昭和16年に施行された“金属類特別回収”によって、
各家庭から金属類が回収された。
太平洋戦争によって不足する軍需物資を少しでも得るためだ。
その動きは、宗教施設も無縁ではなかった。
特に対象となったのは“梵鐘”(ぼんしょう)である。
12月31日にお寺で突くあの鐘だ。
各地域に建つ寺院の梵鐘は、容赦なく供出された。
その梵鐘は江戸時代に造られたものがほとんどで、
一番古かったのは、慶安元年(1648)造の祥雲寺にあったものだった。
冨田勝治氏の羽生城研究のきっかけとなった正覚院の梵鐘(1679)も供出された。
冨田氏は、鐘が連れ去られる前に、そこに刻された銘を全て書き写したという。
同寺に鐘楼だけが残っているのはそのためである。
現在の羽生市域で供出された梵鐘は24個だった。
羽生の地を離れ、鐘ではない別の何かに換えらたはずだ。
中には、お地蔵さまも供出された。
恋をするとして知られていた上町のお地蔵さま(市民プラザの裏)も、
戦争にとられてしまった。
そのお地蔵さまは石ではなく、青銅でできていたのだろう。
ゆえに、羽生を去っていった。
羽生市名(みょう)の延命寺には、かつて大きな仏像が外に建っていた。
これもあえなくこれも供出。
また、不動院(加須市)の境内に建っていた“斎藤珪次”の銅像も供出された。
現在は土台だけが残っている。
紙資料のみならず、さまざまな歴史的資料が失われていった。
梵鐘や仏像は何に換えられ、その後どんな道を辿っていったのだろう。
日本全国から集めなければ軍需物資が足りなかった日本が、
どんな戦争の結末を迎えたかは知っての通りである。
豊富な軍需物資を有するアメリカに敗北した。
終戦後、お寺では新たな梵鐘が造らはじめた。
しかし、その鐘を突けば、
戦争で供出されなければならなかった鐘たちの悲しみが響いている。
各家庭から金属類が回収された。
太平洋戦争によって不足する軍需物資を少しでも得るためだ。
その動きは、宗教施設も無縁ではなかった。
特に対象となったのは“梵鐘”(ぼんしょう)である。
12月31日にお寺で突くあの鐘だ。
各地域に建つ寺院の梵鐘は、容赦なく供出された。
その梵鐘は江戸時代に造られたものがほとんどで、
一番古かったのは、慶安元年(1648)造の祥雲寺にあったものだった。
冨田勝治氏の羽生城研究のきっかけとなった正覚院の梵鐘(1679)も供出された。
冨田氏は、鐘が連れ去られる前に、そこに刻された銘を全て書き写したという。
同寺に鐘楼だけが残っているのはそのためである。
現在の羽生市域で供出された梵鐘は24個だった。
羽生の地を離れ、鐘ではない別の何かに換えらたはずだ。
中には、お地蔵さまも供出された。
恋をするとして知られていた上町のお地蔵さま(市民プラザの裏)も、
戦争にとられてしまった。
そのお地蔵さまは石ではなく、青銅でできていたのだろう。
ゆえに、羽生を去っていった。
羽生市名(みょう)の延命寺には、かつて大きな仏像が外に建っていた。
これもあえなくこれも供出。
また、不動院(加須市)の境内に建っていた“斎藤珪次”の銅像も供出された。
現在は土台だけが残っている。
紙資料のみならず、さまざまな歴史的資料が失われていった。
梵鐘や仏像は何に換えられ、その後どんな道を辿っていったのだろう。
日本全国から集めなければ軍需物資が足りなかった日本が、
どんな戦争の結末を迎えたかは知っての通りである。
豊富な軍需物資を有するアメリカに敗北した。
終戦後、お寺では新たな梵鐘が造らはじめた。
しかし、その鐘を突けば、
戦争で供出されなければならなかった鐘たちの悲しみが響いている。