよばれる民衆は、反革命派打倒をうたってテュイルリー宮殿を襲撃し(八月十日事件)、これを受けて議会は王権を停止した。男性普通選挙制によって新たに成立した国民公会では共和派が多数を占め、王政廃止と共和政が宣言された(第一共和政、1792~1804)。

【革命政治の推移とナポレオン帝政】
1793年1月にルイ16世が処刑され、春には内外の戦局が危機を迎えるなか、国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins、山岳派)が権力を握った。ジャコバン派は、封建的特権の無償廃止を決め、最高価格令によって物価統制をはかった。しかし、民主的な1793年憲法は平和到来まで施行が延期され、革命の防衛を目的に権力を集中した公安委員会は、ロベスピエール(Robespierre, 1758~94)の指導下にダントン(Danton, 1759~94)ら反対派を捕らえ、反革命を理由に処刑した(恐怖政治)。
 強硬な恐怖政治はジャコバン派を孤立させ、1794年7月、今度はロベスピエールらが、穏健共和派などの政敵によって倒された(テルミドールの反動)。革命の終結を求める穏健派は1795年憲法を制定し、制限選挙制にもとづく二院制議会と、5人の総裁を置く総裁政治が成立した。しかし、革命派や王党派の動きもあって政局は安定せず、革命の成果の定着と社会の安定を求める人々は、より強力な指導者の登場を求めた。この機会をとらえたのが、革命軍の将校として頭角をあらわしたナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte)であった。
 イタリア遠征により対仏大同盟に打撃を与え、ついでエジプト遠征で名をあげていたナポレオンは、1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、クーデタで統領政府を樹立すると、自ら第一統領となって事実上の独裁権を握った。1802年に終身統領となったナポレオンは、04年5月には国民投票によって皇帝に即位した(第一帝政)。
 ナポレオンは、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート(Concordat)、1801)を結んでカトリック教会と和解し、貴族制(1808)を復活させる一方、フランス銀行の設立(1800)など行財政や教育制度の整備を推進し、さらに近代市民社会の原理をまとめた民法典(ナポレオン法典、1804.3)を制定し、革命の継承を唱えた。
 革命理念によるヨーロッパ統一をかかげるナポレオンにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスは、1802年に結ばれた英仏和平のアミアン条約を翌年に破棄し、対立を強めた。トラファルガー沖の海戦(1805)でイギリスにやぶれたナポレオンは、大陸制圧に転じ、1806年には西南ドイツ諸国を保護下に置いてライン同盟(Rheinbund)を結成させ、神聖ローマ帝国を名実ともに解体した。同年にベルリンで出した大陸封鎖令は、大陸諸国とイギリスとの通商を全面的に禁止し、イギリスに対抗して、大陸をフランスの市場として確保しようとするものであった。

<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。

【国民意識の形成】
フランス革命では、自由・平等の理念とともに国民国家の原則がうちだされた。革命以前には、人々は職能・地域・身分などの集団の一員として暮らし、国家はこれらの集団を通じて社会を統治していた。革命は、これらの自律的な集団や身分を廃止して、個々人を国民として国家に結びつけることを追求した。革命下には、グレゴリウス暦にかわる共和暦(革命暦)や、歴史的な州制度にかわる県制度、数学的な合理性にもとづくメートル法など、時間や空間を区切る全国統一の制度が新たに導入され、地域言語は否認されて国語教育が強調された。これらを通じて新たな国民意識の形成が追求された。
 フランスによる大陸制圧は、フランス以外の各地にもこのような考え方を広める一方、侵略者フランスに対するナショナリズム(nationalism)をめばえさせることになった。スペインの反乱は、フランス軍をゲリラ戦の泥沼にひきこんだ。国家滅亡の危機に瀕したプロイセンではシュタイン(Stein, 1757~1831)やハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)が、行政改革や、農民解放など一連のプロイセン改革を実施し、フィヒテ(Fichte, 1762~1814)は連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を通して国民意識の覚醒をうったえた。
 大陸封鎖令で穀物輸出を妨害されたロシアが離反すると、ナポレオンは1812年に遠征してモスクワを占領したが、ロシア軍の焦土作戦と反撃にあって敗退した。これを機に諸国民が一斉に解放戦争に立ちあがり、1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍をやぶり、翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位してエルバ島に幽閉され、ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が即位して、フランスにはブルボン朝が復活した。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは一時再起したが(百日天下)、ワーテルローの戦いで大敗し、今度は大西洋の孤島セントヘレナに流され、孤独のうちに没した。


【ナショナリズム・自由主義・ロマン主義】
フランス革命とナポレオン戦争の時代に各地でめばえたナショナリズムは、広く国民の一体性と自主的な政治参加を求める点で、ウィーン体制とは対立し、自由主義とつながる側面をもっていた。19世紀には、多民族国家のオーストリアやオスマン帝国内で少数派の位置にあった人々は、自治権や独立を求める運動をおこした。また小国家群に分裂していたドイツやイタリアでは、政治的統一を求める動きが活発になっていった。
 ナショナリズムの台頭は、民族の歴史的個性や伝統、人間の熱情や意志を称揚するロマン主義(Romanticism)の思潮とも呼応しあった。ロマン主義は、19世紀ヨーロッパの政治、文学、芸術など、広い分野で基調をなす考え方となり、いっぽうでは過去を美化する尚古趣味や、国土の自然や民族(国民)文化の称揚などにあらわれ、他方では、自己犠牲や英雄崇拝、社会変革への夢とも結びついて、ナショナリズムと呼応しあったのである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、277頁~282頁)

本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)の記述


ナポレオンとダヴィッドとの関連で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >に関した英文を引用しておく。

■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire
Louis XVI was executed in January 1793. In spring the Jacobins, radical republicans,
took power in the National Convention during when the tide of the internal and external
wars turning against the French army. The Jacobins (ジャコバン派) determined gratuitous abolition of
feudal privileges, and attempted price control by a maximum price order. Enforcement of
the democratic constitution of 1793 was postponed until the coming of more peaceful times.
The Committee of Public Safety (公安委員会), which concentrated power for the purpose of defense of
revolution, captured opponents including Danton (ダントン) under the mentorship of Robespierre
(ロベスピエール), and executed them because of counterrevolution (the Reign of Terror, 恐怖政治).
The extreme reign of terror made the Jacobins isolated. In July 1794 Robespierre and his
radical followers were defeated by the political enemy like the moderate Republicans in
turn (the Thermidorian Reaction, テルミドールの反動). Moderates, who sought the end of revolution,
established the 1795 constitution, and a bicameral legislature based on the limited election system
and the Directory with five Directors were established. The political situation was not
stable because of movement of revolutionaries and royalists. People, who sought to fix
revolutionary achievements and social stability, demanded a stronger leader. The person
who took this opportunity was Napoleon Bonaparte (ナポレオン=ボナパルト), who made his mark
as a general of the revolutionary army.
Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)の記述


第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
3 フランス革命とナポレオン


【フランス革命の構造】
アメリカ独立革命につづいて、有力な絶対王政の国であったフランスで、旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命がおこった。

※アンシャン=レジームということばは、革命前のフランスの政治・社会体制の総称として使われる。

革命以前の国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されたが、人口の9割以上は第三身分であった。少数の第一身分と第二身分は広大な土地とすべての重要官職をにぎり、免税などの特権を得ていた。各身分のなかにも貧富の差があり、とくに、第三身分では、その大部分を占める農民が領主への地代や税の負担のために苦しい生活をおくる一方、商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた。そこに啓蒙思想が広まり、1789年初めには、シェイエス(Sieyès, 1748~1836)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張した。

フランス革命(1789~99)は、こうした状況下に王権に対する貴族の反乱をきっかけに始まったが、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割をはたしたが、同時に、有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。フランス革命はこのように、貴族・ブルジョワ(有産市民)・農民・都市民衆という四つの社会層による革命がからみあって進行したために、複雑な経過をたどることになった。


【革命の終了】
ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。しかし、社会不安は続き、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民は社会の安定を望んでいた。こうした状況のもと、混乱をおさめる力をもった軍事指導者としてナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769~1821)が頭角をあらわした。ナポレオンは96年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破って、軍隊と国民のあいだに名声を高め、さらに98年には、敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。

1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第2回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。帰国したナポレオンは同年11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

自由と平等を掲げたフランス革命は、それまで身分・職業・地域などによってわけられていた人々を、国家と直接結びついた市民(国民)にかえようとした。革命中に実行されたさまざまな制度変革と革命防衛戦争をつうじて、フランス国民としてのまとまりはより強まった。こうして誕生した、国民意識をもった平等な市民が国家を構成するという「国民国家」の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだナポレオンによる支配に対する抵抗の根拠ともなった。

【皇帝ナポレオン】
ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と1801年に和解し、翌年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約、1802)、国の安全を確保した。内政では、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度を整備した。さらに04年3月、私有財産の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した。02年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。

<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。

1805年、イギリス・ロシア・オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、同年10月にはネルソン(Nelson, 1758~1805)の率いるイギリス海軍が、フランス海軍をトラファルガーの海戦で破った。しかしナポレオンは、ヨーロッパ大陸ではオーストリア・ロシアの連合軍をアウステルリッツの戦い(1805.12, 三帝会戦)で破り、06年、みずからの保護下に西南ドイツ諸国をあわせライン同盟を結成した。またプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結ばせ、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてるなど、ヨーロッパ大陸をほぼその支配下においた。

この間、ナポレオンはベルリンで大陸封鎖令を発して(1806年)、諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとした。彼は兄弟をスペイン王やオランド王などの地位につけ、自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(10年)、その勢力は絶頂に達した。封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革がうながされたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。まず、スペインで反乱がおこり、またプロイセンでは、思想家のフィヒテ(Fichte, 1762
~1814)が愛国心を鼓舞する一方、シュタイン(Stein, 1757~1831)・ハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)らが農民解放などの改革をおこなった。

ナポレオンは、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出すると、1812年に大軍を率いてロシアに遠征したが、失敗に終わった。翌年、これをきっかけに、諸国は解放戦争にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り、さらに翌14年にはパリを占領した。彼は退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が王位についてブルボン朝が復活した。翌15年3月、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、6月にワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に流された。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、248頁~255頁)

第11章 欧米における近代国民国家の発展
4 19世紀欧米の文化


【貴族文化から市民文化の時代へ】
 フランス革命とその社会がもたらした政治的・社会的激変は、文化の領域においても大きな転換をもたらした。皇帝や国王などの宮廷や、貴族などの社交の場で展開されたアンシャン=レジームの貴族(宮廷)文化にかわって、19世紀には市民層を担い手とするあらたな市民文化が主流となった。
 市民文化は、貴族文化の成果を引き継ぎそれらを市民層や広く国民に伝える役割をはたした。さらに、美術・文学・音楽などの分野で、それぞれの言語文化や歴史を重視する国民文化の基礎をつくった。(下略)

【文学・芸術における市民文化の潮流】
 フランス革命・ナポレオンによる大陸支配は、革命を支えた啓蒙主義や、革命思想の普遍主義・合理主義への反発をまねき、各民族や地域の固有の文化や歴史、個人の感情や想像力を重視する傾向を広くうみだした。それらはロマン主義と総称される。ロマン主義は19世紀初頭までのゲーテ(Goethe, 1749~1832)など古典主義の成果を学び、やがて文学・芸術における大きな流れとなり、国民文学や国民音楽に結実する国民文化を形成した。
 19世紀後半になると、市民社会の成熟、近代科学・技術の急速な発達が文学・芸術活動にも影響を与えるようになり、ロマン主義に対抗して人間や社会の現実をありのままに描く写実主義(リアリズム)がとなえられた。さらに写実主義の延長上に、19世紀末には人間や社会を科学的に観察し、人間の偏見や社会の矛盾を描写する自然主義がフランスなどにあらわれ、各国に広がった。外光による色の変化を重視したフランス絵画の印象派もこうした流れのなかからうまれた。


19世紀のフランス文化一覧表  
【美術】  
ダヴィッド 「ナポレオンの戴冠式」
ドラクロワ 「キオス島の虐殺」
クールベ 「石割り」
ミレー 「落ち穂拾い」
ドーミエ 版画「古代史」シリーズ
モネ 「印象・日の出」
ルノワール 「ムーラン=ド=ラ=ギャレット」
セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山」
ゴーガン 「タヒチの女たち」
ロダン 「考える人」(彫刻)
   
【音楽】  
ドビュッシー 「海」「月の光」
   
【文学】  
ヴィクトル=ユゴー 『レ=ミゼラブル』
スタンダール 『赤と黒』
バルザック 「人間喜劇」
ボードレール 『悪の華』
ゾラ 『居酒屋』
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、279頁)

(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、278頁~279頁)

【近代大都市文化の誕生】
 19世紀後半になると、列強諸国の首都は近代化の成果や国家の威信を示すために、近代技術や土木工学を結集して上下水道を普及させ、都市計画によって道路や都市交通網を整備し、大都市文化の誕生の環境をととのえた。フランス第二帝政期のオスマン(Haussmann, 1809~91)によるパリ改造や、ウィーンの都市計画はその代表的事例であり、古い街区や城壁を取りこわし、近代的建築や街路を整備して、他都市のモデルとなった。またロンドンでは最初の地下鉄が開通し、近代的都市交通の先頭を切った。1851年の第1回ロンドン万国博覧会につづいて、パリ・ウィーンでも万博が開かれ、近代産業の発展だけでなく、首都の近代的変容を人々に示した。こうした便利で快適な都市の生活環境の進展は、農村から都市への人々の移動を加速させ、首都だけでなく、中小都市の人口増をもたらした。
 大都市では近代的改造に加えて、博物館・美術館・コンサートホールなどの文化施設・娯楽施設の拡充もすすみ、市民文化の成果を示す場となった。20世紀にはいると発行部数を飛躍的に増大させた大衆向けの新聞によって、さまざまな情報が伝えられ、映画などの新しい大衆娯楽や、デパートなど大規模商業施設も普及しはじめた。
 19世紀末には、成熟した市民文化のなかから、新しい現代大衆文化の萌芽が姿をあらわした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、282頁)

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫



〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

 
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第① 章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
第② 章 ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
第③ 章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
第④ 章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
第⑤ 章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
第⑥ 章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
第⑦ 章 この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
第⑧ 章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
第⑨ 章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
第⑩ 章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
第⑪ 章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
第⑫ 章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
第⑬ 章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
第⑭ 章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
第⑮ 章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
第⑯ 章 天使とキューピッド    アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
第⑰ 章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
あとがき
解説 保坂健二朗

この案内本は、【目次】からもわかるように、17章に分かれているが、今回、関連しているのは、第1章~第3章の次の各章である。(順番は歴史上の年代順に紹介する)
●なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
●ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
 ●フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』




第③章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』


クルーエ『フランソワ一世肖像』
1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階展示室7

フランスをつくった三人の王


「フランスをつくった三人の王」と題して、フランスのイメージ(広い国土、壮麗な宮殿、英雄崇拝、ファッションや芸術といった文化的優位)をつくりあげた、歴代の国王のうち、3人の肖像画を取り上げている。

・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

・ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世


・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世は、英仏百年戦争に勝利して中世の幕を引いた。若いころは、無気力で弱々しく、外見もぱっとしなかった。
フーケによる肖像画も40代半ばだが、何を考えているか定かでない眼つきなど、どこかしら鵺(ぬえ)的な表情である。
このシャルル7世の一生は、女難と女福の両方を極端に浴びたものだったとして、中野氏は捉えている。
最たる女難は、自分の母親イザボー・ド・バヴィエールである。彼女は夫のシャルル6世が狂気に囚われたのをいいことにして実権を握ろうと、息子を廃嫡してしまう。百年戦争の真只中で、ロワール川以北のフランスはすでにイギリスに支配され、オルレアンが落とされれば南部まで一気に奪われる絶対絶命の状況である。
シャルルは戦う気力もなかったが、そこへ農家の娘ジャンヌ・ダルクが「神の声」を聞いて、奇蹟のように登場する。17歳のジャンヌは、フランス兵を鼓舞して、オルレアンを解放した。その上、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式を挙行した。
(アングル『シャルル7世の戴冠式とジャンヌ・ダルク』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室77)
しかし、19歳のジャンヌが魔女裁判で火刑に処せられることが決まっても、彼は何も手を打たなかった。さぞや大きな神罰が下っただろうと思えば、これまたさにあらず、次なる女福アニエス・ソレルが舞い降りる。彼女はフランス史上、初の公式寵姫となる。と同時に、政治に関与し、軍費の増強を進言したりして、シャルル7世を「勝利王」へと導いた
(カレーだけを残して、他の全ての領地を取り戻した)。
同じフーケによるアニエスの肖像が残されている。アニエスを聖母マリアに見立ててある『ムーランの聖母』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がある。

フランソワ1世


・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

フランソワ1世は、シャルル7世から4代下り、フランスが富を蓄えはじめた時代の王である。この華やかな王様がいなければ、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』はなかった。
(モナ・リザのいないルーヴルなんて想像すると、フランソワ1世の貢献度がわかるという)

フランソワは遊び人として有名だが、勇猛果敢な騎士でもあった。即位してすぐイタリア遠征する。神聖ローマ皇帝カール5世の版図拡大を阻止するため、イタリアを舞台とした対ハプスブルク戦を挑み、30歳で屈辱的な虜囚生活も送ったことがある。
国内的には、着々と中央集権化を進め、絶対王政を強化してゆく。いまだ文明後進国でろくな芸術家もいなかったフランスに、文化振興のため、イタリア人美術家を高額の報酬を提示して招致した。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金によって安穏な余生を保証した(3年足らずだったが)。
レオナルドはフランソワ1世の腕の中で永眠した、との伝説さえ残ったほどである。
(その見返りが、『モナ・リザ』、『洗礼者ヨハネ』、『聖アンナと聖母子』だとしたら、イタリアは歯噛みしたくなるとも、中野氏は付言している)

また、フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を大改修して、内部装飾をイタリア人画家にまかせた。それがフォンテーヌブロー派である。
中でも、もっともよく知られている作品は、『ガブリエル・デストレとその妹』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室10)である。

劇作・オペラとフランソワ1世


「恋と狩猟と戦争と生」を愛したフランソワ1世は、絢爛たるフランス宮廷文化の礎を築いた。美しい女性たちで、王の城は陽気さと華麗さに満ちあふれていたようだ。
だから、ヴィクトル・ユゴーは、フランソワ1世をモデルにして、劇作『王は愉しむ』を後世、書いた。さらにそれジュゼッペ・ヴェルディが『リゴレット』としてオペラ化した。『椿姫』と並ぶ、ヴェルディ中期の傑作である。

ストーリーは次のようなものである。
若くてハンサムなマントヴァ公(=フランソワ1世)が、美女と見れば見境なく誘惑し、相手の心の傷など何とも思わない。捨てられた乙女の父リゴレットが復讐しようとするが、娘は自分の命を捨ててまで公を愛し抜く。
そうとも知らず、公は、「風のなかの羽根のように/いつも変わる/女ごころ」とお気楽に歌っている。

ユゴーは王の女遊びを道徳的に許しがたかったらしい。ただ、このような自由なフランス宮廷スタイルは、いかにも、フランス人らしく、フランソワ1世の今に至る人気の高さも理解できよう。

クルーエの『フランソワ一世肖像』


クルーエ(1485/90頃~1541頃)が描いた『フランソワ一世肖像』を見てみよう。
これは30代の王の姿である。「狐の鼻」と言われた大きな鼻が特徴である。細面(ほそおもて)のノーブルな顔立ちだが、抜きん出た魅力は感じられないが、繊細な美しい手が官能的であると中野氏は評している。

内面性に乏しい肖像画だが、最新流行の豪奢な衣装はみごとに表現されており、フランソワ1世のファッションセンスの良さが証明されていると中野氏は注目している。
ヘンリー8世やカール5世に比べて着こなしも格段に粋だという。
中野氏は、このフランソワ1世の衣装について、詳細に解説している。
例えば、次のように記している。
「金糸で刺繍したサテンの上衣には、胸元にも袖にもたくさんのスラッシュ(切れ込み)が入っており、その楕円形の切り口からは中の白いリネンの下着をふんわり出して装飾にしている。このスラッシュは、もともとは傭兵たちが戦場で腕を動かしやすいようにと布に切れ目を入れたことから始まったと言われる(現在のような伸縮性のよい布は無かった)。それがこうして素晴らしく装飾へ転じたのだから面白い。
イタリアに憧れたフランソワ1世が、いつしかヨーロッパのファッションリーダーになったのがわかる。」(52頁)

中野氏自身、ファッションに対して、特に関心が強いためか、この本の中で、絵画に描かれたファッションに関する叙述は、詳細で冴えを感じさせる。
例えば、縦縞模様の衣服について、西洋文化における縞模様はふつう隷属や不名誉の印として、身分の低い従者などが身につけるとされたが、断続的に縦縞だけが、高貴な模様とみなされた。また手袋は、国王が授ける狩猟権や貨幣鋳造権の象徴とされており、片方の手袋をにぎった王の肖像画は多いと指摘している。

ルイ14世



ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階
フランソワ1世から百年ほど経ち、7人の王が入れかわり、王朝もヴァロア家からブルボン家に代わり、ルイ14世にいたり、絶対王政は確立する。
若き日に太陽神アポロンに扮して踊ったところから、「太陽王」の異名をたてまつられた。「朕は国家なり」、国とは自分を指すのだと豪語したと伝えられる。ルイ14世の代でようやくフランス人はスペインを凌駕し、ヨーロッパ最強国になった。

リゴー(1659~1743)が描くルイ太陽王は、この時63歳である。ルイ14世の時代は男性ファッションが女性のそれを上回った時代で、鬘(かつら)とハイヒールの時代だったそうだ。儀式用マント(青ビロード地に百合の花を散らした表現、裏地は白テンの毛皮)をはおっているため、中の衣服に付けている宝石などまで見えないが、ただ豪華を誇示し、趣味が悪いと中野氏は評している。フランソワ1世の粋はもはやどこにもないという。

ヴェルサイユ宮殿の途方もない豪奢は、ルイ14世にして初めて可能だったようだ。ヴェルサイユはヨーロッパ宮殿の模範となり、各国の王侯貴族たちはルイ太陽王に憧れた。
それでもフランスはなおまだイタリアに憧れ続けた。ルイ14世が創設した国家芸術振興のための奨学金付き褒賞は「ローマ賞」と呼ばれ、受賞者はイタリアに留学できた。この賞は20世紀後半まで存続した(アメリカ人はフランスに憧れ、フランス人はイタリアに憧れ、イタリア人はギリシャに憧れた)。
(中野、2016年[2017年版]、41頁~56頁)

第②章 ロココの哀愁 ヴァトー『シテール島の巡礼』


ヴァトー『シテール島の巡礼』
1717年/129cm×194cm/シュリー翼3階展示室36

ヴァトーと印象派のモネ


印象派のモネは、ルーヴルで一作選ぶなら、ヴァトーの『シテール島の巡礼』だと言った。
画面を吹きわたる風、草花の香り、けぶるような靄、えも言われぬ色調は、まさにモネが追求しようとする世界のお手本である。繊細で震えるような筆致、早描きと薄塗りも、印象派を先取りしているといわれる。

ただし、150年という時の開きがあるので、ヴァトーと印象派の主題は違う。
印象派なら描くはずのない小さなアモル(=キューピッド)が描かれている。また、この絵にみられる典雅な宴や光満ちた美しい風景も、決して現実をそのまま写し取ったものではない。そして登場人物の動きは演劇的である。まさに夢の一場である。
そして心には哀愁の残香(のこりが)が沈潜し、曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀感こそが、ヴァトーの魅力の核であると、中野氏は理解している。

『シテール島の巡礼』について


この絵の舞台は、伝説の島シテール(キュテラ)である。それは、海の泡から生まれた美と愛欲の女神ヴィーナスが流れついて住まう、恋の島である。
(画面右端に、野薔薇を巻きついたヴィーナス半身像が立っている)

聖地詣でをした8組のカップルが、島で熱いひとときを過ごし、帰ってゆくところである。
当時、ヨーロッパの巡礼者は、肩にかけた短いゆったりしたケープだったそうだ(ペリーヌと呼ばれ、フランス語のペルラン[巡礼者]からきた)。それから長く太い杖を持っている。これは旅路で獣から身を守るにも役立った。画面右手前、草地に置かれたものは、必携の巡礼者手帳(巡礼の証明書)であるようだ。

画面右の3組は、恋の様相の3つの形が呈示されているといわれる。物語は右から左へ進行しており、恋の始まり、成就、幸せな結婚(犬は忠実のシンボル)をあらわす。恋は、言い寄る男とためらう女の駆け引きから始まり、愛の営みを終えて男は先に立ち上がり、余韻にひたる女はどこか名残り惜しげに後ろをふりかえっている。

船着場では、早くも2組のカップルが到着している。舟の漕ぎ手は神話から抜け出たような若者であり、上空ではアモルたちが飛びかい、ヴィーナスに願いを聞き届けてもらった恋人たちを祝福している。

ところで、ヴァトーが本作を描くにあってインスピレーションを受けたのは、1700年にパリで初演されたダンクール作『三人の従姉妹』だそうだ。
劇中、巡礼の身なりをした貴族・市民・農民といった各階層の男女が、シテール島への舟に乗り込むシーンが出てくるようだ。
(本画面中央あたりの各カップルが、服装から見て明らかに貴族でない理由はこの劇に由来すると中野氏はみている)

さて、『シテール島の巡礼』は絶讃され、32歳のヴァトーはアカデミー正式会員に選ばれた。同時に、フェート・ギャラント(fêtes galentes)というジャンルが画壇に確立される(ふつう「雅宴画」と訳される)。

自然の中での着飾った男女の恋の駆け引きがテーマにもかかわらず、ヴァトーは単なる風俗画から、芸術の高みへと引き上げた。これにより、フランス絵画はようやくイタリアやフランドルやスペインと肩を並べうる独自性を主張したと中野氏は解釈している。

なお本作完成、翌年、ヴァトーは画商からヴァージョン制作を依頼され、主役の3組は変わらないが、他は大幅に変更が加えられ、オリジナルに比べ、はるかに賑やかになった。このヴァージョンは、あのフランスかぶれのプロイセン大王フリードリヒ2世の手に渡り、ベルリンのシャルロッテンブルク城に展示されることになる。マリア・テレジアから「悪魔」「モンスター」と罵られ、歴史上強面のイメージのあるフリードリヒ2世だが、フランス語で会話し、ロココの美をこよなく愛し、ヴァトーを深く理解した。大王はヴァトー最後の傑作『ジェルサンの看板』までも購入している。

ロココ様式について


ヴァトーは、それまでの壮麗なバロック様式を一掃し、ロココの最初にして最大の画家である。ただし、生前のヴァトーが「ロココ」という言葉を知っていたわけではない。
ロココとは、貝殻や小石を多用したインテリア装飾ロカイユが語源である。繊細で優美な貴族趣味だったため、フランス革命後にダヴィッドら新古典派が台頭すると、ロココは享楽的女性的感覚的退廃的と全否定され、蔑称として使われた。ただし現在は、18世紀フランス文化の主流を指す美術用語となっている。

ロココ最盛期は、ルイ15世と寵姫(ちょうき)ポンパドゥール夫人の時代である。つまりヴァトーの死後である。ヴァトーの活動期は短くわずか20年足らずにすぎない。太陽王ルイ14世最晩年から、「摂政時代」(幼いルイ15世の代わりに、ルイ14世の甥オルレアン公が摂政政治を行なった時代)に相当する。
早くから胸を病んでいたヴァトーは、ロココを切り拓きながら、ロココの爛漫を見ずに、36歳の若さで亡くなる。肺結核が悪化し、長くは生きられないとの悲観が、この世の全てを非現実的に見せたということはありうるが、ヴァトーの鋭い感受性が夢の終わりを予見したのかもしれないと中野氏は推察している。

ヴァトーという画家


ヴァトーは謎めいている。「人に隠れて生きようとした」とヴァトーの死を看取った画商ジェルサンは言っている。ヴァトーは生涯を独身で通した。女性との艶聞はひとつもなく、
辛辣かつ鬱気味で慢性不眠症であったらしい。加えて金銭に無関心で、自画像も残さず、自らを語ることもなかった。

作品における高度な洗練と、いかにもフランス的な感覚から、ヴァトーは生粋のフランス人と思われがちだが、正確にはフランドル人である。生地のヴァランシエンヌは、彼が生まれる、つい6年前にフランス領になったばかりだった。
フランドルといえば、偉大なる画家を多数輩出した。例えば、ファン・エイク、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど。ヴァトーはこのことを意識していたようで、特にルーベンスを多く模写して学んだ。『シテール島の巡礼』における群像の配置の妙は、大先達の影響が見られる。

ヴァトーはフランドル人で、貧しい屋根葺き職人の息子であった。17歳でパリへ出て、人生を自分ひとりで切り拓かねばならなかったので、室内装飾家や舞台画家に弟子入りし、芝居の世界と深く関わった。

その後、『シテール島の巡礼』で晴れてアカデミー正会員に登録されるが、残された寿命はわずか4年しかなかった。貴族や富豪の雅な遊宴を手がけながら、ヴァトー本人が宮廷に出入りすることはなかった。ロココを引き継いだ派手なブーシェが、ポンパドゥール夫人のお気に入りとして、宮廷人になったのとは正反対である。ヴァトーは人気が出れば出るほど、画商ジェルサンがいみじくも語ったように、「人に隠れて生きようとした」。

ヴァトーは下層労働者階級出身のフランドル人であり、教育はなく、死病に冒されていた。また雅宴画の第一人者とはいっても、社会の上層部と直接交流はなかった。絵のモデルは役者なので、身分の世界はあくまで演劇上の雅にすぎなかった。

ヴァトーの『ピエロ』


ルーヴル美術館には、このようなことを物語るヴァトーの絵がある。それが『ピエロ』(旧称『ジル』)である。
画面の奥行きは浅く、戸外というより舞台が連想される。木々も空も書割であり、真正面に若いピエロがただ突っ立っている。切ない眼をしており、見る側の物悲しさは募る。服の白さはヴァトーの無垢のあらわれに思え、丸い帽子は聖なる光輪にさえ感じられる。身じろぎもしない姿勢は、ヴァトーの放心と悲哀に重なると中野氏はみている。人生は思うにまかせない。その嘆きが「悲しき道化」の姿に集約されるという。

この絵は、注文主もテーマも不明だそうだ(タイトルは後世の通称である)。
当時のパリは、コメディア・デラルテ(イタリア即興演劇)が人気を博しており、ピエロを演じた役者から、引退してカフェを開く際の看板画として依頼されたのではないかとの推測もあるようだ。ヴァトーの作品としては並外れて大きく、ピエロが等身大に描かれているのがその理由とされる。

しかし、中野氏は、この説に賛同しない。一度見たら忘れがたい、その悲しみの表情が看板画のイメージに一致しない。だから、実在の人物の肖像ではなく、ピエロに託したヴァトー自身の精神的自画像とする推測に同意している。ヴァトーにとって現世は生きにくく、このピエロのように身に合わない服を強制されるのに等しかったであろうからとする。

なお、ヴァトーの肖像画としては、死の数ヶ月前、イタリアの女性画家ロザルバ・カリエラが描いたものがある。
その『ヴァトー肖像画』(イタリアのトレヴィーゾ市立美術館蔵)を見ると、ヴァトーはまさに作品のイメージどおりの風貌だったと中野氏は述べている。
(中野、2016年[2017年版]、27頁~40頁)





第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』


ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
1805~1807年/621cm×979cm/ドゥノン翼2階展示室75

中野京子氏の筆の冴え


最初から、この美術案内書では、饒舌で、リズム感あふれる“中野節”がさく裂し、読者が圧倒される。例えば、ナポレオンの人生について、次のようにまとめ上げてしまい、舌を巻く。

「実際、ドラマティックな人生であった。ありとあらゆる要素が彼の一生には詰まっていた。辺境の地で貧乏貴族の子に生まれ、容貌はぱっとせず背も低く、差別され、学業成績はふるわず、しかし天才的な軍事の才に恵まれ、連戦連勝、壮大な野望を抱き、皇帝となり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込み、恋人愛人数えきれず、権威付けのためハプスブルクのお姫さまを強引に妃にし、息子を得、やがて戦(いくさ)に負けはじめ、引きずり下ろされ、島流しとなり、まさかの復活を果たしてパリへ凱旋、人々を恐慌に陥れ、再度引きずり下ろされて、ついにセント=ヘレナ島で無念の死。」(13頁)

中野京子氏といえば、2007年に発表された『怖い絵』を端緒としたシリーズでよく知られた作家である。
私も、テレビ出演した中野氏を何度か拝見したことがあるが、作品解説を、立て板に水のように、雄弁に話しておられたのが印象的であった。それを文章化すると、こうなるのだろう。
そのベースには、ドイツ文学者としての素養と技量があるからであろう。あのツヴァイクの名著『マリー・アントワネット』を新たに翻訳されただけのことはある。
人の一生を簡潔に文章にまとめあげる技量は、文学者として、歴史上の人物と対峙し、表現化する努力の賜物であろう。その技量に感服する。

ところで、保坂健二朗氏(東京国立近代美術館主任研究員)の「解説」(243頁~249頁)によれば、「魅力的な作品解説」において大事なことは、ディスクリプション(作品叙述)であるという。
絵になにがどのように描かれているかについて見える範囲のことを中心に書くことである。どこを見せたいかを判断し、どのような順序で見れば=書けば効果的かを考えた上で、ちょっと主体的に叙述していくことが、「魅力的な作品解説」には求められているとする。保坂氏によれば、中野京子氏は、この「ディスクリプションがすこぶる上手い」と評している(245頁)。

画家ダヴィッドの諸作品


ナポレオンは「稀代の英雄」としてのイメージがある。幸いにして同時代には、傑出した才能を持つ画家ダヴィッドがいた。
ダヴィッド自身がナポレオンの英雄性に心酔していたため、肖像画を描くにあたって力を入れていた。
例えば、
・「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」1801年、マルメゾン宮国立美術館
 アルプス越えにおける馬上の勇姿
・「書斎のナポレオン」1812年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 執務室で手を上着の胸元に入れてリラックスする様子
・「鷲の軍旗の授与」1810年、ルーヴル美術館
 鷲の軍旗授与におけるローマ皇帝を髣髴とさせる姿
 
※「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」が叙事詩的英雄としてのナポレオンを、一方、「書斎のナポレオン」が立法者としてのナポレオンを表す、一対の寓意画であるという捉え方がある。この2点の肖像画は外征と内政に携わる、武人と統治者としてのナポレオンの2つの顔を描き出しているとされる(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、185頁、229頁、233頁~234頁)。

このように、さまざまなシチュエーションでオーラを放つナポレオンを造型し、人々の眼を眩ませた。そうした絵画群のうちの最高峰として、『ナポレオンの戴冠式』を中野氏は位置づけている。

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』

『ナポレオンの戴冠式』について


ルーヴル美術館で誰もが絶対に見落とせない、三作品は、『モナ・リザ』、『ミロのヴィーナス』、そして『ナポレオンの戴冠式』といわれる。

何しろ大きい。縦6.2メートル、横9.8メートル、床に置いたら60平方メートルほどになる(日本の2DKアパート並み)。制作に3年かかったのも道理であろう。
完成作を見たナポレオンが、「画面の中に入ってゆけそうだ」と満足をあらわした。事実、最前列右の数人は身長2メートルほどの大きさで描かれているので、本物の人間が画面に入っても収まる。
ナポレオンはまたこうも言っている。「大きいものは美しい。多くの欠点を忘れさせてくれる」と。
(ただ、このサイズはルーヴルで2番目の大きさである。1番大きな絵は、6.8×9.9メートルのヴェロネーゼ『カナの婚礼』である。ナポレオンがヴェネチアを征服した際、修道院の壁からはがしてフランスへ持ち出した)

さて、このダヴィッドの作品は、まことにプロパガンダ絵画のお手本である。ヒーローとヒロインであるナポレオンとジョゼフィーヌは、魅力たっぷり描かれ、人々の視線を一身に浴びている。150人とも言われるおおぜいの登場人物も、ひとりひとりかなり克明に描き分けられている。荘厳で記念碑的なこの大作は、冷ややかで破綻がない。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、35歳の若きナポレオンは絢爛豪華な戴冠式を挙行する。
歴代フランス王は、9世紀のルイ1世から25代にわたり、パリの北東に位置する町ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行なってきた。ナポレオンはブルボン家の後継者とみなされるのを嫌い、「王」ではなく「フランス人民の皇帝」を名乗った。したがって、ランスでの戴冠式など論外である。

14年前のローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)に倣い、古式にのっとった宗教儀式を行なうことにした。つまりランス司教ではなく、ローマ教皇による戴冠式である。
(ちなみにフランス語のNotre-Dameは英語のOur Ladyにあたる。「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを意味する。したがって、ノートルダム(聖母マリア教会)という名のカトリック教会はフランス語圏各地にある)。

ところで、カール大帝でさえ、自分のほうからヴァチカンに赴いたのに、ナポレオンは教皇をパリへ呼びかけた。呼びつけて戴冠式に列席サンドさせ、三度の塗油の儀だけさせると、教皇が祭壇上の帝冠に手を伸ばすより早くそれを奪い取り、自分で自分に戴冠してしまう。次いで、妃ジョゼフィーヌに、自らの手で冠を与えた(かぶせる動作のみ)。
「ヨーロッパの覇者」としてナポレオンがローマ教皇より上位にあることを内外に見せつけたことになる。教皇ピウス7世の恥辱は尋常ではなかったであろうし、式に参加した各国代表なども一様に驚いた(仇敵イギリスには、おちびのナポレオンが両手で自分の頭に冠をのせようとする諷刺画が出回った)。

『ナポレオンの戴冠式』の構図


さて、ダヴィッドは新古典派の大御所にして宮廷首席画家であるから、ユーモアなど無い。彼は英雄礼讃のための盛大なる美化を厭わなかったし、皇帝の威光を損なうものは排除した。ただ、やはりナポレオン自らによる戴冠が問題になってくる。ダヴィッドも一度はその構図で下絵を描いてみた。しかし、そうした異例を後世に残すのを、疑問と感じ、ローマ・カトリックへのあからさまな反逆を絵画化するのを危険と思ったようだ。
こうしてナポレオンが誰によって戴冠したかは曖昧なまま、皇帝による皇妃戴冠の構図が決定された。

『ナポレオンの戴冠式』の登場人物


絵の中の登場人物について解説している。
・ナポレオンは月桂冠を被り、端正な横顔を見せ、まさに古代ローマ皇帝の表情をしている。身長も数十センチは嵩上げされている。鷲の模様をちらした真紅のマント、裏が白テンの毛皮なのは、ブルボン家の大礼服用マントに似せたようだ。

・その前に跪く年上の愛妻ジョゼフィーヌは、この時41歳だった。8年前に、未亡人としてナポレオンと出会い、エキゾティックな美貌で彼を虜にして、今やフランス皇妃である。

・ナポレオンのすぐ後に、62歳のピウス7世が浮かぬ顔をして、右手の指で祝福のポーズをしている。しかし、教皇はこれ以前からナポレオンと対立しており、この所作ダヴィッドの創作である。

・もうひとつの創作は、本当はここに居なかったナポレオンの母を、描いていることである。正面2階の貴賓席で微笑んでいるが、母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかった(捏造写真の先取りと中野氏は記す)。

・ダヴィッド本人は、ナポレオンの母の席のすぐ上階、斜め左に描かれている。ひとりスケッチ帳を構え、式次第をスケッチ中である。

・右手前に居並ぶ男たちは、いずれもナポレオンの側近たちだが、中でも右端で真っ赤なマントを着て目立つのが、タレーランである。鼻先がツンと上向いた特徴的な横顔である。
(タレーランのこの鼻は、隠し子と言われるドラクロワに受け継がれたそうだ)

・タレーランはナポレオンの信頼あつく、外務大臣と侍従長を兼ねたほどなのに、本作完成後まもなくナポレオンを見限って失脚に追い込んだ。ナポレオン追放後も、フランス政治の中枢に居続け、40年にわたり国の舵取りを行なった。『ナポレオンの戴冠式』における真の勝者は、このタレーランかもしれないと中野氏はみている。うっすらした笑みがいかにも意味ありげである。
(中野、2016年[2017年版]、13頁~26頁)



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