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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

恋するお地蔵さまも戦争にとられた? ―子ども学芸員(66)―

2012年11月05日 | 子どもの部屋
昭和16年に施行された“金属類特別回収”によって、
各家庭から金属類が回収された。
太平洋戦争によって不足する軍需物資を少しでも得るためだ。

その動きは、宗教施設も無縁ではなかった。
特に対象となったのは“梵鐘”(ぼんしょう)である。
12月31日にお寺で突くあの鐘だ。

各地域に建つ寺院の梵鐘は、容赦なく供出された。
その梵鐘は江戸時代に造られたものがほとんどで、
一番古かったのは、慶安元年(1648)造の祥雲寺にあったものだった。

冨田勝治氏の羽生城研究のきっかけとなった正覚院の梵鐘(1679)も供出された。
冨田氏は、鐘が連れ去られる前に、そこに刻された銘を全て書き写したという。
同寺に鐘楼だけが残っているのはそのためである。

現在の羽生市域で供出された梵鐘は24個だった。
羽生の地を離れ、鐘ではない別の何かに換えらたはずだ。

中には、お地蔵さまも供出された。
恋をするとして知られていた上町のお地蔵さま(市民プラザの裏)も、
戦争にとられてしまった。
そのお地蔵さまは石ではなく、青銅でできていたのだろう。
ゆえに、羽生を去っていった。

羽生市名(みょう)の延命寺には、かつて大きな仏像が外に建っていた。
これもあえなくこれも供出。
また、不動院(加須市)の境内に建っていた“斎藤珪次”の銅像も供出された。
現在は土台だけが残っている。
紙資料のみならず、さまざまな歴史的資料が失われていった。

梵鐘や仏像は何に換えられ、その後どんな道を辿っていったのだろう。
日本全国から集めなければ軍需物資が足りなかった日本が、
どんな戦争の結末を迎えたかは知っての通りである。
豊富な軍需物資を有するアメリカに敗北した。

終戦後、お寺では新たな梵鐘が造らはじめた。
しかし、その鐘を突けば、
戦争で供出されなければならなかった鐘たちの悲しみが響いている。

戦時中、羽生に疎開した学童がいた? ―子ども学芸員(65)―

2012年10月31日 | 子どもの部屋
昭和16年から始まった太平洋戦争は、
次第に日本の敗色が漂い始めていった。
昭和19年、日本本土への空襲が激しさを増すと判断した政府は、
児童の疎開を促進させた。
国民学校初等科3年~6年の縁故先のない児童が対象だった。

羽生には、“東京都西神田国民学校”の児童約300人が疎開。
各地域のお寺が宿舎として利用された。
そのお寺とは、冨徳寺、福生院、建福寺、正覚院、
源長寺、長善寺、祥雲寺の7カ所である。
約40名前後の児童が各お寺に預けられ、
昭和20年から同21年まで過ごした。

まだ幼い子どもたちである。
両親から離れ、北埼玉くんだりまで疎開してきた児童は、
寂しさと心細さで胸がいっぱいだっただろう。
しかし、日本の勝利を信じて皆歯を食いしばって生きていた。

羽生の人たちは、疎開してきた児童たちに優しく接していたらしい。
かつて正覚院に疎開していた児童は、次のように当時を振り返っている。

 お風呂はゴム会社の厚意で新湯をつかわせていただきました。
 医師の横田先生がよく学童の健康にご注意なされた事や、
 町の有力な方の御宅へよばれて学童が御馳走になって非情に喜んだ事、
 羽生の映画館等の御招きをいただいた事などが思いだされます。

羽生の人たちは、父母から離れ、
遠い町へ連れてこられた学童たちの気持ちを察したのだろう。
遠足に、利根川の土手や館林へ連れていったこともあった。
また、米のご飯も食べられたらしい。

なお、食料増産を目的として土地改良事業が全国一斉に始められ、
学生の勤労奉仕団が耕地整理に羽生へやってきている。
岩瀬村にやってきたのは、早稲田大学と慶応大学の学生だった。
前者は、降り積もった雪をかき分け、用水路を掘削した。
岩瀬で、「早生田堀」と呼ばれる水路があるのはこのためである。

戦時中は、子どもから年輩者まで、一丸となって戦っていた時代だった。
終戦から時は過ぎ、次第にその記憶は薄れていっているかもしれない。
「何もない」と思われがちな郷土にも、
決して戦争と無関係だったわけではない。
学童疎開を受け入れ、親切に接した人々がいた。

時代と共に、戦争の記憶は風化しているが、
世代から世代へ語り継いでいかなければならない。
戦争を実際に知らない世代だからこそ、
それを知ることが大切だろう。
歴史を繰り返さないためにも……

羽生に政治の季節をもたらした“通見社”とは? ―子ども学芸員(64)―

2012年10月28日 | 子どもの部屋
明治期の羽生で代表されるのは『田舎教師』(田山花袋作)があるが、
もう一つ忘れてはならないものがある。
それは“通見社”(つうけんしゃ)である。
自由民権運動が盛り上がった時代に羽生に作られた民権結社であり、
埼玉県下では最大規模を誇っていた。

通見社を結成したのは、掘越寛介や綿貫来観、中嶋義三郎らの在野の人々である。
掘越寛介の履歴書によると、通見社の結成は「明治9年」と記されている。
比較的早い時期での誕生だった(明治11年の説も有り)。

自由民権運動は、国会の開設や憲法の制定などを求めた運動であり、
通見社もその潮流に乗っていた。
明治13年には、通見社員の“保泉良輔”が右大臣“岩倉具視”と会見をし、
国会開設を求めている。

直接運動に携わらずとも、人々の関心は高かったらしい。
羽生の小学校講堂で演説会を開けば、
「聴衆二百五十余人皆近村ノ農民ナリ其質撲ナルハ聴衆中老幼男女混淆」する有様だった。

通見社に心を寄せる人々は増え、明治14年10月13日付の「朝野新聞」によると、
尽力社員は561名、同意社員は2,579名にのぼり、
合計3,000名を越す人々が政治の季節をもたらしていた。

このほか、通見社の青年の部とも言うべき“本立社”が、
同じ羽生町で結成された。
社員は17、8歳の青年であり、約80名ほどが参加した。
明治14年9月24日に第1回懇親会が開かれ、大いに討論を交わした。
まさに、「老幼男女」の幅広い年齢層の人々が国のことを想い、
活動していたかが窺えよう。

同月26日には、“板垣退助”や“中島信行”が来羽。
羽生町で一泊している。
しかし、自由民権運動は政治運動である。
通見社の盛り上がりを快く思わない者もいた。

明治15年1月13日、掘越寛介は白刀を持った何者かに襲われる。
寛介は持っていた杖で応戦。
右足に怪我をするが命に別状はなく、くせ者も退散した。
寛介は、護衛用の仕込み杖を持っていたらしい。
中に刀を仕込んだ杖である。
それゆえに応戦できたに違いない。

明治15年、埼玉県に“自由党”が結成された。
その事務局は最初熊谷に設置されたが、その後羽生に移ったらしい。
明治15年5月30日付の「東京輿論新誌」には、
「北埼玉郡羽生町自由党埼玉部本局」において、
演説討論会が開催される広告が掲載されているのである。

明治16年7月6日、「自由運動」と称する運動会が、
上村君地内の利根川堤防で開催された。
参加したのは自由党員260余名であり、
剣道や旗取りなどの競技で大いに盛り上がったという。
ただ、運動会に参加した教員が大鯰を官吏に見立て、その首を切り取ったため、
後日罷免されるという騒ぎも起こっている。

このように、活気よく政治の季節をもたらした通見社だったが、
明治17年頃に自然解党したものと見られている。
全国で激化事件が起こり、その鎮圧の波が押し寄せてきており、
通見社の社員も何人かが警察署に拘留されたのだ。
また、自由党も解党となり、
一度区切りをつけるために通見社も解散となったのかもしれない。

その後、通見社を牽引してきた掘越寛介は政治の世界に飛び込み、
国政で活躍している。
また、実業家・教育者としての顔も持ち、
のちの不動岡高校である私立埼玉英和学校の創設に尽力し、
校長も務めるのだった。

一方、通見社の解党後、消息を絶った者もいる。
自由民権運動は、在野の人々の熱き戦いである反面、
散財してしまう者も少なくなかった。
自由民権運動に携わる人々は、豪農や商家が多かったという。
彼らは国の行く末を考え、自らの力で道を切り開こうとしていた。

のちに、国会が開設され、憲法が制定されるが、
彼が目指していたものとは違う内容だった。
だとすれば、彼らの努力は無駄だったのだろうか?
いや、名もなき彼らの運動があったからこそ、
国民による国民のための政治・社会の礎が築かれたと言える。

いま、「通見社」の名を知る者は、地元でも少ない。
かつてもたらされた政治の季節は、遠い過去の出来事となっている。
しかし、私財をなげうってまで、
国のために尽くそうとした人々がいたことを忘れてはならないだろう。
例え遠い昔のことだとしても、
彼らの魂はいまでも生き続けているのだから……

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


埼玉県羽生市

羽生の青縞を見て触ることができる? ―子ども学芸員(63)―

2012年10月27日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」には、
“高機”や“青縞取引図”が展示されている。
北埼玉地方で盛んだった青縞を見る上での資料となる。

その昔、農家の女性は仕事の合間に紺屋で染めてもらった糸を使い、
足袋や野良着など、日常生活で使うものを織っていた。
あくまでも、自分たちが使用するもの用である。

ところが、自分たちの織った青縞を“市”で売る女性が現れる。
北埼玉地方で青縞の市が盛んになったのは、
天明年間と言われる。
最初は騎西の市が賑やかであり、その後加須に移った。
騎西は2と7のつく日、
加須は5と10のつく日に市が開かれた。

その後、青縞の市の賑わいは羽生へ移ってくる。
農家の女性にとって貴重な現金収入だった。
市からの帰りには、子どもにお菓子などを買ってあげたという。

「青縞取引図」には、そんな女性たちが活き活きと描かれている。
すなわち、糸を紺屋さんで染めてもらい、
それを“地機”で織る。
織ったものは問屋へ持っていき、現金に換えてもらう。
往古の女性たちの活気が伝わってくるだろう。

ちなみに、紺屋の職人になるためには長い修行が必要だった。
12、3歳で小僧として入り、一人前になるには20歳くらいまでかかった。
紺屋に年季奉公に出るのは農家の次男・三男が多く、
親の意向も強かったという。
小僧の間はつらい修行に耐えねばならず、
藍建てがうまくいくかが一人前のボーダーラインだった。

一方、青縞を織る“織り子”も決して楽な仕事ではなかった。
賃機が多く、主に女性の仕事だった。

どの家の女性たちも機織りをしており、
自ずと競争意識が芽生えていたらしい。
「どこそこの家は夜遅くまで明かりがついていた」
「誰々の家では何反織った」などと、何かと比較されることが多かったという。
朝5時から、夜の10時~12時頃まで織り続けた。

それでも、できが悪ければ大した収入にはならない。
また、傷物ばかりこしらえる家には注文することもなくなった。
農閑期だけに織る者もいれば、1年中織る者もいた。
こうした縫製技術は母から娘などに受け継がれることになる。
そして、洋装が次第に主流になっていくと、
青縞の縫製技術は時代に適応し、「衣料の町」へと発展していく。

青縞は鮮やかな色をしており、不思議と虫がつかないという。
使えば使うほど味が出てくる。
羽生の紺屋さんはほとんど姿を消したが、
昔ながらの伝統を守っているところもある。

藍染めや青縞もまた一つの文化だ。
企画展Ⅰ「郷土羽生」では、触れる展示として、
手に取ることのできる青縞が置かれている。
それを手に触れれば、青縞の心地よい風合いと共に、
歴史の奥深さを感じることができるかもしれない。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/



羽生の“隠居獅子頭”はちょっと不気味? ―子ども学芸員(62)―

2012年10月25日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」に展示されている“獅子頭”は、
ちょっと怖い。
どことなく化け物じみている。

獅子というと、神社の参道に建っている狛犬をイメージするかもしれないが、
展示中の獅子頭はそれとはほど遠い。
薄暗い中で見たら、きっと不気味だと思う。

実は、この獅子頭は“竜”をモチーフとしている。
羽生で一番古い獅子頭だ。
「隠居獅子頭」と呼ばれ、宝永2年(1705)の銘が刻されている。
かつては上新郷西新田で使われていた。

享保6年(1721)の獅子頭が同じく羽生市内にある。
こちらは隠居獅子頭よりもやや「獅子」ぽい。
とはいえ、我々が見慣れているものとは違うと思う。
文化9年(1812)銘の獅子頭も同様である。

上新郷西新田の隠居獅子頭が竜の形をしているということは、
村人が竜神を意識していたのが窺える。
獅子は神さまであり、五穀豊穣をもたらし、また疫病を退散してくれる存在だ。
竜神が村にやってきて、邪を祓い、実りをもたらしてくれるのだ。
利根川沿いの集落ゆえに、神さまは川からやってきて、
再び川に帰っていくと村人は考えていたのかもしれない。

ところで、「お獅子さま」と呼ばれる行事がある。
「獅子舞」は獅子が3匹だが、
「お獅子さま」は1匹である。
いまでは地域の人が獅子頭を持って集落を回るのがほとんどだが、
かつては実際にかぶって家々をあがっていた。

家に上がるときは土足であり、「アリャリャイ」などの掛け声を発した。
この声は神の到来を意味するものであり、
邪気を祓う効果もあったのだろう。
農業を専業としていた昔の人にとって、
五穀豊穣と疫病除けは切実な願いであり、
お獅子さまにしろ獅子舞にしろ、大切な行事だった。

往古は多くの村々で催されていた獅子舞だったが、
現在は数えるほどしか残っていない。
それらは羽生市指定文化財(無形民俗文化財)になっている。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


下手子林


上村君(かみむらきみ)
最初の写真は桑崎
このほかにも、下村君、尾崎、中手子林、上新郷中新田が羽生市指定文化財になっている

上新郷の“本陣”にはどんな人が立ち寄った? ―子ども学芸員(61)―

2012年10月24日 | 子どもの部屋
上新郷の宿通りは“日光脇往還”である。
天正19年に立てられた「新市」は、5と10の日に開催されていた。
また、江戸初期には“川俣関所”が設けられ、
忍城から派遣された番士が行き来する者を監視していた。

新郷は長く忍藩であったため、
羽生市域の村々とは少し特異な歴史を持っているかもしれない。
じっくり散策すれば、意外な発見が数多くあるだろう。

上新郷には、日光社参の大名や幕府役人たちが泊まる“本陣”が設けられていた。
実は、この本陣にまつわる資料が、企画展Ⅰ「郷土羽生」に展示されている。
すなわち、「富士山の図」「徳川斉昭の和歌」「佐藤延昌の箱書」「関札」である。

天保14年(1843)4月10日、徳川斉昭は日光社参のため江戸の「礫川の邸」を出立。
桶川の宿に泊まったあと、新郷宿の本陣に到着したのは正午だった。
斉昭一行は本陣で休憩を取る。
そのとき斉昭の目に映ったのは、地袋に描かれた「富士山の図」だった。

天保14年4月8日に「晴真」という者が描いた絵で、
斉昭らが休憩に立ち寄るのを見越して筆を執ったのかもしれない。
斉昭自身、そう感じたらしく、
「我ための設にや有むと思ひ」和歌を詠んだという。

 利根川の水は鏡か真なる
 思ひするかの不二のうつし絵

徳川斉昭は力強い字で記し、本陣を出立した。
無事に日光社参を済ませた斉昭ら一行は、帰路に再び上新郷の本陣に立ち寄る。

すると、本陣の主が徳川斉昭の和歌を収める箱を用意していた。
その箱に記す書を求められたので、斉昭の家臣“佐藤延昌”(さとうのぶまさ)が筆を執り、
和歌を詠んだ経緯を書き記した。
これが「佐藤延昌の箱書」である。

のちの時代、忍藩の国学者だった“黒沢翁満”(くろさわおきなまろ)は、
本陣が所蔵する徳川斉昭の和歌に感激する。
このような田舎の家に斉昭の和歌という宝があり、
「ふたつなき家のたからとあふけこの山より高き君の恵を」と、
翁満自身が和歌を書き記すのだった。

関札は、「紀伊殿宿 四月廿日」と墨字で書かれている。
「紀伊殿」とは徳川御三家の一つであり、
徳川治貞と比定される人物が本陣に泊ったときに掲げられた札である。
本陣は、帯刀や名字を名乗ることを許されていた。

宿泊のときは、この関札とともに高張提灯を掲げ、番手桶を三角形に積み重ねると、
砂盛をして大名や役人たちを迎えた。
本陣の主は裃姿で村境まで出迎え、
駕籠のわきについて案内したという。

このように、上新郷は宿場町としての歴史が色濃く残っている。
宿場町として栄え、大名たちが通るために松も植えられた(勘兵衛松)。
時代と共に失われたものもあるが、
その名残や面影を見ることは可能だろう。

ちなみに、この地区は人形操(にんぎょうあやつり)が盛んで、
村の娯楽で親しまれていた。
どの家も人形を操ることができ、
「操」という小字が残っているほどだ。
その人形や技が現存していれば伝統芸能として貴重だったのだが、
残念ながら残っていない。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

江戸時代の羽生の町場で何が立った? ―子ども学芸員(60)―

2012年10月22日 | 子どもの部屋
慶長19年(1614)に羽生城が廃城となり、
羽生領は幕府領になったり、旗本や各藩の城主の支配を受けたりと、
かなり複雑な歴史を刻んでいる。

羽生の町場は城が廃されてしまったため、「城下町」ではなくなった。
“町”として発展していくことになる。
『新編武蔵風土記稿』には、
館林や加須への人馬を送る「宿駅」であったと記されている。

城下町の名残か、町の出入り口には“木戸門”が設けられていた。
かつて番士がそこに詰めていたのか、「番屋跡」と呼んでいた。

現在のプラザ通りと松原通りが古道である。
プラザ通りは道が拡張しているが、往古はもっと狭かった(路幅78間)。
横町通りがあるが、これは羽生城が廃されてから作られた道だろう。
「城上横町」とも呼ばれ、城橋を渡り、羽生城へ向かって伸びている。

ちなみに、葛西用水路は万治3年(1660)の開削なので、
羽生城時代には姿形もなかったことになる。
前掲書では、城跡を「城中分」と呼び、城下町を「町分」と言ったという。

羽生の町場では、毎月4と9の日に市が立っていた。
木綿類が売り買いされており、明治期になると本格的に「青縞の市」となった。
文久4年(1864)に作成された「宗門人別改帳」には、
農業以外に携わる職業が記されていて興味深い。

例えば、町場村58戸の内、酒造を営んでいるのは2戸、
すし屋が1戸で醤油造商が2戸。
とうふ屋1戸、足袋商1戸、餅菓子商1戸などと、いろいろな商売があった。
農民が、農業以外に商いや職人業に携わっていることを“農間余業”と言う。

もちろん、羽生だけではない。
埼玉県においては、街道筋に位置する集落に農間余業率が高い傾向にある。
例えば、粕壁宿(春日部)では76.7%、
栗橋宿では69.7%もの農民が何らかの余業に携わっていた。
騎西町場は80.3%、加須では88.9%もの率に跳ね上がる。

妻沼村(現熊谷市)は約50%の余業率だが、
中でも居酒屋が多い傾向にあった。
「武蔵国幡羅郡妻沼村外廿五ヶ邑組合諸商ひ渡世向取調書上帳」によると、
湯屋や髪結はどの村にも必ず存在し、
職人では大工などの建築関係者が多いことがわかる。

江戸時代の地方というと、農業に従事する「百姓」のイメージがあるかもしれないが、
必ずしもそうではなかったことが窺えるだろう。
いろいろな商売人や職人が存在し、貨幣経済が発達していた。
最も、農間余業は町で盛んであったが……

幕府はこうした農間余業を調査し、
誰がどんな余業に携わっているのかを把握した。
また、文政の改革以降は風俗取り締まりの一環として、
髪結いや湯屋、酒食の余業を禁止する動きに出るのだ。

近世における羽生の町場では、「宗門人別改帳」に見える余業者くらいで、
さらに詳しい実態を知る資料はいまのところほとんどない。
ただ、六斎市が立っていたので、人や物の行き来は盛んにあったのだろう。
市を守る神さまは八雲神社である。
江戸時代は“牛頭天王社”と呼ばれていた。
八雲神社に変わったのは明治期に入ってからのことである。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


八雲神社によぎる怪しい人影(埼玉県羽生市)

※最初の写真は、現在のプラザ通り

おいしい羽生のお米に隠されているものとは? ―子ども学芸員(59)―

2012年10月20日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」は、
近世を「羽生の町場」「新郷宿」「新田開発」「藍染め」「獅子舞」の5つのテーマで分けている。

現在、実りの秋を迎えているが、
昔から田んぼの風景が広がっていたわけではない。
人の手が加わっていない原野もあれば、畑が広がっている場所もあった。

現在の羽生市域には、「新田」の名のつく地名がある。
喜右衛門新田、与兵衛新田、西新田、中新田、下新田などである。
文禄3年(1594)、新郷で二俣に分かれて流れていた利根川を締め切ったことにより、
羽生市砂山は開墾が進むようになったと言われている。

確かに、『新編武蔵風土記稿』に記載された小名は、
「白石新田」「新田前」と田んぼに関する地名が目立つ。
現在の会の川が利根川の本流だった頃、たびたび水害に見舞われていたのだろう。
小松の古墳群が埋没したのも、洪水のすさまじさを物語っている。

ただし、文禄3年当時はすでに本流ではなく、
会の川の締切はさほど難工事ではなかったことが想像される。
伝説では、修験者が自ら人柱になったため、工事が成功したとあるが、
これは後世に作られた話である。

新郷村にかつてあった西福寺のお坊さんが川の堤をよく見回り、
無事に工事が終わったため、屋敷を与えられたという文書がある。
ここから尾ひれがついて人柱伝説になったのだろう。

羽生市域は、川沿いは土砂のため土地が高く、
中央に行くほど湿地帯が広がっていた傾向があった。
とはいえ、それほど単純な地形ではないのだが、
利根川の影響を受けていることは間違いない。
例えば、中世に羽生城が築かれたのは、広大な沼を天然の堀としたためである。

自然堤防などで土地が高いところは、用水を引くのが難しい。
ゆえに、畑が多い傾向にあった。
逆に、湿地帯に広がるところでは稲作に適しており、田んぼの割合の方が多かった。
こうした傾向は、騎西の正能村にも同様のことが言える。

自然堤防上の村々は水不足に悩まされ、
低地の村々は排水に頭を痛めていた。
同じ羽生領でも悩みの種は違っていたことになる。

寛文6年(1666)に稲子村で用水が引かれたのは、
水不足を補うためである。
この稲子用水は利根川に取り入れ口を設け、直接取水していた。
大河から直接水を引き入れることは実は画期的なことで、
万治3年(1660)に開削された葛西用水路も、直接の取水だった。

逆に、低地の村々は悪水路を掘り、排水をすることで開発を行った。
宮田落堀や岩瀬落堀などが挙げられる。

なお、興味深いのは、羽生領の村々は
近世初期ですでに新田開発がある程度終わっていたことだ。
他地域が時代を経るごとに石高を上げているのに、
羽生領はさほど変わらない。
逆に石高が減っている村もあるほどだ。
この傾向は、羽生領の特徴の一つと言える。

また、羽生領の多くの村では「掘り上げ田」と呼ばれる技法が見られた。
沼の泥を掘り上げ、その上で稲作をするというものである。
航空写真で見ると、田んぼが複雑な模様のように見える。
羽生の大型ショッピングモールの三階に、古い時代の航空写真が展示されているが、
掘り上げ田がくっきりと移っている。

この掘り上げ田は時代と共に消滅した。
現在、羽生市域で見られるのは三田ヶ谷だけである。
すでに稲作は行われておらず、「宝蔵寺沼ムジナモ自生地」の名に変わり、
食虫植物ムジナモの揺りかごになっている。

羽生のお米はおいしい。
ムジナもんの仲間である“イナゴージャス”は羽生のお米が大好きだ。
このお米を作る田んぼにも、いろいろ歴史がある。
企画展「郷土羽生」では、喜右衛門新田耕地絵図が展示されている。
かつてはいかに沼が多かったかがわかるだろう。
田んぼの歴史に想いを馳せたとき、
お米の味がいつもと違っては感じられないだろうか?

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


イナゴージャス

※最初の写真は埼玉県羽生市秀安の田園風景

江戸時代初期の羽生領は誰が治めていた? ―子ども学芸員(58)―

2012年10月17日 | 子どもの部屋
天正18年(1590)の徳川家康の関東入府以降、
羽生城は大久保忠隣に宛われた。
『寛政重修諸家譜』には羽生領2万石とあるが、
『武徳編年集成』には1万石とあり、実際には後者の数字と捉えていい。

大久保忠隣は羽生城主になったとはいえ、
普段は江戸に詰め、一度も羽生領には足を運ばなかった。
忠隣の父忠世が亡くなったのちはその遺領を継ぎ、小田原城主も兼ねていた。

羽生領経営を担ったのは、木戸忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”である。
軍蔵は出家して“不得道可”(ふとくどうか)と名乗った。
道可は羽生城代として羽生領を治めることとなった。

亡き主君を追福するため、源長寺を再興。
そのため、同寺には不得道可とその妻の肖像画が現存している。

『石川正西聞見集』によると、道可は年貢の取り立てが厳しかったようである。
領地を見回り、田畑の善し悪しをよく見、
また坪計りにして年貢率を決めていた。

不得道可が亡くなったのは、文禄4年(1595)2月18日だった。
道可亡きあと、別の者が城代として羽生領経営に従事することになる。
羽生領経営を示す古文書の中には、
桑原九兵衛、佐伯図書助、乗松内記、天野与大夫、徳森伝次の名が見える。

そんな中、やや異端児的な存在の男がいた。
その男の名は“大久保彦左衛門忠教”(おおくぼひこざえもんただたか)。
のちに『三河物語』を著し、天下の御意見番として名高い人物である。

江戸時代初期、大久保彦左衛門は羽生領にいた。
城主でも城代でもない。
ただ、羽生領の内、川俣・発戸・常木の2千石を領していた。
常木の雷電神社にかつて「大久保彦左衛門の二俣の杖」があったのはこのためである。

なお、羽生城家臣で羽生領に残った酒井家と、烏帽子親子の関係を結んだ。
由緒書によれば、酒井忠治は徳森伝治の烏帽子子となったのち、
大久保彦左衛門から「彦」の字をもらい「彦兵衛」と名乗ったとある。
彦左衛門の羽生領在住を伝える数少ない資料の一つだ。

大久保忠隣や彦左衛門は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のときに、
上田城攻めに参陣している。
このとき、本多正信との関係をこじらせていることが、
のちの改易の伏線となったと言われている。
羽生領の領民もこの上田城攻めにかり出されたと思われるが、
それを伝える資料はいまのところ発見されていない。

慶長19年(1614)、大久保忠隣は突然改易になってしまう。
徳川家に忠義を尽くしてきた大久保家がなぜ改易の憂き目を見たのか、
現在でもはっきりした理由はわかっていない。
本多正信の陰謀との噂もまことしやかに囁かれている。

忠隣の改易により、羽生城は廃城となる。
戦国時代から羽生領の拠点として存在した城は、
城主の改易をもって幕を閉じたのだった。
羽生領は幕府領になったのち、複雑な支配体制へと移っていくのである。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

忍城が水攻めを受けていたとき羽生城は? ―子ども学芸員(57)―

2012年10月14日 | 子どもの部屋
天正2年(1574)の羽生城自落をもって、
広田・木戸氏の時代が終わる。
羽生城兵は上杉謙信に引き取られ、
その中には“木戸元斎”や“菅原為繁”も含まれていた。

広田・木戸氏時代の終焉のあと、
羽生領を接収したのは忍城主成田氏である。
羽生城には、忍城から派遣された者が入城した。

天正2年の羽生城自落と同じときに関宿城も陥落し、
利根川を狭間に衝突した上杉と北条の戦いは、一応の決着を迎えた。
言い換えれば、羽生領をはじめとする利根川ラインの諸城は、
合戦の最前線からそれたことになる。

後北条氏は北関東へと軍勢を進め、合戦の舞台を北へと移していく。
したがって、羽生城が戦渦の中心に巻き込まれることはなくなった。

再び暗雲がたちこめたのは、天正18年(1590)になってからのことだ。
天下統一を狙う豊臣秀吉が関東平定に乗り出し、
小田原城を本拠とする後北条氏を攻撃。
大軍を率いて小田原城を包囲した。

関東には、後北条氏に属す支城が多数あった。
外堀を埋めるがごとく、秀吉と徳川家康の別働隊は関東諸城に進攻。
主立った城を次々に落とした。

その別働隊の一つである石田三成の軍勢は、上州館林城を難なく攻略する。
関東の城などたいしたことはない。
三成はそう思ったかもしれない。

次に向かったのが武州忍城だった。
羽生城には矛先が向けられていない。
なぜか?
羽生城は忍城の支城だったからである。

北武蔵で独自の勢力を誇るのは忍城主成田氏長であり、
忍城の攻略なくして武蔵国の平定はない。
支城の羽生城を攻撃したところで、トカゲのシッポを叩くようなものだ。
頭を潰さなければ意味がない。
ゆえに、成田氏の本拠とする忍城に攻め寄せたのだ。

このとき羽生城を守っていたのは、“向用斎”という者だった。
「成田氏系図」によると、向用斎は羽生城を捨て、
忍城に入って石田三成の軍勢と戦ったという。
これを裏付けるように、天正18年に比定される5月27日付の天徳寺宝衍の書状には、
「彼(羽生)城代衆覚悟相違之由無是非候」とある(「松平文庫」)。

逃げたわけではない。
支城を捨て、本城にて敵を迎え討とうとしたのである。
この天正18年の忍城攻城戦は、石田三成の水攻めでよく知られている。
大軍をもって攻め寄せても、忍城は落城を許さなかった。

しかし、本城である小田原城が豊臣軍の圧倒的な物資に士気を失い、降伏。
本城が落ちて戦い続けたところで希望はない。
忍城も開城を余儀なくされた。
降伏ではなく「開城」というところに、武蔵武士の強さと意地が見て取れるだろう。

後北条氏の関東統一の夢は露と消え、
忍城主成田氏も領地没収となった。
関東は新たに徳川家康が入府し、江戸城を本拠に新たな時代を迎えることになる。

それは、羽生領の成田氏時代の終焉を意味していた。
新たに羽生領を与えられたのは、徳川家康の重臣“大久保忠隣”だった。
ここから大久保時代が幕を開けるのである。

※最初の写真は忍城(埼玉県行田市)

羽生にも“お城”があった? ―子ども学芸員(56)―

2012年10月13日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生」にて、
羽生城主“木戸忠朝”直筆の古文書が2通展示されている。

中世において、羽生には「羽生城」が存在していた。
その存在を疑問視する声もあるが、
天正6年の木戸元斎願文の中に「羽生城」と明記され、
城の回復を願っていることから、城が存在していたことは間違いない。

「城」というと、天守閣を想像するかもしれない。
しかし、中世における城は軍用施設の性格が強く、
平地に築かれた平城は、沼や深田を利用して守りを固めていた。

ゆえに、羽生城に天守閣はなく、石垣も存在していなかった。
場所は、古城天満宮(東5丁目)の付近と考えられているが、
城の遺構は完全に消失し、発掘調査もされていないため、
特定することはできない。
沼も干拓され、土塁は切り崩され、地元の人でも羽生城の存在を知らない人は多い。

しかし、古文書や文献資料には、羽生城が登場する。
戦国時代末期の関東は、
小田原城の“後北条氏”が急速に力を伸ばし、関東統一を図っていた。
そこに「待った」をかけたのが“上杉謙信”である。
反北条の関東将士たちの要望を受け、越後から関東に出陣。
このときから「後北条氏vs上杉」の構図が成り立った。

羽生城は上杉謙信に属す城だった。
城主は“広田直繁”(ひろたなおしげ)と“木戸忠朝”(きどただとも)。
名字は違うが、同じ父母から生まれた兄弟である。

後北条氏と上杉謙信の戦いは、次第に前者が押していった。
毘沙門天の化身と言われる謙信はその武を天下に轟かすのだが、
関東諸将の離反が相次ぎ、関東平定を有利に進めることができなかった。

忍城の成田氏や深谷城の上杉氏、岩付城の太田氏など、
次第に後北条氏に組み込まれていった。
ところが、羽生城だけは謙信から離反しない。
決して大きな城ではなく、強大な軍事力を有すわけではないのに、
後北条氏に寝返ることはなかった。
ここが、羽生城の魅力でありミステリーとも言えよう。

武蔵国最後の上杉方の城としてねばりにねばった羽生城だったが、
天正2年(1574)には維持が望めず、謙信の手によって破却された。
城兵は謙信に引き取られることになり、
城主木戸忠朝はそれ以前に息を引き取っていたと見られている。

現在展示中の木戸忠朝の古文書は、
永禄8年(1565)と天正2年(1574)に書かれたものである。
前者は、正覚院の僧が勝手に還俗することを禁じた内容であり、
後者は、同寺に城が固く守られるよう願った判物だ。

木戸氏は武家歌人として知られ、忠朝もおそらく歌人だったのだろう。
その筆の運びはかなり流麗だ。
じっくり見てほしい。
その古文書の前に木戸忠朝が実際に座っていたかと思うと、
400年以上も前に生きた羽生武士の息遣いが伝わってこないだろうか?

残念ながら、忠朝の肖像画は残っていない。
どんな容姿をしていたのか定かではなく、
それを示す文献資料もない。
想像をたくましくすれば、その文字からして、
優しくて気品あふれる人物だったのかもしれない。
「いや、そうは思わない」と言う人がいてもいい。
これは勝手な想像なのだから。

企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」は、
10月28日(日)まで開催している。
キミは、戦国時代の羽生城主の前で何を感じるだろうか?

羽生市立図書館・郷土資料館HP
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

羽生城主が奉納した仏像は? ―子ども学芸員(55)―

2012年10月11日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」で、
中世コーナーに仏像が展示されている(10月28日まで)。
“木造阿弥陀如来座像”である。
もう少し簡単に言えば、座っているあみだ様の仏像だ。

熊野神社の本地仏として小松寺に奉納されたもので、
現在は羽生市指定文化財になっている。
『新編武蔵風土記稿』によると、このあみだ様の光背には文字が刻されていたが、
現存する光背には銘文がない。

光背の銘文によると、
「月窓正吉」とその息子の「広田式部大輔直繁」が願主となって奉納したという。
月窓正吉は“木戸範実”、
広田式部大輔は羽生城主“広田直繁”と比定できる。

このあみだ様がいつ造られたのか、その年号は刻されていないが、
天文5年(1536)頃と考えられている。
「小松神社由緒」によると、天文23年に小松神社の社殿を修理し、
あみだ様と十一面観音を「再彩ス」とある。
なお、十一面観音は天正12年(1584)に再造られた。

小松神社は羽生領の総鎮守であり、
在地的基盤の薄い木戸・広田氏は宗教施設に働きかけることで、
人心掌握と領主としての基盤を固めようとしていたのだろう。

なお、小松神社の別当小松寺には修験者がおり、
木戸・広田氏との何らかの関係があったと思われる。
修験者は諸国を巡り歩き布教活動をする一方で、
各国の情報収集にも従事していたからである。

ところで、中世に造られた仏像は、羽生市内にはいくつか現存する。
最古の仏像は木造薬師如来坐像で、1367年に造られた。
これも羽生市指定の文化財である。

仏像は信仰の対象である一方で、政治的な匂いのするものもある。
「仏像」と一言で言っても、その世界はかなり深い。
何となく年寄りくさいイメージがあるかもしれないが、
仏像が大好きな若い女性もいるそうだ。
パワースポットとしてお寺を巡り歩いている男子・女子も多い。

現在、羽生の郷土資料館で展示されているあみだ様は一般的なものかもしれない。
でも、その前に立って見つめると、
やさしい声で話しかけてはこないだろうか。
ぼくはまだ聞いたことがないけれど……

板碑の裏には何が隠れている? ―子ども学芸員(54)―

2012年10月10日 | 子どもの部屋
羽生の中世を物語る資料として“板碑”がある。
青石塔婆・板石塔婆とも呼ばれ、
企画展Ⅰ「郷土羽生」では後者の名称が使われている。

板碑は死者を供養したり、
死後の冥福を祈るために生存中に建てたりする供養塔である。
板碑の下から蔵骨器(骨壺)が出土するときもあり、
墓標として使われることもあった。

昭和56年に出された埼玉県教育委員会による報告書によると、
県内で板碑と確認されたのは、2万201基だった。
その内、羽生では233基であり、隣接する行田市は341基、
加須市は271基である。(いずれも合併前の旧市域)

気を付けて町を散策してみると、板碑は思いのほか簡単に見付かると思う。
路傍や墓地に建っていることもあれば、
神社の境内に転がっているものもある。
青い色の石で、これを緑泥片岩と言う。

板碑には、「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」といった文字を刻んだり、
仏さまの画像を刻すもの、
あるいは仏や菩薩を意味する種子で表すものがある。
その下に年号や、建てた人の名前、真言が刻まれていたりと、種類はまちまちだ。
口で説明するより見た方が早い。
一見は百聞にしかずだ。

羽生で一番古い板碑は手子林にある。
胎蔵界大日如来の種子が刻されている。

板碑から感じ取れるのは、当時の人々の祈りである。
平安時代から戦国時代にかけて造られ、南北朝時代に量産された傾向がある。
この背景には仏教の広がりと定着があった。
いわば、板碑からは信、当時の人々の信仰の一端が垣間見られるだろう。

上記の報告書によると、2千基以上もの板碑に真言が刻されている。
その多くが光明真言。
このことから、板碑が造られた背景として、
寺院の僧侶による影響が指摘されている。

その寺院として注目されるのが、栃木県足利市にある“鶏足寺”である。
鎌倉末期から室町時代にかけて大きな勢力を持ち、
その影響力は、下野国のみならず、上野国や武蔵国にも及んでいた。

羽生で鶏足寺と関連を持っていたのは、小松寺、正覚院、永明寺、延命寺である。
『鶏足寺世代血脈』には、北武蔵の寺院名が多く見られ、
第29世尊誉は上野国と武蔵国を巡り歩いたらしい。
こうした鶏足寺との関連と影響により、板碑が造られていったのかもしれない。
なお、最近の研究では、「築道型」と呼ばれる形式が示唆され、
真言宗の分派の一つ「慈猛意教流」の影響下にあったことが指摘されている(※)

ちなみに、鶏足寺の所在地は、
『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三の生まれ故郷でもある。
一度、夜に訪れたことがあったが、
今度は明るいときに行きたい。

現在開催中の企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」では、
3基の板碑が展示されている。
いずれも阿弥陀如来の種子が刻されている。

単なる石の板かもしれない。
供養塔と聞いて気持ち悪がる人もいる。
でも、中世の人々の祈りや信仰が板碑から垣間見られると共に、
仏教の全国的な広がりや、鶏足寺の影響といった背景に思いを馳せれば、
当時の時代の息吹が聞こえてはこないだろうか。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

※諸岡勝「鎌倉時代末期の板碑の一事例―「築道型」の分布と特性―」(『熊谷市史研究』第3号)

埼玉から“インディ・ジョーンズ”が生まれる? ―子ども学芸員(53)―

2012年10月08日 | 子どもの部屋
現在羽生の郷土資料館で開催中の「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」は、
公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団(以下「事業団」)との共催である。

事業団は埼玉県熊谷市船木台にある。
考古好きにはたまらない施設だろう。
これまで、埼玉県で発掘された土器や埴輪などの資料が数多く保存され、
展示も見ることができる。

発掘調査の成果を示す“報告書”も揃っており、
考古の世界に触れたり調べたりするには最適の施設だ。
ぼくは考古の専門ではなく、詳しいことはわからないのだが、
事業団で考古の風に当たるのは気持ちがいい。

ぼくの興味の対象は、どちらかというと“物”より“人”にある。
だから、土器や埴輪もいいのだけど、
発掘調査や整理作業に携わる人たちに興味がわいてしまう。
幼い頃によく見た「インディ・ジョーンズ」の影響もあるかもしれない。

考古に興味を持ったら、事業団にも足を運んでみよう。
きっと、その世界の奥深さを知ることができるはずだ。

なお、事業団では発掘現場での見学会も頻繁に行っている。
実際の現場の空気を触れることで、
机上では味わえないものがきっと得られる。
事業団のホームページ上で情報を更新しているから、
興味のある人はこまめにチェックをされたい。
幼い頃からこの世界に触れていたら、
日本版のインディ・ジョーンズになれるだろうか?!

※最初の写真は埼玉県埋蔵文化財調査事業団の建物(埼玉県熊谷市船木台)

羽生の小松に眠るミステリーは? ―子ども学芸員(52)―

2012年10月07日 | 子どもの部屋
羽生の小松には不思議なものが眠っている。
それは、地中に埋まった古墳である。

古墳というと、鍵穴のような形をした塚や、
丸く盛られた土を連想するかもしれない。
でも、小松の古墳は姿形も見えない。
完全に地中に埋まっている。

昭和の終わり頃、水道管工事で古墳の石室が偶然発見された。
急遽、調査が始まる。
古墳が埋まってしまったのは、たび重なる利根川の洪水と、
関東造盆地運動と呼ばれる地盤沈下が原因とされた。

近場だと、行田の酒巻古墳群が埋没しているが、
小松の古墳は地下3メートルから石室がされた。
だいぶ深い。
完全に埋まっている。

偶然発見された石室からは、太刀や装身具が見付かった。
誰が葬られたのかはわからない。
昔、この辺りを治めていた豪族だろうか。
古墳が埋没しているために、前方後円墳なのか円墳なのかも不明だ。

そんなミステリアスな小松埋没古墳の遺物が、
現在羽生の郷土資料館で開催中の企画展で展示中だ(10月28日まで)。
太刀を見ると、行田の稲荷山古墳から出土した鉄剣を連想するが、
文字は発見されなかったらしい。
展示中の装身具からは、往古に生きた人間が浮かび上がってくるようだ。
発見された石室の写真もパネルで展示されている。

小松の埋没古墳が見付かっているのはまだ1基だけである。
ほかにもまだ眠っている可能性がある。
そこにはどんな古代ロマンがあるのだろう。
完全に埋まっているというミステリアスなところもいい。
そんな古墳が郷土にあることを知った上で展示を見ると、
羽生のあちこちを探検したくなってはこないだろうか?

※最初の写真は小松(埼玉県羽生市)
羽生市立郷土資料館
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/