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電影フリークス ~映画のブログ~

電影とは、映画のこと。その映画を一緒に楽しみましょう。

考察「新精武門」

2007-10-03 23:58:57 | 成龍的電影
ジャッキーの「新精武門」はどんな映画だったのでしょうか?既に観ている方はこの映画について様々な印象を持っているかと思います。おさらいを兼ねこれを少し考えてみます(Alpha Film&Videoからリリースされた英語版VHSを元に考察します。)

製作の背景には当時の映画雑誌の記事から「精武門」(ドラゴン怒りの鉄拳)のリバイバル公開によるヒットが影響しているということがありましたので、まずはこれを検証してみました。
当時の資料を調査してみますと「精武門」は香港で74年2月から再公開されており、そうなると相当前から羅維は続編の製作を考えていたことになります。
しばらくして76年になりますが、この時期の香港では「唐山大兄」や「龍争虎闘」が次々に上映されてリーの人気が再燃していたと思われます。「唐山~」が2月でしたのでこれで羅維は最終的に製作を決断したのかも知れません。観衆はリーとその後継者に期待し続けていたのが分かります。そしてジャッキーが羅維からオファーを受けたのは2月中旬で羅維と陳自強がジャッキー(この時はまだ陳元龍)に接触し、2月末には成龍と改名していたようです。

ストーリーは概ね次の通りでした。
日本人の圧力により上海の精武道場は崩壊寸前まで追い込まれていた。台湾に逃れた麗兒(苗可秀)は、阿龍(ジャッキー)と出会う。日本人の支配は既に台湾にも及んでいて警察も無力だった。この場所は日本政府の岡村(陳星)が率いる大和道場が牛耳っており、この地で麗兒が師範(韓英傑)らと開いた精武道場も岡村に屈辱的な目に遭わされ岡村の娘・千代子(鄭秀秀)に道場の看板を蹴破られてしまう。岡村らの横暴に阿龍は怒り、指を噛んで"精武"の血文字を胸に書き、仲間と共に立ち上がるのだった。その姿に陳眞(李小龍)を見た麗兒は陳眞の形見を阿龍へ授けた。やがて秘伝の"迷踪拳"を会得した阿龍は大和道場に乗り込みついに岡村と対決するというストーリーです。

ジャッキーはこの映画で三節棍を使っています。そういえば三節棍を持っているスチールをよく目にしましたので売りの一つでもあったと思います。私は実際に三節棍がどんなものか手に取って確かめたかった事もあり映画で使用しているものと同じタイプを購入してみました(画像参照)。白蝋杆という素材を使用しており棍棒は直径2cm程でとても堅く三本の棍棒を繋ぐ金具もしっかりしていて重量感がありました。これを使いこなすのは非常に困難ですが、達人が使うとなれば相当強力な武具であるのは間違いないところです。本編ではラスト近く、この三節棍を使ったバトルが展開されますが、陳星が沖縄武器(サイ)を使い、三節棍vsサイの珍しい対決となっていたのは印象深く、ここは迫力のある画が出ていたと思います。(ジャッキーはこれ以降「シャンハイヌーン」まで三節棍を見せず。)「新」には二節棍(ヌンチャク)を使うシーンも何度か登場しますが、実は前述の三節棍のアクションで途中から2本に変わるという展開になっていたのです。

ところで月3000ドルと安い給料でも後には戻れない状況だったジャッキーはリーの後継者と言われても素人っぽくヌンチャクをブン回したり、がむしゃらに闘い、ドジな面を見せる演技をしており、この当時は1000万ドルの監督(「唐山大兄」300万、「精武門」400万、「冷面虎」「綽頭状元」など興収を合計した金額)と言われた羅維作品で初めからジャッキーらしさを表現していたのが見て取れると思います。
そういえば「新」以降もヌンチャクのアクションを見せる時(例えば「天中拳」や「酔拳」)には、必ず最後に自分の顔や頭などに当てるというオチにしていました。つまりリーの真似をしつつ、彼のパロディを既にこの「新」で見せていたことになります。

ジャッキーも参加した前作で大先輩であったリーに誉められたスタント時代から数年後。"成龍"名義で初めて領銜主演としてスクリーン上にも名前が出た訳ですが、続編ということで前作からの流れを踏襲しつつ、上記三節棍のような新たな要素が詰め込まれています。まず羅維はそのまま警察署長として冒頭に登場し、既に大スターだった元"嘉禾公主"の苗可秀は断然人気があったはずで彼女目当てのファンも多くいたことでしょう。また今回は悪役ではなく師範として出演し、武術指導も担当した韓英傑の存在も忘れてはならないところです。千代子役の鄭秀秀は台湾でのテコンドーチャンプで当時21歳。彼女の起用は早々と決定していました。
また、本編に本物リーの画像が挿入されていますが(「龍争虎闘」の2枚の静止画像が使われている)たとえ一瞬でもこれを入れる入れないでは大きな違いがあると思うのですが羅維自身の作品の画像が使われず、これは関係が悪化していた【嘉禾】から許可が下りなかったものと推察します。

また差は歴然ですが前作との比較をしますと、名セリフと呼ばれるものや"東亞病夫"のようなフレーズは無かった様子でした。強いて挙げるとすれば”The two spells meanings of the Jing Wu school!!”(不屈の精神、団結は正に精武)になるのでしょうか。また残念なのは前作のような音楽が使用されなかったのも盛り上がりに効果的ではなかったと思います。
ラストのVS陳星も日本人との対決を演出するには畳が必須であるのか日本家屋を使うなど配慮していました(台湾には日本家屋が多いと聞きます)。この大和道場のロケーション先は他の映画でも使われており、陳観泰&倉田保昭「亡命忍者」(「地獄の忍者軍団クノイチ部隊」)の"精武道舘"と"娼館"や、何宗道「詠春與捷拳」(The Story of the Dragon※掲示板参照)でも使われていた日本式家屋で台湾の彰化市付近にあります。そしてラストシーン。これは前作があまりにも有名な場面であるので「新」が印象に残るとは思えません。衝撃的なラストという意味では前作と同様ですが飛び蹴りでストップモーションとなるのに対し、銃が撃ち込まれた無残な状態のカットで終わる為であるのですが、ここはなぜこのようなシーンになったのか理解に苦しみます。一部が「精武門」のオリジナルスタッフ、キャストの人々が送ったこれだけのエッセンスが詰まった映画でしたが、興行的には失敗に終わったようです。理由は明白だったのではないでしょうか。

ジャッキーはのちにこう述べています。
「苗可秀との共演は素晴らしかった。」また前作を「精武門(ドラゴン怒りの鉄拳)は香港で一番愛されているリーの映画だと思う。」(自伝より)
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本当の醒拳

2007-07-15 23:30:31 | 成龍的電影
「笑拳怪招」が香港で公開された79年。

この映画では監督費が50萬HK$、武術指導費110萬HK$、脚本費50萬HK$、出演者への報酬が200萬HK$(新車購入代金もこれに含むと思われます。)、計410萬HK$もの費用がかかっていましたが、結果的には大ヒットして興収がそれより上回ったようでした。

このヒットを受けて4月には羅維のもとで眠っていた「龍拳」も公開される運びとなり、羅維が発表会を開くことになりました。しかし、この席からジャッキーは姿を消してしまったのです。ちょうど劉家榮の「搏命單刀奪命槍」が撮影中で、そちらに顔を出していたのかも知れません。羅維の言う通りには動かない、逃れたいの一心であったと思います。他にも羅維は「笑拳」が完成して何を思ったのか、スペインの会社製作のアメリカ映画にジム・ケリーと共演させると公表して一早くジャッキーを国際派スターにさせようと思ったりしますが、到底実現するはずがありません。

「龍拳」の発表会に同席していたのがリリー李麗麗でした。とても違和感のある2人ですがこの席でリリーはのちにエリック・ツァン(曾志偉)が撮ることになる「足易館」と同じ衣装を着ていました。つまり、羅維影業との契約を済ませて次のジャッキー主演映画に出演することが決まったので満を持して登場したのです。(他には曾志偉と唐炎燦も出席しました。)

この羅維影業の次回作が「醒拳」(こちらでは”醒拳”と表記した場合、本来の醒拳を指します。)で、リリーは主役級の大きな役をもらうはずでした。出演者はリリー、曾志偉もメンバーの一人でした。他に唐炎燦や劉家勇も出演予定だったと思っています。

そして嘉禾「師弟出馬」撮影開始から1日遅れの4月25日。「醒拳」も撮影開始の儀式を済ませます。
(ここでもジャッキーは予定より遅刻してしまう始末。)「醒拳」は曾志偉とジャッキーが共同監督の予定でした。しかし、ジャッキーは「師弟出馬」がそろそろ完成という頃まで、8月に現場に現われたり、いなくなったりで「醒拳」を何度か撮る、撮らないを繰り返しました。

嘉禾側の「師弟出馬」撮影が真っ只中の6月、羅維は姜大衛主演で「龍擒虎拿」という作品を突然開始します。これが「足易館」です。ジャッキー不在で「醒拳」の残されたメンバーは、曾志偉監督で「足易館」を撮ることになってしまったのです。

この曾志偉の影響は大きいと思います。監督だけでなく「足易館」のあと、引き続きリリーが起用された「無招勝有招」では曾志偉はスーパーバイザー的な面で実力を発揮します。この「無招~」に主演した劉家勇もジャッキーの拳威、劉氏兄弟、銀色影業など幅広く契約しており、ジャッキーに急接近した影星でした。(劉家勇は海外ではジミー・リューと呼ばれています)
曾志偉は、このあと、もう1本「賊贓」を撮ります。本当は「足易館」が終ってから「賊贓」の前に今度こそと「醒拳」を撮るつもりでいました。

結局、曾志偉監督の「醒拳」が実現することはありませんでしたが、「賊贓」を撮り終える最後まで決して諦めませんでしたので「醒拳」というジャッキー主演映画に拘りつづけたのだと思います。
「醒拳」の内容としてはリリーが主要な役を演じること以外殆ど明らかになっていないのが大変残念です。
ジャッキーの”幻の映画”とは正にこの「醒拳」であると私は実感しています。

「醒拳」がどんな内容だったのかを知るには、意外と香港映画特有の”先に作って公開”されてしまった映画などにアイデアが隠されているのかも知れません。
この辺りこちらでも少しずつ触れて行きたいと思っていますが、特に劉家勇関連や郭南宏作品についても面白い現象を感じています。

羅維は「醒拳」を撮った後に「天中拳」と「木人拳」(リバイバル)の公開を考えており、ジャッキー作品攻勢に出ようとしていました。(実際、この2本は80年に香港で公開されています。)
しかし羅維は、完成していない映画「醒拳」をアジア各国に売ってしまったことに問題があると思うのですが、契約してしまったからには80年の旧正月に「醒拳」を公開すべくスタッフに休み無しで撮影させようとしていましたが、そうは簡単に物事が進むはずも無く挫折する羽目に陥ったのです。

ところで「師弟出馬」の完成が近づいた頃、羅維はある決意をしました。
それはジミー・リー(龍方)の起用方です。
陳観泰との共演を果たした「上海灘大亨」への出演をきっかけに羅維は龍方をジャッキー2世として育てようとしました。ジャッキーが「新精武門」で陳元龍から成龍に改名したように李健民から龍方へと改名もさせました。その龍方が「笑拳怪招續集」に主演することが決定して台湾で撮影に入っていたのです。

彼の作品で「至尊威龍」という作品があります。製作時期は不明ですが「笑拳怪招續集」がこれにシフトした可能性は否定出来ないと思います。

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「鬼手十八翻」から「笑拳」へ

2007-06-27 23:51:15 | 成龍的電影
78年の韓国。ジャッキーは羅維監督の元で「鬼手十八翻」を撮影していたものの、途中でこれを放棄してしまいます。

この後、台湾へ向かって「笑拳」(最初は“怪招”が付いていない“笑拳”)を一転してジャッキーが監督として撮ることになるのですが、そこで喜怒哀楽をモチーフとした独自の“エモーショナル功夫”を考案し、見事オリジナルの型を完成させます。確かにエモーショナル~は素晴らしいアイデアだったと思います。

ところで「龍騰虎躍」を見れば田俊や陳慧樓が「鬼手~」に出演予定であったことは明白だと思います。またそこには「鬼手~」における出演予定者の役柄の片鱗が窺えます。

元の「鬼手~」のストーリーは今の「龍騰~」と「笑拳」を合わせたのとほぼ同じだったことでしょう。

勝手ながらもう少し想像してみますと…、
賭事に明け暮れる遊び人の若者阿龍が獣拳鬼手の達人・程と出会う。その後阿龍の父親は謎の男に殺されてしまう。特訓につぐ特訓でついに十八の技をマスターする。町で偶然知り合った程の娘・リンは実は従兄妹で、阿龍の父親を殺した犯人を探していた。鉄の爪・任はその真犯人で、阿龍はリンと協力して任を倒すのだった。(これはフィクションです。)  

半分は「笑拳」に近いものだったと思うのですが、例えば今の「笑拳怪招」で見られる陳慧樓は「鬼手~」で成龍と同じ画面に映っていますが、ほぼそのままの姿で「笑拳~」にも出演しているのですから当然ながら“鬼手十八翻”から“笑拳”へシフトしたのですね。シフトしたので「鬼手~」はもうそれで終わってしまい、たとえ羅維が半年後に「次は醒拳だ!」と言い出したところでジャッキーにとっては「笑拳」が既に完成している訳なので「鬼手~」の続きを撮る気はなかったでしょう。

出来上がった「笑拳」は「笑拳怪招」に改名され、翌年の公開で興業的にも成功したのは御存知の通りです。
完成した時期が果たしていつだったのか。これが大変気になる部分であります。
78年中にほぼ完成している事は容易に想像出来るのですが、まず「鬼手~」が8月終わりか9月初め開始だったとして9月中旬か下旬には台湾へ向かっているのではないでしょうか。
もしかしたら台湾で9月末に公開された「酔拳」がヒットしたこともこの逃亡劇に影響しているのかも知れません。

主演映画がヒットすれば心境の変化もあると思いますし、より羅維との関わりをなくそうとする気持ちが強くなります。
「蛇拳」ではまだ自信が無かったようでも「酔拳」では自信に満ち溢れた演技で手応えを掴んだかのような演技だったと思います。
また、丁度この「酔拳」ヒットを受けて劉家良が「中華丈夫」から酔八仙拳の盗用を訴えたのもこの時期でした。
「笑拳怪招」はこう言った様々な騒動の中、着々と進行していたのでしょう。

ところで、「鬼手~」が中途半端になってしまった為に「陰陽十八翻」「五爪十八翻」「鬼手龍虎闘」など似たようなタイトルのものが次々と現れたのも香港(台湾)らしい現象ですね。

龍方と本当の醒拳については次回に続きます。

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龍騰虎躍

2007-06-08 00:45:14 | 成龍的電影

「龍騰虎躍」は86年に日本で劇場公開されました。
(「北斗の拳」と同時上映し、8億円を超える興行収入をあげたようです。)
この時の邦題が何と「ジャッキー・チェンの醒拳」でした。

この映画が本来の「醒拳」でないことは御存知の通りですが、なぜ東映は「龍騰~」を「醒拳」として公開してしまったのでしょうか?

これは以前から(79年「蛇拳」、80年「笑拳」劇場公開の頃)、本当の「醒拳」を劇場公開予定と謳ってしまったからかも知れません。(その後、本当の「醒拳」は未完成となってしまった訳なのにですが。。)


そして「龍騰~」は、もちろん本来の「醒拳」ではないのですが、実は原名が「鬼手十八翻」だったのです(!)。(これは香港で83年に公開された時、副題として”鬼手十八翻”が付けられています。)
なぜ「龍騰~」に改題されたのか分かりませんが、本来は「鬼手~」だったというアピールなのでしょう。

78年、思遠影業の「酔拳」を撮り終えた成龍は、羅維監督の次回作のため韓国へ行きます。
この時、一部撮影していたのが「龍騰~」で見られるものだったのです。
羅維は、これを「鬼手十八翻」として撮影していたはずです。
(まだ「醒拳」という名前は、この時には全く関係ないので当然ながらありません。「笑拳」もまだ始まっていないでしょう。)
「龍拳」で共演した林銀珠も、「龍拳」で成龍に認められ、次回共演を約束してもらいます。
そして、この「鬼手十八翻」で共演することになった訳でした。


本来の「醒拳」については別途触れたいと思います。


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日本語吹き替えです(珍しい劇場用)。是非とも石丸ジャッキーをご堪能ください!!

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笑拳の続編(?)

2007-05-29 00:31:56 | 成龍的電影
前回、「年羹堯」について触れましたが、この企画は、当初李小龍のための企画だったといいます。(邵氏に入った際の最初のシナリオとして用意されていた。)
しかし、李小龍は亡くなり、時代の流れで成龍へと受け継がれようとしていたが結局はそれも流れてしまったということだと思います。
年羹堯は、史実では、雍正帝(ようせいてい)により自殺に追い込まれる悲劇のヒーローであった人物です。
本作では結末が異なっていますが、当時羅維の元にいた徐少強が雍正帝となり、帝に仕える将軍年羹堯(主人公)を龍方が演じることになってしまったのです。
(題名も「雍正與年羹堯」に変更)
羅維の映画によく登場していた李昆や陳慧樓、「拳精」の鳳子(=女優の武文秀)も出演。そして、この後「龍騰虎躍」にも出演していた權永文の姿もありましたが、この映画は残念ながらヒットすることは無かったと思います。

龍方はこれより前、79年に羅維の「笑拳怪招続集」に出演すべく台湾に向かっていたそうです。(実際に撮影まで行っているとは思いますが、その全貌は謎に包まれています。)この「笑拳怪招続集」とはいったい何を指すのでしょうか?

その前にまず、日本における「醒拳」の扱いについて、気になる点があります。(次回へ)
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「笑拳」とその周辺

2007-05-18 23:31:18 | 成龍的電影
79年の香港で最大のヒット作となった笑拳ですが、いつ頃製作されたのでしょうか?
ただ、これは整理しないと簡単には答えは出てこないと思います。
とりあえず分かっているのは79年2月香港公開という事です。

ところで日本における「ミスターブー」も79年2月公開ということで78年末あたりには酔拳大ヒットのニュースが日本の配給会社の担当者の耳にも入ってきていたことでしょう。

そういえば何かの雑誌に載っていたと思いましたが、撮影中の成龍が珍しく昼食中だった写真がありました。「酔拳」パンフに記載の記事では最新作が笑拳ということでこのインタビューはこの頃の「笑拳」でしょうか?
でも国境近くの寺院(?)って台湾じゃないような?(それともヤンマスだったか?)

「酔拳」の後、羅維監督は何を思っていたのでしょう。
この頃、羅維の未公開映画の手持ちは「龍拳」と「天中拳」、「笑拳」は豊年影業で、以上が完成した作品だったと思います。あともう一本、未完の「鬼手十八翻」がありました。
当時のこの「鬼手~」について証言する人物が李氏でした。彼によれば「鬼手~」は結局「笑拳」に変わったがこの2本を誰かに売却したということのようです。(つまり羅維の映画ではなくなったという意味か?)
豊年影業の作品には、「ザ・ルート」や「雍正與年羹堯(ねんこうぎょう)」がありますが、この「雍正~」には成龍の出演も予定されていたと聞きます。
「雍正與年羹堯」は当初、「年羹堯」だったとの事で、成龍の単独主演のつもりであったということだったのでしょうか。その後、龍方(ジミー・リー)主演に変更されてしまいましたが。
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