クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

さきたま古墳群の“旬”は? ―丸墓山古墳の伝説―

2010年05月16日 | 奇談・昔語りの部屋
史跡にも“旬”がある。
ぼくにとって“古墳”の旬は、
春先から初夏にかけてだ。

これといった理由はない。
新緑の季節に古墳が彩られるとか、
自主的に初めて足を運んだのが初夏だとか、
いろいろな理由は挙げられるが、
いずれも個人的であり、人によって旬の時期は異なるだろう。

さきたま古墳群の“火祭り”は5月4日に開催される。
この祭りに参加している人にとっては、
5月が古墳の旬と感じているかもしれない。

同古墳群で最大規模を誇るのは“丸墓山古墳”である。
東国最大の円墳であり、
最近では“石田三成”が忍城を攻める際、
丸墓山から城を望んだことで知られている。

実は、丸墓山古墳には“聖徳太子”の伝説がある。
太子が富士山に登ったとき、
東の方に紫色の雲がたなびいているのが見えた。

「あれは武蔵のさきたまの辺りだろう。わしが死んだらあの地に墓を作り、
 地蔵菩薩を建てなさい」
と、お供の“調子麿(つきのねまろ)”に言った。

太子の死後に子麿が武蔵へ下ると、
丸墓山のところで太子の遺骨が石のように重くなったという。
そこで、子麿はここに墓を築いたと伝えられる(『埼玉の伝説』)。

かつて丸墓山古墳のそばに“西行寺”という寺があった。
『新編武蔵風土記』によると、國王山地蔵院と号し、
本尊は延命地蔵だったという。

この西行寺の庭前に梅の古木があり、「千年木」と称していた。
しかし、明治11年の冬に暴風によって倒れてしまう。
その梅にちなんで、“梅塚古墳”という塚があった。
現在は何もなく、公園の一部になっている。

実は、火祭り会場となる“産屋”の周辺には、
いくつもの古墳が存在していた。
その一つが梅塚古墳であり、
火祭りは古墳跡で開催されていると言っても過言ではない。
現在残っている古墳は、「生き残り」なのである。

初夏の古墳は新緑に彩られ、何となくさわやかだ。
墓だが、命の芽吹きさえ感じさせる。
丸墓山古墳に伝わる聖徳太子の伝説は史実とは言い難い。
しかし、なぜ太子や“蘇我調子麿”の名が伝わっているのか、
探れば「歴史ミステリー」に遭遇するだろう。
旬のこの時期に古墳へ出かけよう。




丸墓山古墳(埼玉県行田市)



同上

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