クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

上野国における上杉憲政の祈願所は? ―おうち戦国―

2021年01月24日 | 戦国時代の部屋
おうちの中で資料を介して訪れる戦国時代の三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)。
ここには、戦国乱世を生きた人々の足跡が残っています。

関東管領上杉憲政が、長尾景虎(上杉謙信)に奉じられて関東へ出陣したのは、
永禄4年(1561)のことです
それ以前に、勢力伸張を図る後北条氏に対抗するべく、
扇谷上杉氏と古河公方足利氏と連合を組み、大軍をもって河越城(埼玉県川越市)を包囲した憲政でしたが、
北条氏康の夜襲によって敗北。
その後、北条勢の上野国進攻によって憲政は平井城(群馬県藤岡市)から退去し、
越後の長尾景虎のもとへ赴くのでした。

その後、景虎は上洛を果たし、将軍足利義輝から憲政の進退について一任されます。
お膳立ての整った謙信は、関東の秩序を取り戻すべく、
憲政を奉じて関東へ出陣。
憲政にとっては待ちに待った越山です。
後北条氏に一矢報い、旧領を取り戻す。
そんな意気込みだったでしょう。
永禄3年9月27日付で、憲政は赤城神社宮司へ次の判物を出しています。

 就越山当山へ立願之子細候、於向後者為祈願所、抽精誠祈念可為肝要候、殊不入事得其意候、仍如件
  永禄三年
    九月廿七日        光哲(花押)
  赤城山大夫
   奈良原紀伊守殿

光哲とは上杉憲政です。
三夜沢赤城神社へ越山について立願し、
今後は祈願所とするとともに、税などを免除する旨が書かれています。
謙信が春日山城を出撃したのは8月下旬なので、
約1ヶ月後にこの判物を発給したことになります。

翌年、憲政は長尾景虎とともに後北条氏の本拠地である小田原城を攻めます。
関東の国衆たちはこぞって景虎に従属の意を示し、
小田原城包囲網は11万5千余騎という大軍に膨れ上がっていました。
かつての河越城包囲網を上回る兵力です。
憲政は溜飲が下がる思いだったでしょうか。

とはいえ、小田原城攻略は成りませんでした。
上杉憲政と長尾景虎は、関東の国衆たちを引き連れて鶴岡八幡宮へ移動。
同社において、憲政は関東管領職と上杉氏の名跡を景虎へ譲渡するのです。

このように、憲政が奉じられて景虎が関東へ出陣した永禄3年を境に、
関東戦国史は大きく動いていくことになります。
後北条氏、上杉謙信、武田信玄は、関東を舞台に激しく火花を散らします。
憲政を奉じた謙信の関東静謐という目的は早々に成し遂げられるかと思いきや、
国衆たちの離反にもあい、泥沼化していくのでした。

憲政は天正年間に越後で起こった御館の乱で死去するため、
泥沼化していく謙信の戦いを見続けたことになります。
永禄3年に三夜沢赤城神社に判物を出したときの胸中と、
謙信が死去する天正6年(1578)とでは、どのような変化があったでしょう。

三夜沢赤城神社は、赤城神社の山腹に鎮座しています。
あくまでも僕の感覚ですが、観光地として手が加えられているわけではなく、
いにしえから積み重ねられた時の重みを感じます。

初めて同社を訪れたとき、時間が遅かったこともあってほかに参拝客はおらず、
境内は静寂に包まれていました。
そのときの印象が強いのかもしれません。
世間が少し浮ついているときなど、
三夜沢赤城神社のような落ち着いた静かな場所を求める気がします。
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