「日の丸」
国歌斉唱をしない、国旗掲揚をしない、学校、先生、生徒がいるということです。
私はその理由が分かりませんでした。そういう私自身、祝日に日の丸を揚げるようになったのは今年からなので(昨年まで揚げていませんでした)、大汗なのですが、今はともかく、日本人ならば、日本の国旗、国家を掲揚、斉唱するのが自然だと思っています。
反対派の人は、「日の丸強制に、反対!」と言われていました。
「強制でなければ、○」ですか? だったら、「「どちらでも良いですよ」だったら○」、ということですか?
「「日本人が、日本の国で、日の丸(国旗)を揚げても、揚げなくても、どちらでも良いです」だったら、○」ということですか?
どこの学校にも、校歌、校章はありますよね。「校歌、校章のない学校も、OKです」ということですよね。(では「校則」も決めないのもOKですよね」と、ツッコミたくなりますが)
「日教組」のYou Tubeを見ると、組合員は「日教組の歌」を歌っておられました。
「君が代」を歌わないのならば、「日教組の歌」も歌わないようにしちゃえ!」と思いますが。
「君が代」は歌わないで、「日教組の歌」は歌う、その理由を説明していただきたいです。
思うに、「国旗掲揚反対」は、「強制」であるか、ないか、ではないと思います。「日の丸」そのものが問題なのだと思います。
「この国のゆくえーー教科書、日の丸、靖国」 (梅田正己著、岩波ジュニア新書)に、このように書かれてあります。
P.142
「ある人々は、この戦争(大東亜戦争)を、欧米の植民地支配からのアジアの開放、アジア独立のための戦争だったと主張する。今の自民党主流の人たちの考えだ。いわゆる、「自由主義史観」の人々もそうだし、文科省の幹部たちも、多分同じだろう。
それに対し、あの戦争は紛れもなく、侵略戦争だったと考える人たちがいる。武力による侵攻、占領、略奪、暴行、殺戮は、侵略に他ならない」と見るからだ。
ではこうした戦争観の違いが、なぜ「日の丸」の見方の違いになるのかーー進軍する日本軍の先頭にいつも翻っていたのが「日の丸」に他ならなかったからだ。
従ってこの戦争を、アジア開放の戦争だったと見る人にとっては、日の丸は、誇らしい’開放の旗’に見えるだろうし、逆に、あの戦争を侵略戦争だったと見る人には、日の丸は血塗られた’侵略の旗’にしか見えないのだ。
しかし、日の丸問題の本質は、この点にあるのではない。」
(引用終わり)
続けて、こう書いてある。
(引用始め)
「歴史をどう見るかは、人によって違う。異なる歴史観を互いに排除し、傷つけ合ったのでは、この社会は成り立たない。
ところが、第二次世界大戦前の日本では、そうではなかった。日本は「万世一系」の天皇が君臨する’神の国’であるという「皇国史観」が国全体を支配し、それを批判するものは「非国民」、「国賊」として迫害され、弾圧された。
そのことの痛切な反省から、新しい憲法では、こう決められた。
「第19条 思想、及び、良心の自由は、これを犯してはならない」
では一つの歴史観(思想)に基つ゜き、権力を発動して、日の丸掲揚を強制することは異なる歴史観を持つ人々の思想、良心の自由を侵すことにはならないのだろうか?
さらに、日本国憲法の成立を受けて、1947年3月、教育基本法が定められた。その第1条には、教育の目的がこう書かれてある。
「教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家、及び、社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
では日の丸強制は、この教育基本法第1条から見てどうだろうか? それは果たして、「真理と正義を愛し」、「個人の価値を尊び」、「自主的精神」を育成するのにふさわしいと言えるだろうか?
憲法は国の最高法規であり、教育基本法は文字通り’基本法’である。それに対し、「学習指導要領」は、「法」ですらない。その「法」ですらないものが、最高法規に違反し、基本法に背く疑いの濃厚な行為を、強権を発動して強制するというのは、どういうことなのか?
(引用終わり)
つまり、「皇国史観」によって、(国全体を)戦争へと導いていった、「戦争に協力します」以外は悪とみなされた。
「そのことの痛切な反省から」と書いてある。
日本が戦争をした理由は、「国の独立を守るため」で、
当時の世界情勢は、帝国主義(殖民地主義)の大嵐の中にあった。筆者の梅田氏は、「侵略はいけない」と言われるが、当時は、「他国に侵略できるのに、しないのは、(しない方が)マヌケだ」と、どこの国が1番侵略するか、そのゲームを必死でやっていた、そういう情勢だったのだ。
だから、
①日本が戦争をしたーー戦争をしてでも、国の独立を守ろうとしたーーこのことが間違っていたのだろうか
②「皇国史観」に基つ゜き国民を一つにまとめて戦争をしようとした(国を守ろうとした)ことが悪い(他の思想を認めなかったから)、という主張は、
「帝国主義(植民地主義)は正しかったのだ。(何も言うな)」と言っているのと同義ではないのか?
筆者は、
・「日本国憲法の成立を受けて、教育基本法が定められた」
・「憲法は国の最高法規であり…」
と、あたかも、「日本国憲法こそ、最高のものだ」と言わんばかりの書き方をしておられると思う。その、「日本国憲法」を作ったのは、GHQ なのだ。
③自国の最高法規である「憲法」を外国人に作ってもらって、それに従うのが、日本人として当然のことなのか?
「最高法規」に違反してはいけない」と言われるなら、
「天皇制」ーー今まで日本で連綿と続いてきた「天皇制」が、
・学校で「天皇制」について、教えられなくなった
・皇族の縮小
・天皇家の財産の処分
等、どう見ても、(日本国憲法は)天皇制廃止の方向へ導こうとしているように思われてならない。
④つまり、「今まで続いてきた日本の伝統を捨てよ」ということだ。
あなたは、「(日本の伝統を)捨てるべきです」、と言われるのか?
天皇陛下は、日本国民はもとより、世界の民が幸せであるようにと、祈っておられる。(古来からずっと、そのことが天皇の任務)(私はこのことも最近知りました)
このことも、「捨てよ(破壊するべきだ)」と言われるのですか?
敗戦直後、GHQは、「真相はこうだ(かうだ)」という放送を流した。
目的は「日本国民の発想自体を解体せよ」ということだった。(「日本解体ーー『真相箱』に見るアメリカ(GHQ)の洗脳工作」 (保阪正康著、産経新聞社より)
「太平洋戦争が、(日本のーー注、井上)軍国主義者によって、いかに無慈悲に進められ、そして正当な理由もなく、侵略性を帯びたものだったか、そして国民にはその真実が隠蔽されていたために、いかに重大な被害が与えられたか」という主旨の下に、昭和6年(1931年)~昭和20年(1945年)までの経過が盛られていた。
米国は「正義」なのだ。
日本は、戦争中は、「鬼畜米英」と言って戦った。
それが戦後は、「日本の軍国主義の指導者こそ、悪」、「アメリカン・ドリーム」だ。これは不自然でしょう。
そのカラクリは、GHQが、日本人を洗脳したからだ。
このことに目覚めよう!
そして、日本人としてのアイデンティティを取り戻してやろうじゃないか!!
国歌斉唱をしない、国旗掲揚をしない、学校、先生、生徒がいるということです。
私はその理由が分かりませんでした。そういう私自身、祝日に日の丸を揚げるようになったのは今年からなので(昨年まで揚げていませんでした)、大汗なのですが、今はともかく、日本人ならば、日本の国旗、国家を掲揚、斉唱するのが自然だと思っています。
反対派の人は、「日の丸強制に、反対!」と言われていました。
「強制でなければ、○」ですか? だったら、「「どちらでも良いですよ」だったら○」、ということですか?
「「日本人が、日本の国で、日の丸(国旗)を揚げても、揚げなくても、どちらでも良いです」だったら、○」ということですか?
どこの学校にも、校歌、校章はありますよね。「校歌、校章のない学校も、OKです」ということですよね。(では「校則」も決めないのもOKですよね」と、ツッコミたくなりますが)
「日教組」のYou Tubeを見ると、組合員は「日教組の歌」を歌っておられました。
「君が代」を歌わないのならば、「日教組の歌」も歌わないようにしちゃえ!」と思いますが。
「君が代」は歌わないで、「日教組の歌」は歌う、その理由を説明していただきたいです。
思うに、「国旗掲揚反対」は、「強制」であるか、ないか、ではないと思います。「日の丸」そのものが問題なのだと思います。
「この国のゆくえーー教科書、日の丸、靖国」 (梅田正己著、岩波ジュニア新書)に、このように書かれてあります。
P.142
「ある人々は、この戦争(大東亜戦争)を、欧米の植民地支配からのアジアの開放、アジア独立のための戦争だったと主張する。今の自民党主流の人たちの考えだ。いわゆる、「自由主義史観」の人々もそうだし、文科省の幹部たちも、多分同じだろう。
それに対し、あの戦争は紛れもなく、侵略戦争だったと考える人たちがいる。武力による侵攻、占領、略奪、暴行、殺戮は、侵略に他ならない」と見るからだ。
ではこうした戦争観の違いが、なぜ「日の丸」の見方の違いになるのかーー進軍する日本軍の先頭にいつも翻っていたのが「日の丸」に他ならなかったからだ。
従ってこの戦争を、アジア開放の戦争だったと見る人にとっては、日の丸は、誇らしい’開放の旗’に見えるだろうし、逆に、あの戦争を侵略戦争だったと見る人には、日の丸は血塗られた’侵略の旗’にしか見えないのだ。
しかし、日の丸問題の本質は、この点にあるのではない。」
(引用終わり)
続けて、こう書いてある。
(引用始め)
「歴史をどう見るかは、人によって違う。異なる歴史観を互いに排除し、傷つけ合ったのでは、この社会は成り立たない。
ところが、第二次世界大戦前の日本では、そうではなかった。日本は「万世一系」の天皇が君臨する’神の国’であるという「皇国史観」が国全体を支配し、それを批判するものは「非国民」、「国賊」として迫害され、弾圧された。
そのことの痛切な反省から、新しい憲法では、こう決められた。
「第19条 思想、及び、良心の自由は、これを犯してはならない」
では一つの歴史観(思想)に基つ゜き、権力を発動して、日の丸掲揚を強制することは異なる歴史観を持つ人々の思想、良心の自由を侵すことにはならないのだろうか?
さらに、日本国憲法の成立を受けて、1947年3月、教育基本法が定められた。その第1条には、教育の目的がこう書かれてある。
「教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家、及び、社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
では日の丸強制は、この教育基本法第1条から見てどうだろうか? それは果たして、「真理と正義を愛し」、「個人の価値を尊び」、「自主的精神」を育成するのにふさわしいと言えるだろうか?
憲法は国の最高法規であり、教育基本法は文字通り’基本法’である。それに対し、「学習指導要領」は、「法」ですらない。その「法」ですらないものが、最高法規に違反し、基本法に背く疑いの濃厚な行為を、強権を発動して強制するというのは、どういうことなのか?
(引用終わり)
つまり、「皇国史観」によって、(国全体を)戦争へと導いていった、「戦争に協力します」以外は悪とみなされた。
「そのことの痛切な反省から」と書いてある。
日本が戦争をした理由は、「国の独立を守るため」で、
当時の世界情勢は、帝国主義(殖民地主義)の大嵐の中にあった。筆者の梅田氏は、「侵略はいけない」と言われるが、当時は、「他国に侵略できるのに、しないのは、(しない方が)マヌケだ」と、どこの国が1番侵略するか、そのゲームを必死でやっていた、そういう情勢だったのだ。
だから、
①日本が戦争をしたーー戦争をしてでも、国の独立を守ろうとしたーーこのことが間違っていたのだろうか
②「皇国史観」に基つ゜き国民を一つにまとめて戦争をしようとした(国を守ろうとした)ことが悪い(他の思想を認めなかったから)、という主張は、
「帝国主義(植民地主義)は正しかったのだ。(何も言うな)」と言っているのと同義ではないのか?
筆者は、
・「日本国憲法の成立を受けて、教育基本法が定められた」
・「憲法は国の最高法規であり…」
と、あたかも、「日本国憲法こそ、最高のものだ」と言わんばかりの書き方をしておられると思う。その、「日本国憲法」を作ったのは、GHQ なのだ。
③自国の最高法規である「憲法」を外国人に作ってもらって、それに従うのが、日本人として当然のことなのか?
「最高法規」に違反してはいけない」と言われるなら、
「天皇制」ーー今まで日本で連綿と続いてきた「天皇制」が、
・学校で「天皇制」について、教えられなくなった
・皇族の縮小
・天皇家の財産の処分
等、どう見ても、(日本国憲法は)天皇制廃止の方向へ導こうとしているように思われてならない。
④つまり、「今まで続いてきた日本の伝統を捨てよ」ということだ。
あなたは、「(日本の伝統を)捨てるべきです」、と言われるのか?
天皇陛下は、日本国民はもとより、世界の民が幸せであるようにと、祈っておられる。(古来からずっと、そのことが天皇の任務)(私はこのことも最近知りました)
このことも、「捨てよ(破壊するべきだ)」と言われるのですか?
敗戦直後、GHQは、「真相はこうだ(かうだ)」という放送を流した。
目的は「日本国民の発想自体を解体せよ」ということだった。(「日本解体ーー『真相箱』に見るアメリカ(GHQ)の洗脳工作」 (保阪正康著、産経新聞社より)
「太平洋戦争が、(日本のーー注、井上)軍国主義者によって、いかに無慈悲に進められ、そして正当な理由もなく、侵略性を帯びたものだったか、そして国民にはその真実が隠蔽されていたために、いかに重大な被害が与えられたか」という主旨の下に、昭和6年(1931年)~昭和20年(1945年)までの経過が盛られていた。
米国は「正義」なのだ。
日本は、戦争中は、「鬼畜米英」と言って戦った。
それが戦後は、「日本の軍国主義の指導者こそ、悪」、「アメリカン・ドリーム」だ。これは不自然でしょう。
そのカラクリは、GHQが、日本人を洗脳したからだ。
このことに目覚めよう!
そして、日本人としてのアイデンティティを取り戻してやろうじゃないか!!