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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

近代の乗り物は“テートー”と音が鳴る? ―乗合馬車―

2011年05月24日 | 近現代の歴史部屋
近代日本、郷土には“馬車”が走っていた。
“人力車”は明治維新後に登場したが、
庶民の普及にまでは至らなかった。

その一方で、明治3年に開業された“乗合馬車”は、
庶民の乗り物として親しまれるようになる。
馬が四輪車を引き、その中に5~10名の乗客が乗るというものだ。

立場(停留所)も一応あったが、手を挙げれば乗車することができる。
手綱を引くベットウは、馬車の通過をラッパで知らせた。
その音が「テートー、テートー」と鳴るから、
乗合馬車は通称“テートー馬車”とも“テト馬車”とも言われた。

羽生市では、明治27年には久喜と羽生とを結ぶ乗合馬車が存在していた。
運賃は、羽生久喜間で30銭だった。

明治34年には、羽生大越間に乗合馬車が開設される。
同44年には、加須→大越→弥勒→羽生→手子林→不動岡→加須を結ぶ行路を、
加須町の“小倉久蔵”が開業した。

馬車は2台。
加須と弥勒を7時に出発した乗合馬車は、
上の行路を2回半回っていた。
『田舎教師』(田山花袋作)の中にも、
「乗合馬車がおりおり喇叭を鳴らしてガラガラと通る」と描写されており、
庶民にとって乗合馬車の通る風景は馴染みだったのだろう。

馬車の車輪はゴムではなく木だったから、
砂利道を通ると「ガタクリ、ガタクリ」と音がなったという。
したがって、この乗合馬車を“ガタクリ馬車”や“ガタ馬車”と呼ぶ人もいた。

四輪車を引く馬は重労働だったに違いない。
坂道のある川越・松山間の馬車は馬を交換する必要があったし、
客が四輪車を押すことも珍しくはなかった。

行田在住の古老の話によると、
馬は汗をかくとうどんの“さし湯”を喜んで飲んだという。
これは、ベットウがうどんのさし湯を携帯していたのではなく、
うどん屋前の停留所の光景だったようだ。
また、ベットウは馬の汗を拭ってもいた。

のどかささえ漂う乗合馬車だが、
本格的に押し寄せた近代化の波によってその姿を消してしまう。
鉄道や乗合自動車の普及による消滅である。
埼玉県下では昭和9年を最後にその姿を消し、
いまでは書物を紐解かなければ知ることができない。

名もなきベットウと馬。
彼らにも名前があり、
乗合馬車の数だけ人生とそれぞれのドラマがあったのだろう。
庶民に愛された乗合馬車は、
近代を象徴するものでもあった。
そんな歴史の流れにそっと耳を澄ませば、
「テートー、テート」のラッパの音が聞こえてくるかもしれない。

※最初の画像は埼玉県羽生市弥勒の風景

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