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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

関東幕注文に見える「羽生之衆」 ―羽生城コトノハ―

2017年11月15日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
平成29年12月10日まで開催されている
文書館収蔵文書展「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」。
その中に「関東幕注文」が展示されている(複製、前期展示のみ)。

上杉氏に従属した国衆たちの名前が列記され、
永禄4年(1561)頃の作成と考えられている。
この中に見える「羽生之衆」の文字。
これは羽生城関係者と見られる。

 馬寄 羽生之衆
 広田式部大輔    梅之紋
 河田谷右衛門大夫  かたはミ
 渋江平六良     くわのもん
 岩崎源三郎     二本鷹之羽

「広田式部大輔」は羽生城主広田直繁に比定される。
「河田谷右衛門大夫」は直繁の弟の木戸朝。
永禄4年頃は、まだ「河田谷」姓を名乗っていたことがうかがえる。

「羽生之衆」の前に列記されているのは、忍城主成田氏関係者だ。
忍衆ではなく「武州之衆」とあり、
一つの軍団の筆頭に成田氏がいて、指揮を執っていたということだろう。
その中に「羽生之衆」も従属していた。
だから「馬寄」と書かれている。

武州之衆はどこを攻めたか?
後北条氏の本拠小田原城だ。
永禄4年に上杉謙信が小田原城に乗り込む。
その中に成田氏や広田氏たちがいた。

「関東幕注文」に名を連ねたとき、
広田氏や河田谷氏はどんなビジョンを思い描いていただろう。
謙信の関東平定が速やかに成るものと踏んでいたとしたら、
羽生領を無事に治め、その政治的自立権が安定していくものと考えていたかもしれない。

でも、歴史はそのようには展開しなかった。
関東をめぐる争乱は上杉氏・後北条氏・武田氏の三つ巴合戦の様相となり、
泥沼化していくのだった。


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