かつて、羽生市上村君と邑楽郡明和町を結ぶ渡しがあった。
千津井下の渡し(千津井の渡し)と呼ばれ、
橋が架かっていない頃の重要な交通路となっていた。
江戸時代、明和町側では千津井河岸と呼ばれた。
河岸は安永3年(1774)に成立し、
船積問屋が1軒あったという。
幕末、羽生では陣屋が構築される。
その陣屋は官軍によって灰燼に帰した。
その日の夜、農民たちが結集。
名主の家を次々に襲うという打ちこわし一揆が起こった。
村君地区も無関係ではない。
一揆に襲われそうになった名主は、
屋敷を離れて利根川を渡る。
一家総出で逃げ延びたのだろう。
利根川から後ろを振り向いたとき、
屋敷が燃える炎で、空が赤く染まっているのを目にしたという。
その渡った場所こそ、千津井の渡しではなかったか。
水面にも、炎の明かりが映っていたかもしれない。
幕末の動乱は、この地方にも波及していた。
現在、渡し場の名残はほとんど見られない。
昭和29年に県営となり、同62年3月まで船が運行していた。
したがって、千津井の渡しは県道ということになる。
廃止ではなく、休止。
10年以上前、羽生側の河川敷に千津井の渡しの説明板が建っていたのだが、
いまでもあるのだろうか。
明和町側では、土手の上に水神宮が建っている。
渡し、あるいは河岸の名残なのかもしれない。
向かって右側面に、天明六年(1786)の銘がある。
現在、渡し場のすぐ下流には、東北自動車道の橋、
上流には昭和橋が架かり、ひっきりなしに車が通り過ぎている。
千津井下の渡し(千津井の渡し)と呼ばれ、
橋が架かっていない頃の重要な交通路となっていた。
江戸時代、明和町側では千津井河岸と呼ばれた。
河岸は安永3年(1774)に成立し、
船積問屋が1軒あったという。
幕末、羽生では陣屋が構築される。
その陣屋は官軍によって灰燼に帰した。
その日の夜、農民たちが結集。
名主の家を次々に襲うという打ちこわし一揆が起こった。
村君地区も無関係ではない。
一揆に襲われそうになった名主は、
屋敷を離れて利根川を渡る。
一家総出で逃げ延びたのだろう。
利根川から後ろを振り向いたとき、
屋敷が燃える炎で、空が赤く染まっているのを目にしたという。
その渡った場所こそ、千津井の渡しではなかったか。
水面にも、炎の明かりが映っていたかもしれない。
幕末の動乱は、この地方にも波及していた。
現在、渡し場の名残はほとんど見られない。
昭和29年に県営となり、同62年3月まで船が運行していた。
したがって、千津井の渡しは県道ということになる。
廃止ではなく、休止。
10年以上前、羽生側の河川敷に千津井の渡しの説明板が建っていたのだが、
いまでもあるのだろうか。
明和町側では、土手の上に水神宮が建っている。
渡し、あるいは河岸の名残なのかもしれない。
向かって右側面に、天明六年(1786)の銘がある。
現在、渡し場のすぐ下流には、東北自動車道の橋、
上流には昭和橋が架かり、ひっきりなしに車が通り過ぎている。