
さきたま古墳群(埼玉県行田市)の近くに“埼玉の津”という船着場があり、
水運によって人間や物資が運ばれていた可能性があります。
いわばそこは集落に住む人々にとって外との窓口。
古墳に使われた石も、川から運ばれてきたはずです。
その埼玉の津がどこにあったのか、具体的には定かではありませんが、
さきたま古墳群からさほど離れていない場所に、
“小埼沼”という沼がありました。
これは、かつてここを流れていたであろう川の名残かもしれません。
江戸時代後期に成立した『新編武蔵風土記稿』を見ると、
「埼玉沼並尾崎沼邊之圖」として2つの沼が描かれた絵図が掲載されています。
“埼玉沼”は古くは尾崎沼と呼ばれ、
のちに小針沼とも称されましたが、
元禄9年(1696)に「埼玉沼」に落ち着いたということです。

「埼玉沼並尾崎沼邊之圖」の「尾崎沼」
現在、小埼沼と呼ばれるところに沼はなく、
わずかな窪みを残すのみです。
鬱蒼とした樹木に覆われ、
川や入江を偲ぼうにもいささか難しいかもしれません。
ただ、この小埼沼は『万葉集』に詠まれたとする場所。
同書には次のように詠まれています。
埼玉の小埼の沼に鴨(しぎ)ぞ翼霧(はねき)る
おのが尾に降り置ける霜を掃(はら)ふとにあらし 高橋虫麻呂
埼玉の小埼の沼で鴨が翼のしぶきを飛ばしている、
自分の尾に降りかかった霜を払っているのだろう、という意味の歌。
宝暦3年(1753)9月、ときの忍藩主“阿部正允(まさちか)”は、
この歌を刻した碑をここに建てました。

小埼沼に所在する歌碑
実は小埼沼と比定される場所は行田だけではなかったのですが、
阿部正允がここを万葉遺跡としたので、
小埼沼=行田と一般的によく知られるようになりました。
よって、昭和36年に旧跡として埼玉県の指定を受けています。
かねてより人々に知られ、また古代ロマンをかき立ててきた場所のためか、
ここにはいくつかの伝説が伝わっています。
例えば、小埼沼へ足を運んだ際は、
何かを拾って帰ってきてはなりません。
なぜなら、ここで人柱になったという“おさき姫”の大罰があたるから……。
(2006年5月16日の記事「おさき姫 ―小埼沼伝説(1)―」参照)
http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/4bf0655d4971ca9149db35810fab338e
水田が広がる中、ポツンと存在する小埼沼。
古代の川や入江をイメージするか、
あるいは万葉集に詠まれた場所として、
文学の香りを楽しむか……。
はたまた、ここに伝わるいくつかの伝説を辿ってみるか、
それは訪れた者の自由です。
ただ、そこにわずかばかり残る窪地に、
広大な川と船着場を重ね合わせたとき、
西方にそびえ立つさきたま古墳群が呼びかけてきます。

小埼沼の窪地

小埼沼のひとつに比定される埼玉県羽生市尾崎
水運によって人間や物資が運ばれていた可能性があります。
いわばそこは集落に住む人々にとって外との窓口。
古墳に使われた石も、川から運ばれてきたはずです。
その埼玉の津がどこにあったのか、具体的には定かではありませんが、
さきたま古墳群からさほど離れていない場所に、
“小埼沼”という沼がありました。
これは、かつてここを流れていたであろう川の名残かもしれません。
江戸時代後期に成立した『新編武蔵風土記稿』を見ると、
「埼玉沼並尾崎沼邊之圖」として2つの沼が描かれた絵図が掲載されています。
“埼玉沼”は古くは尾崎沼と呼ばれ、
のちに小針沼とも称されましたが、
元禄9年(1696)に「埼玉沼」に落ち着いたということです。

「埼玉沼並尾崎沼邊之圖」の「尾崎沼」
現在、小埼沼と呼ばれるところに沼はなく、
わずかな窪みを残すのみです。
鬱蒼とした樹木に覆われ、
川や入江を偲ぼうにもいささか難しいかもしれません。
ただ、この小埼沼は『万葉集』に詠まれたとする場所。
同書には次のように詠まれています。
埼玉の小埼の沼に鴨(しぎ)ぞ翼霧(はねき)る
おのが尾に降り置ける霜を掃(はら)ふとにあらし 高橋虫麻呂
埼玉の小埼の沼で鴨が翼のしぶきを飛ばしている、
自分の尾に降りかかった霜を払っているのだろう、という意味の歌。
宝暦3年(1753)9月、ときの忍藩主“阿部正允(まさちか)”は、
この歌を刻した碑をここに建てました。

小埼沼に所在する歌碑
実は小埼沼と比定される場所は行田だけではなかったのですが、
阿部正允がここを万葉遺跡としたので、
小埼沼=行田と一般的によく知られるようになりました。
よって、昭和36年に旧跡として埼玉県の指定を受けています。
かねてより人々に知られ、また古代ロマンをかき立ててきた場所のためか、
ここにはいくつかの伝説が伝わっています。
例えば、小埼沼へ足を運んだ際は、
何かを拾って帰ってきてはなりません。
なぜなら、ここで人柱になったという“おさき姫”の大罰があたるから……。
(2006年5月16日の記事「おさき姫 ―小埼沼伝説(1)―」参照)
http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/4bf0655d4971ca9149db35810fab338e
水田が広がる中、ポツンと存在する小埼沼。
古代の川や入江をイメージするか、
あるいは万葉集に詠まれた場所として、
文学の香りを楽しむか……。
はたまた、ここに伝わるいくつかの伝説を辿ってみるか、
それは訪れた者の自由です。
ただ、そこにわずかばかり残る窪地に、
広大な川と船着場を重ね合わせたとき、
西方にそびえ立つさきたま古墳群が呼びかけてきます。

小埼沼の窪地

小埼沼のひとつに比定される埼玉県羽生市尾崎
小崎沼と確信しました、これが文化財ですか ねー
個人的には好きです。
隠れ家的な感じがして……
夜はさすがに不気味ですね
ただ歴史好きの爺ですが、足立区の「伊興遺跡」から「埼玉の津」までのむかしの利根川の沿岸に「鳩ケ谷三ツ和遺跡」があり、むかし大宮台地の南を利根川が流れて、今は北側ですが。そんな話題がなんか楽しくなる思いが有ります。新しい話題をお待ちしています。
川、水運に深いゆかりをお持ちのようですね。
川が果たした歴史的役割は計り知れないものがあります。
歴史を見るとき、川や水運の視点は外せません。
後世に作られた史観を打ち破る起爆剤とも思っています。
そういえば、ぼく自身郷土の歴史に興味を持ったのは利根川がきっかけでした。
もともと歴史が好きだったのですが、
利根川という視点で見たときの歴史が面白くて、
郷土史にのめり込んだのを覚えています。
「埼玉の津」も見方を変えただけで色々な発見があるかもしれませんね。
学術的ではなくても、イメージを喚起する話題に刺激を受けます。
こちらこそ、新しい話題がありましたら御教示お願いします。
もし宜しかったら儀右衛門のホームページ「清和源氏新田岩松一族」を、ヤフーの検索でカッコ内のタイトルを入れれば見られますので、クニさんの小説の題材としても面白いかも、七百年も利根川の沿岸で暮し、『太平記』の時代から、戦国期に活躍の田部井右馬之助忠正の活躍の古記録もあり、お暇のある時にはご覧ください。
羽生も「大道遺跡」という旧石器時代から中世までの集落遺跡が発掘され、
古くから川沿いに人々が生活していたことが明らかになっています。
利根川でもこの当たりは入り組んでおり、関東の中心ということもあって、
物と文化の中継地点であったかもしれません。
そんなことを想像するのは楽しいですね。
貴ブログにお邪魔させていただきます。
クニちゃんの他のブログも手広くあって、興味深く読ませて頂いています。
「大道遺跡」は川沿いではないのですが、
羽生は利根川沿いに位置しており、
しかも川が二俣に分かれていた場所にあります。
舟を使っての交通の行き来はあったと思います。
「伝岩瀬の渡」の比定地もありますので……
ただ、奥東京湾は羽生にまで届いていなかったようです。
台地はあったのですが、川によって削られて起伏の激しい土地となりました。
(現在は平坦ですが)
戦国時代に羽生に城が築かれたのも、そうした地形を利用してのことでしょう。
拙ブログは日ごと拙文を綴っています。
最近は別のことで時間に追われていたのですが、
何とか書くように心がけています。
管見によりますので、「いない」と断言できません。
古老にお会いしたら聞いてみますね。