クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

飯野城の主とその歴史は? ―飯野城記(ノート2)―

2007年04月18日 | 城・館の部屋
利根川の土手を下りて、飯野城址と推定される場所を散策してみます。
目につくのは田んぼの高低差。
それ以外に遺構らしきものは見当たりません。
すぐ近くに利根川の土手が迫っているものの、田畑が広がり、
ビニールハウスもあちこち点在しています。
農作業をしている人影も見当たらず、
茶色い土が広がっているのでした。

飯野城(群馬県板倉町飯野)は館林城に属した城です。
城主は“淵名上野介”。
上杉謙信と後北条氏との戦いに巻き込まれながらも、
天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐まで存在していたようです。
長尾顕長に代わって後北条氏が館林城に入ると、
淵名氏も後北条氏に組みしました。
『群馬県の地名』(平凡社)で紹介されている「飯野城跡」は次のとおりです。

 (前略)「北越軍記」に永禄三年(一五六〇)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 「国志」によると、淵名上野介は長尾顕長が小田原に抑留された時、
 白石豊前守と館林を守っている。
 その後北条氏規に属し、天正一八年(一五九〇)館林城とともに落城した。

すなわち、飯野城は館林城の出城として機能していたのでしょう。
武蔵国との境界線である利根川のすぐそばに位置していることから、
重要な立場にあったと考えられます。
元亀元年(1570)に羽生城主広田直繁が館林城に移ったとき、
両者は対面したかもしれません。
そして、翌年城沼のほとりにある善長寺で直繁が前城主長尾氏に謀殺されたとき、
淵名氏はそこに関わっていたのかどうか……。
目を細め、往時の飯野城を想像してみましたが、
風が吹き抜けていくだけでした。
(「飯野城記ノート3」に続く)

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