羽生市広報4月号(2019)に掲載された昭和橋の古写真は、
昭和30年頃に撮影されたものです。
昭和54年生まれの僕は、物心のついた頃に目にした昭和橋は、
同37年に新たに架け替えられたものでした。
2車線道路で、ダンプやトラックが絶え間なく走っていたのを覚えています。
当時の橋は歩道がありません。
したがって、徒歩や自転車で橋を渡るのは勇気のいるものでした。
僕が初めて自転車で昭和橋を渡ったのは、中学生の頃だったと思います。
羽生市の中学校に通う僕らは、昭和橋を使わないで対岸へ行こうとすると、
行田市に架かる武蔵大橋か、
旧大利根町(現加須市)の埼玉大橋を使わなければなりませんでした。
いずれも遠く、精神的にも大変骨の折れる距離です。
電車で渡るという手段もありましたが、中学生の主な交通手段は自転車。
羽生市本川俣地区の利根川で遊んでいた僕らは、
そんな事情もあって対岸がひどく遠くに感じられました。
対岸の土手の向こうに少し見える建物の看板が、
まるで異国のように見えることも……。
しかし、昭和橋を渡らなかったわけではありません。
橋の手前でスタンバイし、車が途切れたのを機に猛ダッシュ。
いま思うと、「スタンンド・バイ・ミー」の鉄橋を渡るようなノリだったかもしれません。
どんなにペダルを漕いでも、ごく一般の中学生ではたかが知れたもの。
橋の半分も行かない内に車に追いつかれてしまいます。
体のすぐ脇を通り過ぎていく何台ものトラック。
運転手から見たら、僕らはひどく邪魔だったでしょう。
反対側の車線にも車は途切れることなく走り過ぎ、よけようもありません。
ふと横を向けば利根川。
河原で見るのとはどこか違っていました。
橋の真ん中から眺める利根川はやはり雄大の流れていたのを覚えています。
そんな昭和橋越えを十代の頃に何度となく経験しました。
20歳を越えた頃、お酒に酔って電車を寝過ごし、歩いて昭和橋を渡ったこともあります。
そんな歩道のなかった前昭和橋は身近なようであり、
近寄りがたい存在だった気もします。
それでいて、とても愛着を感じさせる橋でもありました。
現在の橋は、2000年代に入って新しく架けられたものです。
上りと下りの橋がそれぞれ架けられ4車線化し、
広々とした歩道も設けられました。
対岸との距離は近くなり、僕らのときのように、
「スタンド・バイ・ミー」のノリで橋を渡る中学生はいないでしょう。
僕らが親しんだ昭和橋はすでに解体されています。
現行の橋は、厳密に言えば「平成橋」と言ってもいいかもしれません。
いずれこの橋も「歴史」に変わるのでしょう。
元号は2019年5月から「令和」に変わり、
「昭和」はどんどん遠ざかっています。
昭和30年頃に撮影されたものです。
昭和54年生まれの僕は、物心のついた頃に目にした昭和橋は、
同37年に新たに架け替えられたものでした。
2車線道路で、ダンプやトラックが絶え間なく走っていたのを覚えています。
当時の橋は歩道がありません。
したがって、徒歩や自転車で橋を渡るのは勇気のいるものでした。
僕が初めて自転車で昭和橋を渡ったのは、中学生の頃だったと思います。
羽生市の中学校に通う僕らは、昭和橋を使わないで対岸へ行こうとすると、
行田市に架かる武蔵大橋か、
旧大利根町(現加須市)の埼玉大橋を使わなければなりませんでした。
いずれも遠く、精神的にも大変骨の折れる距離です。
電車で渡るという手段もありましたが、中学生の主な交通手段は自転車。
羽生市本川俣地区の利根川で遊んでいた僕らは、
そんな事情もあって対岸がひどく遠くに感じられました。
対岸の土手の向こうに少し見える建物の看板が、
まるで異国のように見えることも……。
しかし、昭和橋を渡らなかったわけではありません。
橋の手前でスタンバイし、車が途切れたのを機に猛ダッシュ。
いま思うと、「スタンンド・バイ・ミー」の鉄橋を渡るようなノリだったかもしれません。
どんなにペダルを漕いでも、ごく一般の中学生ではたかが知れたもの。
橋の半分も行かない内に車に追いつかれてしまいます。
体のすぐ脇を通り過ぎていく何台ものトラック。
運転手から見たら、僕らはひどく邪魔だったでしょう。
反対側の車線にも車は途切れることなく走り過ぎ、よけようもありません。
ふと横を向けば利根川。
河原で見るのとはどこか違っていました。
橋の真ん中から眺める利根川はやはり雄大の流れていたのを覚えています。
そんな昭和橋越えを十代の頃に何度となく経験しました。
20歳を越えた頃、お酒に酔って電車を寝過ごし、歩いて昭和橋を渡ったこともあります。
そんな歩道のなかった前昭和橋は身近なようであり、
近寄りがたい存在だった気もします。
それでいて、とても愛着を感じさせる橋でもありました。
現在の橋は、2000年代に入って新しく架けられたものです。
上りと下りの橋がそれぞれ架けられ4車線化し、
広々とした歩道も設けられました。
対岸との距離は近くなり、僕らのときのように、
「スタンド・バイ・ミー」のノリで橋を渡る中学生はいないでしょう。
僕らが親しんだ昭和橋はすでに解体されています。
現行の橋は、厳密に言えば「平成橋」と言ってもいいかもしれません。
いずれこの橋も「歴史」に変わるのでしょう。
元号は2019年5月から「令和」に変わり、
「昭和」はどんどん遠ざかっています。
当時の明和模型は輸入模型も手に入ったので、プロ御用達の店というイメージがありました。
道中にもF1の高速サーキットに設計されているシケインのような道もあって、楽しんでいました。初めてその道を通った時は、「シケインだ〜」と言ってF1好きな友達と自転車で通りました。
埼玉大橋は、羽生からだとかなり距離がありますね。おまけに、昔は通行料が取られていたと聞きました。まさに「翔んで埼玉」の世界ですね。埼玉県民は都会指数は低いかもしれませんが、文化・歴史指数は高いのではないかと思います。
僕が昭和橋を渡って館林へ行った目的は、当時あった「ライトオン」や駅前の「ターゲット」などでした。
ただ、明和模型も友人に連れられて行ったのを覚えています。
エアガンのバルカンが30万で売ってましたね。
昭和橋を自転車で渡るのは勇気が必要でしたが、川向うにはそれなりの楽しみがありました。
30歳のときだったか、昭和橋を渡って明和に入り、そのまま土手沿いを走って埼玉大橋で再び埼玉に帰ったことがあります。
その日はノリノリでしたが、さすがに距離がありましたね。
埼玉は地域資源が豊富にあると思います。
文化・歴史指数が高いというのは同感です。