埼玉県行田市真名板にある大型前方後円墳。
薬師堂の境内に横たわっていますが、
実はここは、武蔵武士である真名板氏の館跡に比定されています(『埼玉の中世城館跡』)。
真名板氏は『吾妻鏡』に確認される武士であり、
現行田市真名板を本貫地としていたと見られます。
いま真名板の地を訪れても、館跡を偲ばせる遺構は見当たりません。
縄張りもわからず、おおまかに薬師堂の辺りというだけで、
往古の姿を想像するのも難しいでしょう。
少し前、薬師堂境内には真名板氏館跡を示す石碑が建っていました。
しかし、単に僕が見付けられないだけかもしれませんが、
前にあったところにその姿はなく、どこにあるのかわからない状態です。
古墳と違って遺構のない館跡ですから、何かと謎が多いと言えます。
そもそもここが本当に館跡なのか、断言できません。
ただ、真名板を歩くと、ここに館があってもおかしくはないように思います。
薬師堂は旧道に面しています。
山門から真っすぐ南へ延びる狭い道が旧道で、
川里、鴻巣、羽生を結ぶ道となっています。
川里から羽生へ向かう場合、かつては薬師堂の前を通らなければなりませんでした。
旧道と参道が一部一体化していたわけです。
さらに、薬師堂の近辺には、会の川と星川が流れています。
現在の排水路である関根落しも旧流路と見られます。
会の川は利根川の本流だったことがあり、
鎌倉時代に最も水勢があったようです。
この会の川は、埼玉県羽生市砂山付近で3つに分かれていました。
その一つが真名板の薬師堂のそばを流れていたのです。
この流れはやがて星川に合流します。
すなわち、この流路は星川と会の川を結んでいたわけです。
とすれば、真名板は会の川の分流地点及び、
星川に注ぐ合流地点の近くにある水運交通の要衝地と捉えることができます。
さらに、鴻巣と羽生を結ぶ旧道の脇にも位置するため、
陸路も掌握する地域と言えそうです。
そんな水運・陸路の要衝地に館があってしかるべきでしょう。
真名板氏は、大型前方後円墳である真名板高山古墳の被葬者と同様に、
交通を掌握する人物であり、豊かな経済力を有していたのかもしれません。
ただし、真名板氏が居館していた時代に、
会の川と星川を結ぶ流れが存在していたことを前提とする話です。
陸路も同様です。
薬師堂の前を通るその道が当時から存在していたかはわかりません。
真名板氏が交通を掌握する武士だったと捉えるには材料が不足しています。
現代の地理的状況から推測されるだけであり、
それがそのまま鎌倉時代まで遡れるかは、今後の調査を待たなければなりません。
と言いつつも、境内には大型前方後円墳が存在するのですから、
被葬者は豊かな経済力を持っていたことを物語っています。
真名板には、その収入源となる地域的な特色があったということでしょう。
それが一体何だったのか?
そんな視点で真名板を歩いてみると、
何気ないものが意味深に見えてくるかもしれません。
ところで、真名板の旧道を歩いていたとき、
ポツンと赤い句読点のように何かが落ちていることに気付きました。
近寄ってみると、それはイチゴでした。
イチゴが1個、道の上に落ちていたのです。
誰かが落としたものでしょうか、それとも鳥の仕業でしょうか。
ふと立ち止まり、イチゴを見つめます。
何も語りかけてこず、古の道の上に一点の紅を添えるイチゴ。
中原中也の詩「月夜の浜辺」に描かれた波打ち際のボタンのように、
真名板の旧道に落ちたイチゴはどこか詩的で、
かつて薬師堂前の帰り道に寄せた密かな想いのように、
甘さと少しの痛みをもってしみ入るのでした。
薬師堂の境内に横たわっていますが、
実はここは、武蔵武士である真名板氏の館跡に比定されています(『埼玉の中世城館跡』)。
真名板氏は『吾妻鏡』に確認される武士であり、
現行田市真名板を本貫地としていたと見られます。
いま真名板の地を訪れても、館跡を偲ばせる遺構は見当たりません。
縄張りもわからず、おおまかに薬師堂の辺りというだけで、
往古の姿を想像するのも難しいでしょう。
少し前、薬師堂境内には真名板氏館跡を示す石碑が建っていました。
しかし、単に僕が見付けられないだけかもしれませんが、
前にあったところにその姿はなく、どこにあるのかわからない状態です。
古墳と違って遺構のない館跡ですから、何かと謎が多いと言えます。
そもそもここが本当に館跡なのか、断言できません。
ただ、真名板を歩くと、ここに館があってもおかしくはないように思います。
薬師堂は旧道に面しています。
山門から真っすぐ南へ延びる狭い道が旧道で、
川里、鴻巣、羽生を結ぶ道となっています。
川里から羽生へ向かう場合、かつては薬師堂の前を通らなければなりませんでした。
旧道と参道が一部一体化していたわけです。
さらに、薬師堂の近辺には、会の川と星川が流れています。
現在の排水路である関根落しも旧流路と見られます。
会の川は利根川の本流だったことがあり、
鎌倉時代に最も水勢があったようです。
この会の川は、埼玉県羽生市砂山付近で3つに分かれていました。
その一つが真名板の薬師堂のそばを流れていたのです。
この流れはやがて星川に合流します。
すなわち、この流路は星川と会の川を結んでいたわけです。
とすれば、真名板は会の川の分流地点及び、
星川に注ぐ合流地点の近くにある水運交通の要衝地と捉えることができます。
さらに、鴻巣と羽生を結ぶ旧道の脇にも位置するため、
陸路も掌握する地域と言えそうです。
そんな水運・陸路の要衝地に館があってしかるべきでしょう。
真名板氏は、大型前方後円墳である真名板高山古墳の被葬者と同様に、
交通を掌握する人物であり、豊かな経済力を有していたのかもしれません。
ただし、真名板氏が居館していた時代に、
会の川と星川を結ぶ流れが存在していたことを前提とする話です。
陸路も同様です。
薬師堂の前を通るその道が当時から存在していたかはわかりません。
真名板氏が交通を掌握する武士だったと捉えるには材料が不足しています。
現代の地理的状況から推測されるだけであり、
それがそのまま鎌倉時代まで遡れるかは、今後の調査を待たなければなりません。
と言いつつも、境内には大型前方後円墳が存在するのですから、
被葬者は豊かな経済力を持っていたことを物語っています。
真名板には、その収入源となる地域的な特色があったということでしょう。
それが一体何だったのか?
そんな視点で真名板を歩いてみると、
何気ないものが意味深に見えてくるかもしれません。
ところで、真名板の旧道を歩いていたとき、
ポツンと赤い句読点のように何かが落ちていることに気付きました。
近寄ってみると、それはイチゴでした。
イチゴが1個、道の上に落ちていたのです。
誰かが落としたものでしょうか、それとも鳥の仕業でしょうか。
ふと立ち止まり、イチゴを見つめます。
何も語りかけてこず、古の道の上に一点の紅を添えるイチゴ。
中原中也の詩「月夜の浜辺」に描かれた波打ち際のボタンのように、
真名板の旧道に落ちたイチゴはどこか詩的で、
かつて薬師堂前の帰り道に寄せた密かな想いのように、
甘さと少しの痛みをもってしみ入るのでした。
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