地球の危機!

私は、「環境goo」のファンです。
私も 地球を(人も)守りたい!

「原発」

2011-04-07 21:48:02 | Weblog
「原発」

ロシアやウクライナの人は、「チェルノブイリ」について、あまり何も言われないと思いますが、私は「チェルノブイリ事故」については失敗だったと思うけれど、汚染のひどい所を進入禁止区域にしたことについては、結果(動植物が繁茂している)を見る限り、素晴しいことだった、と思っています。

なぜなら、放射能と生物は生きていけるんだよ、ということを示してくれていると思うからです。放射能を安全に扱うにはこうしたらいいんだよと、動植物によって答を示してくれていると思うのです。

「覆う」とか、「容器の中に閉じ込める」ではなくて、「共存する」が、自然が示してくれている答だと思います。大丈夫、こうすれば放射能と安全に共存していけるから、と。


思うに、原発推進派の人たちは、自然の恵みの中にどっぷり浸かって、’甘えた’ことがないのではないでしょうか。

一生懸命この社会で生きている人は(私は逃げた)、忙しいこともあり、原発のような巨大な力をもったものが、必然的に必要になるのかも知れません。

もう少し’ゆっくり’(スローライフ)になったら良いのでは、と思います。


それと、若い人が就職できないとか、若くなくても仕事がないとか、ありますよね。

10の仕事があるから、10人雇う、というのが今までのやり方。

10の仕事がある。けれど、人が20人いる(存在)から、20人で10の仕事をやろう、というふうに変えたら、良いのではないかと思います。そういうやり方が普通の所もあるとか。工業化が進んでいない所は、そういうやり方が普通なのかな。

私がこのやり方を知ったのは、「フェアートレード」を通してです。

30人いるけれど、仕事が10しかないから、あとの20人は要らないよ、というのが、今のやり方ですよね。

いまは「仕事が主」で、「人間が従」ですよね。これを、「人間を主」にすることができたらーーもう少しゆとりや安心感を得られるならーー原発を少なくしていけたらと、皮算用になるかもしれないけど、期待してしまいます。

「瓦礫の撤去」

2011-04-07 10:45:30 | Weblog

〇「がれきの撤去」

宮城県亘理(わたり)町では、瓦礫の撤去を、旗を立ててすることにしたそうです。(読売新聞、4/6より)

赤ならーー建物も瓦礫も撤去
黄ならーー建物は残して、瓦礫は撤去
緑ならーー手をつけないでほしい

で表示することにしたそうです。撤去作業する自衛隊員にも好評だそうです。

なるほど。瓦礫の中からアルバムとかを取り出したい場合は、緑の旗を立てて置けば良いわけだ。なるほど。


○「イベントの自粛」

音楽とか、スポーツで親睦、とかは、私は自粛をしなくても良いのではないか、と思っていましたが、(同じく読売新聞、4/6)

「まだ安否がわからない人もたくさんおられます。現地の皆さんがこうした活動を受け入れる余裕があるかどうか、訪問する時期を見極め、避難所を運営する人たちともよく相談する必要があるでしょう。」

と書いてありました。

そうですよね、様子を見ながら、ですよね。



○「放射能汚染の広がり」

太平洋、台湾、朝鮮半島にも、放射能汚染が広がりつつある。

台湾と韓国だ。(世界中から「情報を隠すな!」と非難されているが) 

私にできることは何だ?  私は’借金’ばっかりだ。


「どこまでも ぼくたちは いっしょだよ」

2011-04-07 10:13:48 | Weblog


「どこまでも ぼくたちは いっしょだよ」



TVで、武田鉄矢さんが被災者を励まそうと、『贈る言葉』を歌っていた。

歌う前に、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の最後のところを紹介しておられました。

ジョバンニという主人公が登場しますよね。そのジョバンニが、友達のカンパルネラに言います。

「どこまでも ぼくたちは いっしょだよ」と。

そして、『贈る言葉』を歌われました。いいですね。

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私は、「どこまでも ぼくたちは いっしょだよ」というのを聞いて、(こ、これは、あ、あれじゃが)と思いました。「マタイによる福音書」の最後のところです。

イエス・キリストが「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」と仰いました。

私は、(そっか。だったら、’純血’とかいうのは、旧約聖書の世界じゃん。クリスチャン、遅れてるぅ)と思いました。

その前に(イエスは)、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と仰った。

「あなた方と共にいます」というのは、弟子たちと(だけ)共にいる、ということかも知れないが、「あらゆる国の人々」。そうか。「すべての人々」ではないのか。

「あらゆる国の、イエスを信じる人々(だけ)を弟子としなさい」ということなのか。イエスを信じる人々だけは選り分けられている、という事だ。そうか。だからクリスチャンは’純血’なのか。

だから、クリスチャンは’他者’を攻撃するのか。「攻撃しなければ、正しくない」となるのか。

そうなんですか?