クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主は河越合戦前後に何をしていた?

2013年04月25日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城主“広田直繁”と、その弟の“木戸忠朝”が歴史に初めて名を現すのは、
天文5年(1536)のことだ。
小松神社の末社に奉納した三宝荒神御正体に、
両者の名が刻されている。

しかし、上杉謙信が関東へ進攻する永禄3年(1564)まで、
信憑性のある史料に2人の名は登場しない。
天文14年から起こった河越合戦にも参陣したと思われるが、
どこでどう動いたのかは謎に包まれている。

河越合戦では、古河公方・両上杉氏連合軍に加わっていたのだろう。
羽生領内にある正覚院の住職“重誉”は、
古河公方足利晴氏に戦勝祈祷の目録とお茶を送っており、
その礼状が同寺に届いている。

“北条氏康”の夜襲によって連合軍は瓦解しており、
直繁・忠朝兄弟も這々の体で羽生に帰ってきたに違いない。
その後、平井城へ敗走した“上杉憲政”も後北条氏に攻められ、
越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼らざるを得なかった。

古河城にて後北条氏に反旗を翻した足利晴氏・藤氏父子もあえなく鎮圧され、
相模の秦野へ幽閉の身となる。
古河公方の宿老簗田氏も足利義氏のために関宿城を明け渡し、
古河城への移城を余儀なくされた。

直繁・忠朝兄弟もその流れに逆らえず、
後北条氏に従属したのだろう。
ただの従属ではない。
羽生城には、後北条氏か忍城主成田氏の家臣が派遣され、
彼らの政治的自立権は削がれたのである。

史書や言い伝えによると、この時期に羽生城が築城され、
大天白神社が城主の奥さんの安産祈願のために勧請されたという。
これらを鵜呑みにはできないが、
城から追放されたわけではなかったのだろう。
『小田原記』が記すように、「家老」の立場だったのかもしれない。

まるで飛ぶ鳥落とす勢いの後北条氏だったが、
北から強大な敵がやってくる。
その者こそ、長尾景虎ことのちの上杉謙信である。

謙信の関東進攻は十分に用意されてのことだった。
将軍足利義輝から大義を得、上杉憲政の失われた領地を回復し、
謙信の到来を望む反北条の国衆たちの声に応じての出陣である。
直繁・忠朝兄弟も、そのときを虎視眈々と狙っていたのかもしれない。
かくして、城主の「羽生豊前守」が鷹狩りに出たとき、
両者は羽生城を乗っ取るのである。

 成田旗下羽丹生城主羽生豊前守が両家老、河田の藤井修理、志水の木戸源斎と云者あり、
 木戸源斎は輝虎へ心を寄せ、豊前守が鷹野に出し跡に城を乗取、
 羽生藤井数度合戦ありしかとも、二人終に打負牢人として成田を被頼、
 源斎には輝虎加勢して成田と合戦数度に及ぶ
 (『小田原記』)

羽生豊前守は城を取り戻すことはできなかった。
忍城主成田氏を頼るのだが、
明るいときを避けて夜の入城だったのだろうか。
忍には「殿様通り魔」という伝説が伝わっている。

羽生豊前守の退出によって、直繁・忠朝は政治的自立権を回復する。
成田長泰はこの事件に腹を立てたに違いないが、
成田氏はすぐに後北条氏から離反し、上杉方への従属を表明した。
ゆえに、羽生城乗っ取り事件については泣き寝入りか、
上杉謙信の裁断に期待するしかない。

しかし、謙信は直繁・忠朝兄弟の知行地を認めた。
兄弟にとっては、乗っ取り事件の肯定であり、
謙信の軍事的保証によってその政治的自立権がを回復したのだった。

成田長泰にとっては当然面白くない。
とはいえ、面と向かって不満を言うわけにはいかない。
両者の間に埋められない溝が広がった瞬間でもあった。

永禄3年に関東へ進攻した謙信は、
翌年には11万5千余騎もの大軍を引き連れて小田原城を包囲。
そのとき、第2陣に布陣していたのは忍勢や羽生勢であり、
味方同士として小田原城を攻めたのである。
いずれ、宿敵になる予感をはらみながら……
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羽生城主広田直繁は“神社”に始まり“お寺”で終わった?

2013年04月11日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城主広田直繁は、羽生領の“養命寺”を再興した。
ときに永禄6年のことである。
養命寺は現在の永明寺だが、
読み方はいまも「ようめいじ」である。

広田直繁の発給文書を見ると、
同寺はかつて「赤岩光恩寺」の末寺だったことがわかる(「武州文書」)。
光恩寺は現在の群馬県千代田町に所在する高野山真言宗のお寺だ。
「赤岩山」と号し、不動明王を本尊とする。

寺社への働きかけは、
在地的基盤の弱さを埋めようとする直繁の政治的活動でもあったのだろうか。
広田直繁が初めて歴史に名を現すのは天文5年(1536)に、
小松神社の末社に奉納する三宝荒神御正体である。
ぼくはこの御正体に、羽生領を背負っていく直繁の決意を感じ取る。

このほか、直繁は父と共に小松寺に阿弥陀如来を奉納。
『新編武蔵風土記稿』には、その像と光背に刻された銘が載っている。
しかし、残念ながら光背は失われ、その銘をいまに見ることはできない。

永禄9年(1566)には、正覚院に対して僧の勝手還俗を禁じる文書を発給している。
上杉謙信から「五十キ」の軍役を任ぜられ、
またその忠節は他に比類がないと言わしめた直繁は、
武蔵国における上杉方の拠点として義を貫いていた。

その働きが認められ、館林城を新たに与えられる。
武蔵国から上野国への移城だった。
しかし、ここで事件が起こる。
館林土橋村の善長寺において会合が開かれているとき、
長尾顕長率いる七騎衆に襲われて、討ち死にしてしまうのである。

お寺を襲撃したのは、館林城が堅固だったからだろう。
三宝荒神御正体の奉納から始まって、宗教施設への働きかけを行ってきた直繁は、
上州のお寺にて死去してしまう。
直繁は、このような最期を予想していただろうか。

天正2年(1574)に羽生城は自落。
同城が廃城となったのは慶長19年(1614)のことだった。
時代と共に直繁の名は忘れられていったのだろう。
発給文書にその名が残るだけの謎めく人物で、
冨田勝治氏の研究成果を待つまで、
直繁が何者なのか長い間わからなかったのである。


群馬県千代田町赤岩


埼玉県羽生市村君
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成人した羽生城主は“三宝荒神御正体”を奉納した?

2013年01月14日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
成人式は毎年1月に行われる。
現代日本では20歳を成人とし、
お酒やタバコが解禁となる。

成人=20歳だったわけではない。
かつては男子は15歳頃、女子は13歳頃をもって成人とした。
その年になると村の労働の担い手となり、賃金も支払われるようになる。
また、夜這いや女遊びも公認されたのである。

ところで、戦国時代の羽生城主広田直繁・木戸忠朝兄弟が、
歴史に初めて名を現すのは天文5年(1536)だ。
小松神社の末社に奉納した“三宝荒神御正体”が初出資料である。

羽生城が、いつ、誰の手によって築城されたかは定かではない。
直繁・忠朝の父木戸範実の頃と考えられるが、確証はない。
木戸氏は代々羽生領を本拠としていたわけではなく、
後北条氏の勢力伸長に対抗すべく、木戸氏が配置されたと考えられている。

ところで、広田直繁と木戸忠朝の出生年月日は定かではない。
直繁は元亀3年(1572)、忠朝は天正2年(1574)に没したと考えられるが、
そのとき御年何歳であったのか不明だ。

この兄弟は、なぜ天文5年に三宝荒神御正体を寄進したのだろう。
三宝荒神は火伏せの神として信仰されている。
直繁・忠朝兄弟は、羽生領を戦火から防ぐために寄進したのではないだろうか。
なぜ天文5年だったのか。
それは、2人がこの年に元服し、
これから羽生領を担っていこうとする決意の表れであったのかもしれない。

戦国時代における元服の年齢は特に決まってはいない。
単純に、天文5年当時の広田直繁を15歳、木戸忠朝を13歳としてみる。
上杉謙信が関東に進軍した永禄3年(1560)当時、
直繁は39歳、忠朝は37歳だったことになる。
翌年、彼らは羽生之衆として、謙信の小田原城攻めに参加。
第2陣に布陣し、忍城主成田氏と共に戦っている。

その後、広田直繁は館林城を謙信から拝領し、同城へ移った。
同時に、木戸忠朝は羽生城主となる。
ところが、直繁は館林で謀殺された可能性が高い。
寺で会合が開かれていたとき、
前館林城主長尾顕長の率いる七騎衆に攻められ、討たれてしまうのだ。

この事件を越相同盟が決裂した直後の元亀3年(1572)とする。
すると、直繁は51歳で亡くなったことになる。
弟の忠朝は49歳。
兄を失った忠朝は半身をもぎ取られたのも同然だった。
北条氏繁や成田氏長の猛攻を受けることとなった。

忠朝が歴史から忽然と姿を消すのは天正2年(1574)である。
7月以降ぷっつりと歴史から消える。

羽生城は、この年の閏11月に自落した。
周囲の城が敵に寝返っており、みすみす落城するのを待つのは不憫と思った謙信は、
城の破却を命じたのだ。
謙信に義を尽くしてきた羽生城は、謙信によって幕が引かれたと言える。

このとき、忠朝は生きる望みを失って自害したか、
あるいはそれ以前に戦死したとも言われる。
しかし、ぼくは病気でこの世を去ったと見ている。
いずれにせよ、天正2年に亡くなったとすれば、
兄と同じ51歳でこの世を去ったことになるだろう。

無論、天文5年当時に15歳と13歳と仮定した場合の話である。
根拠があるわけではない。
ただ、おおよそそのくらいの年だったのではないかとイメージしている。

ところで、兄弟が奉納した三宝荒神御正体はどうなったのだろうか。
実は、現在羽生にはない。
小田原の安楽寺に安置されている。

『新編相模風土記稿』によれば、羽生城主大久保忠隣が小田原城主を兼務したとき、
三宝荒神を羽生から移したという。
しかし、冨田勝治氏の研究では、北条氏政によるものとしている。
氏政は天正元年に布陣しており、
そのとき戦利品として三宝荒神を奪ったのだろうと……

いずれにせよ、三宝荒神御正体は四百年以上羽生の地から離れている。
天正元年に羽生から持ち去られたとしたら、
その霊験が失われてしまったのだろうか。
羽生城が自落したのは翌年のことであった。

※最初の写真は、小松に咲く桜
 (埼玉県羽生市小松)
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1月、広田直繁は“上杉謙信”からその忠義を認められた?

2013年01月02日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
 不相替河南有一人、励忠信儀、輝虎一世中不可忘之候(中略)
 近辺之様子聞届、具可申越事、肝要候
 (「歴代古案」)

正月10日付の“上杉謙信”が羽生城主“広田直繁”に宛てた書状である。
永禄11年(1568)に比定される。

直繁にとって、この謙信の言葉は誉れであっただろう。
「河南」とは利根川の南を指す。
すなわち、永禄9年の臼井城攻城戦の失敗以降、
こぞって上杉家を離反した「河南」の国衆の中で、
直繁は変わらず忠節を尽くしていたのであり、
その忠義を一生忘れないと述べている。

この書状を直繁が読んだのはいつだったのだろうか。
少なくとも1月中ではあっただろう。
きっと嬉しかったに違いない。

羽生城は巨大な要塞を呈しているわけではなく、
強大な軍事力を有しているわけではない。
永禄4年の小田原城攻めでは、忍城主成田氏の「馬寄」として参陣しており、
その軍事力もちょうど半分だった。

弟の木戸忠朝は、忍城の出城である皿尾城に入城。
成田氏を警戒し、監視するために打ち込まれた楔だった。
広田・木戸氏は、謙信の軍事的保証を得てのみでしか、
その政治的自立権を保つことができない国衆だったと言える。

そんな羽生城が存在感を帯びていくのは、
謙信の関東における勢力が後退してからである。
松山城が、北条氏康と武田信玄の連合軍によって陥落。
岩付城は太田資正の追放により、後北条氏の掌握するところとなった。

そして、前述のように、謙信が臼井城攻城戦に失敗したことにより、
多くの関東諸将はこぞって北条氏に従属した。
「近辺之様子聞届、具可申越事、肝要候」の一文は、
羽生城を取り巻く当時の情勢がよく表れている。
すなわち、羽生城は上杉と北条の戦いの前線に位置することになったのであり、
つぶさに情報を越後に届ける役割を担うことになったのである。

年が明けて間もない頃、直繁は謙信からの誉れの言葉をもらうものの、
大きな不安も抱えていただろう。
謙信の勢力回復はもはや絶望的である。
関東経略の拠点であった厩橋城も、北条高広の離反によって離れている。

ところが、この年の暮れに予期せぬことが起こる。
武田信玄の駿河侵攻である。
それは三国同盟の決裂を意味するものだった。
この信玄の動きにより、北条氏康は謙信との和睦を考えるようになる。
謙信も、二つ返事で和睦に同意するわけにはいかないものの、
決して悪くはない話だった。

こうして越相同盟に動いていくわけだが、
関東諸将は時代の流れに翻弄されていく。
広田直繁と木戸忠朝も例外ではない。
押し寄せてくる時代のうねりに巻き込まれていくのである。

※最初の写真は雪化粧した古城天満宮(埼玉県羽生市)
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上杉謙信から羽生城将へクリスマスプレゼントがあった?

2012年12月24日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
 其内為矢銭、木戸父子菅左へ黄金弐百両、申付差置処、彼使関口、
 可請取由申候條、相渡候
 (「下條正雄氏所蔵文書」)

上杉謙信が玉井豊前守に宛てた書状である。
12月25日付で年号はないが、天正元年(1573)に比定される。
これによって、謙信が羽生城将木戸忠朝・重朝父子および菅原為繁に対し、
矢銭として黄金200両を送ったことがわかる。

12月ゆえに、いまで言うクリスマスプレゼントということになるだろうか。
ちなみに、玉井豊前守は羽生城の同盟者であり、
羽生城のために尽力している。

無論、クリスマスプレゼントとは言っても、
その概念は当時の多くの日本人にはなかっただろうし、
旧暦だから時期もいまとは異なる。
それに、「黄金弐百両」の送金は、
いかに当時の羽生城が切羽詰まっていたかが窺えるだろう。

同年4月に、深谷城が謙信から離反したことにより、
武蔵国において上杉家に属す国衆は羽生城だけとなっていた。
岩付城代となった北条氏繁は、羽生城攻略を担当。
忍城主成田氏も羽生領を虎視眈々と狙っている。

そんな羽生落城が危ぶまれる中、謙信が送った矢銭だった。
ただ、「黄金弐百両」が届いたところで、根本的な解決にならない。
羽生城将たちは一日も早い謙信の越山を望んでいた。

しかし、謙信は越中攻めに忙しく、なかなか越山の気配を見せない。
上掲資料によると、越中から春日山城に帰陣したものの、
兵は疲れており、年内はゆっくりと休ませたい。
年明け早々に出陣すると記している。

羽生城将の心情をクリスマス風に言えば、
プレゼントよりもサンタ本人が来て欲しいといったところか。
年明け、羽生城主木戸忠朝は羽生領が固く守られるよう、
正覚院に祈願をしている。

このとき忠朝が一番欲しかったのは、プレゼントやサンタよりも、
「当地堅固」であったのかもしれない。
すなわち、羽生城の無事である。

しかし、城を取り巻く状況はさらに悪化。
上杉謙信の武をもってしても打開することはできなかった。
羽生城将たちは、翌年の12月を城で迎えることはできなかったのだから……。

※最初の写真は雪化粧した古城天満宮
(埼玉県羽生市)
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忍城址で風邪をひいた羽生城?

2012年12月04日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
12月2日、「北武蔵城物語」歴史セミナーで、
羽生城の話をする機会をいただいた。
主催は埼玉県利根地域振興センター。
会場は、いま話題の忍城址に建つ行田市立郷土博物館である。

「北武蔵城物語」という忍城・騎西城・羽生城の3城を紹介するリーフレットが作られ、
それに関連しての歴史セミナーだった。
「彩の国だより」で募集をかけたところ、
瞬く間に定員オーバーとなったという。
午後1回の予定が、午前・午後と計2回となった。
これも映画の影響なのだろう。

ところが、ぼくは火曜日頃から調子を崩し始め、
完全に風邪をひいてしまった。
講師が風邪で休んではしゃれにならない。

当日までには何とか治したかったのだが、
日ごと悪化するばかりで、ちっとも回復の兆しが見えなかった。
医者に看てもらっても
薬が切れればたちまち悪化する。

風邪をひいたまま人前で話をするのは初めてだった。
喉の痛みがひどく、
声を出すことも苦痛である。
それに、例え演台に立っても、
風邪の頭できちんと話ができるのかも不安だった。

不安ごとは寝ていても頭から離れないものだ。
熱にうなされながら、講話をする夢を何度見たことか……

会場には100名近くの参加者が集まっていた。
同博物館学芸員が忍城の話をしたあと、ぼくの出番だった。
中世に興味のある方からプロまでさまざまだったのだろう。
ぼくの出番になったとき、
会場がガラガラになったらどうしようと思っていたが、
退出者はなくホッとした。

持ち時間は60分。
何とか声は出た。というか、出した。
ただ、とても聞き取りづらかったと思う。
つたない話で、しかも風邪を引いた声で、
せっかく来てくれた方に申し訳ない気がした。

60分はわりと短いものだ。
その分、要点を絞らなければならず、
今回は自分なりに初めての試みをしたのだが、
聞いた方は羽生城にどんな印象を抱いただろう。
風邪をひいた羽生城になってしまっただろうか。

忍城に比べて、マニアックな固有名詞が登場し、
ピンとこない部分もあったかもしれない。
少しでも興味を持ってくれればありがたいし、
「今度城跡に行ってみます」という声を聞くととても嬉しい。
逆に反省点もあり、それは次に活かしたい。

それにしても映画の効果はすごいものである。
行田の博物館がこれまでと違って見えた。
おもてなし甲冑隊の姿もあって、
見ただけでテンションが上がった。
(一緒に写真を撮ってもらえばよかったな……)

風邪をひいている場合ではない。
地域材料は郷土の誇りであり、財産である。
士気を上げていかねば……
ですね。


羽生城址(古城天満宮・埼玉県羽生市)


忍城址(同県行田市)

※最初の写真は忍川
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羽生城主“木戸忠朝”はどんな最期を遂げた?

2011年07月27日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
上杉謙信の命令で羽生城に派遣された“斎藤盛秋”は、
城が自落しても羽生に残った。
いわば、城の歴史を見てきた人物である。

この斎藤家の系譜に、非常に注目している一文がある。
それは羽生城主が「病死」したという情報だ。

戦国期最後の羽生城主は“木戸忠朝”(きどただとも)である。
天正2年(1574)に城が自落して以降、
羽生領は忍城の支配下となり、
城代として忍の者が入城していた(『成田系図』)。
そして、天正18年に成田氏は没落し、
関東に入府した徳川家康によって、重臣“大久保忠隣”が配置されるのである。

木戸忠朝の最期は謎に包まれている。
天正2年6月の上杉謙信の書状を最後に、歴史から忽然とその名を消す。
長子“木戸重朝”(きどしげとも)も父と同様に、
この書状以降に姿を消すのだ。

羽生城研究者の冨田勝治氏は、
戦死したのではあるまいかと述べている(『羽生城と木戸氏』戎光祥出版)
「蓑沢一城根元亡落記」や「木戸氏系図」、
「武陽羽生古城之図」の詞書などには羽生城主の戦死が記され、
名村八幡社には城主の子ども3人の戦死、
稲子村には城主の自刃という伝承もある。

このような手がかりの中、
「病死」と記すのは斉藤家系譜だけである。
ぼく自身は、この「病死」が真実ではないかと思っている。
羽生城自落前に木戸忠朝は病死、
長子の重朝は戦死したのではあるいまいか。

忠朝の生年月日は定かではないが、
天正2年当時は50歳近くと思われる。
重朝は約30歳。
上杉謙信と後北条氏の激しい戦渦に巻き込まれ、
羽生の地でこの世を去ったのである。

ちなみに、斎藤家系譜には忠朝の詳しい病については記されていない。
おそらく、緊迫する情勢に心労がたたり、体を壊したのだろう。

木戸忠朝の墓は現存していない。
忠朝が開基し家臣が再興したお寺に、羽生城主墓碑と伝わるものがあるが、
形態が奇妙であり、石を適当に積み上げたものと思われる。

しかし、『北武八志』には2基の「木戸氏墓」、
『埼玉群馬両県奇譚』には5基の「手負ふて死たる武者」の墓碑があったという。

このように、木戸忠朝の最期については謎が多く、
はっきりしたことはわからない。
しかし、斎藤家系譜に記された「病死」説は注目されるし、
家臣不得道可が忠朝を弔うために再興していることから、
その亡骸は羽生のどこかに眠っているに違いない。
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編集者と行く羽生城めぐりは?(42) ―小田顕家―

2011年07月06日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
永禄6年、上杉謙信が騎西城を攻めたとき、
守っていたのは“小田助三郎朝興”だった。

朝興(ともおき)は、忍城主“成田親泰”の子である。
成田長泰の弟にあたる。
したがって、騎西城は忍城の支城であり、
同城の陥落によって、成田氏も謙信に属すことになった。

騎西城といえば、謙信の猛攻を受けた城として知られているが、
それ以前にも有名人が攻めている。
その人物の名は“足利成氏”。
謙信ほどの有名度でなくとも、
古河公方の初代である。

太田道灌の築城と伝えるものもあるが、
関東管領上杉氏が成氏(しげうじ)に対して築いた城だった。
そこへ成氏が攻め、攻略。

古河公方と関東管領上杉氏が火花を散らすちょうど中間地点であり、
菖蒲城と種垂城と共に重要視されていた。
騎西城を奪われた上杉方は地団駄踏んだことだろう。

最初、公方方の“佐々木氏”が騎西城に入城したが、
やがて小田氏が種垂城から移った。
どんな経緯かは定かではない。

騎西城主となった“小田顕家”は、
領内上会下村の“雲祥寺”を再興した。
顕家は忍城主成田氏から、娘婿を取る。
これが、のちに上杉謙信の猛攻を受けることになる小田朝興である。

顕家は騎西城を朝興に渡すと、種垂城に隠居した。
そして、この世を去ったのは天文8年(1539)8月10日だったという。
法名は気窓祥瑞大居士。
この小田顕家の墓と伝えられる宝篋印塔が、
雲祥寺に残っている。


騎西城址(埼玉県加須市)


種垂城址(同上)


菖蒲城址(同県久喜市)

※最初の画像の宝篋印塔は、
 雲祥寺に建つ小田顕家の墓(右)と息女の墓(埼玉県鴻巣市)
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臼井城攻防戦の失敗による“羽生城”の運命は?

2010年08月23日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
臼井城攻防戦は、
羽生領を支配する“広田直繁”と“木戸忠朝”にも大きな影響を与えた。
彼らは上杉謙信が定めた軍役に、
50騎ずつ割り当てられている。

忍城主成田氏の200騎に比べると、ちょうど半分の戦力である。
臼井城攻防戦が勃発する頃、両者は上杉方だったが、
成田氏はいつ離反してもおかしくはなかった。

木戸忠朝が忍城の出城である皿尾城に入城したのは、
成田氏を監視するためだった。
互いに干戈を交えたこともあるし、
一旦袂を分かち合えば、再び火花が飛び散ることになる。

謙信が小田城と臼井城を攻める永禄9年、
広田直繁と木戸忠朝は領内の“正覚院”という寺に判物を出している。
直繁が1月21日、忠朝が3月26日である。
いずれも同寺門徒の勝手還俗を戒めたものだ(羽生市指定文化財)。

謙信が小田城を攻めたのは永禄9年2月。
臼井城攻めは翌月である。
前者は攻略したが、後者は失敗に終わった。
「実城堀一重」まで迫られた臼井城は、
その堅固な守りによって上杉軍を跳ね返している。

謙信が退陣したのは同年3月25日。
関東攻略を義とする謙信にとって、この敗北は大きな躓きだった。
忠朝が正覚院に判物を出したのは、その翌日である。
したがって、忠朝は臼井城攻めには行かず、
羽生領の留守を守っていた可能性がある。

ちなみに、この頃木戸忠朝が居城していたのは皿尾城だ。
彼はここを支配の拠点としてたわけではない。
忍領は成田氏が支配し、忠朝はあくまでも忍城の監視的役割を担っていた。

しかし、忠朝が正覚院に判物を出していることから、
2人の兄弟が羽生領を治めていたことが窺えよう。
なぜその時期に直繁と同じ内容の判物を出したのかは不明だが、
臼井城攻略の失敗で離れる可能性のある門徒を
留めるためのものであったのかもしれない。

臼井城攻めの失敗により、同年閏8月には、
宇都宮氏、皆川氏、由良氏、成田氏が謙信から離反し、北条氏に属す。
換言すれば、広田・木戸氏と成田氏は再び敵同士になった。
同じ頃、忍城では成田長泰から氏長へ家督が譲渡されており。
城主になった氏長が真っ先に行ったのが、
この外交であったとも読み取れる。

関東では、雪崩を打つように国衆がどんどん謙信から離れていく。
羽生城は孤立無援状態となり、
厳しい状況に追い込まれることになる。
臼井城攻略の失敗は、羽生城にとっても転機だったと言えよう。

それでも離反はせず、謙信に従属し続けている。
そして、この危機を乗り越えるには、
永禄12年の越相同盟を待たなければならなかった。



埼玉県羽生市



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京の都で顔を合わせた“武蔵武士”は?(2) ―元斎と氏長―

2010年07月24日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城は天正2年(1574)閏11月に自落した。
城の維持を望めないと判断した上杉謙信が、破却を命じたのだった。

木戸元斎は羽生を出て膳城に移る。
赤城神社に羽生回復を祈願したが、それが叶うことはなかった。
羽生領は成田氏の支配下となり、
同地に残った者も氏長に仕えた。

やがて元斎は越後へ向かう。
“上杉景勝”に仕えると、“直江兼続”と急速に関係を深めた。
学問に関心を寄せる兼続は、元斎の歌人としての素質に惚れたのだろう。
春日山城内で開催される歌会に元斎も参加し、
たちまち頭角を現していくことになる。

時代は流れ、豊臣秀吉と後北条氏の合戦が勃発した。
小田原の役である。
北条方だった成田氏長は小田原城に入城し、
豊臣方と対峙した。
忍城は多くの領民が籠もり、籠城戦の構えを見せる。

一方、豊臣方だった上杉氏は関東に出陣。
その中に元斎の姿もあった。
そして、関東の城を次々に攻めていく。
松山城攻めでは元斎の部隊が布陣している。

小田原城は堅固な城である。
しかし、時代は否応なく流れている。
上杉謙信と武田信玄の攻撃から、
城を守った時代は遠の昔になっていた。
謙信や信玄のように、兵粮が尽きてやがて撤退するどころか、
秀吉は一夜城を築いてしまう。
それを目にした氏長は、もはやこれまでと思ったに違いない。

天正18年7月5日に小田原城は降伏。
最後まで粘り強く戦っていた忍城も、城を明け渡すことになった。
長い戦乱の時代が終わった瞬間でもあった。

忍城は没収され、北武蔵に独自の勢力を築いてきた成田氏は没落する。
忍城をあとにし、蒲生氏郷へ預かりの身となる。
しかし、成田氏はそのまま零落したわけではない。
天正19年に秀吉の直臣に取り立てられると、
下野烏山城を与えられるのである。

一方、元斎は羽生領を回復することなく、
そのまま上杉家に留まっている。
徳川家康が関東に入府すると、
羽生城は徳川の重臣大久保忠隣に与えられた。
木戸氏の時代もまた遠い昔日のものになっていた。

上杉景勝はしばしば京都に上洛する。
元斎もそこにお供している。
烏山城を与えられた成田氏長も、下野で暮らしていたわけではなく、
京都で多くの時間を過ごしていた。

そして天正19年のある日のこと、
京都において歌会が催される。
そこに、元斎と氏長の姿があった。
長い戦乱と確執を経て、両者は顔を合わせたのである。

互いの姿を認めた2人は何を想っただろう。
胸中に思い浮かぶものは何だったか……
戦乱が終わりを告げたその時代に顔を合わせた数奇な縁だった。

矛と矛との戦いは終わったが、
歌の合戦はまだくすぶっていたかもしれない。
元斎を見た瞬間、氏長の胸中はにわかに震える。
若き日の想いがまざまざと甦るようだった。

元斎にしても、成田氏の侵攻に苦しめられた日々を忘れてはいない。
羽生から撤退せざるを得なかったのも、
氏長と無関係ではない。
父忠朝と兄の重朝も羽生で命を落としている。
燃え立つ青白い炎に元斎はそっと目を閉じる。

歌会はつつがなく行われる。
そこにあるのは、血生臭い戦場とは異なる穏やかな空気。
旧から新へ、時代は確実に新しい一歩を踏み出していた。
歌に興じ、文化に楽しむ人々の中、
関東の戦乱を潜り抜けてきた武蔵武士が、
確かにそこにいたのだった。



羽生城(埼玉県羽生市)



忍城(同県行田市)


※最初の画像は二条城(京都府京都市)
 この記事は小説、あるいはエッセイとして読んでいただきたい。
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京の都で顔を合わせた“武蔵武士”は?(1) ―元斎と氏長―

2010年07月23日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正19年(1591)、“木戸元斎”と“成田氏長”は京都にいた。
豊臣秀吉の天下統一により、戦乱の時代が終わった頃である。

両者とも武蔵に生まれた。
元斎は羽生城、氏長は忍城である。
まだ戦乱の終わりが見えなかった時代、
両者はともに敵対する関係だった。

木戸氏と成田氏の確執は深く、
彼らの父親の代からその溝は大河のごとく横たわっていた。
上杉謙信の勢力後退とともに羽生城は孤立していき、
忍城主成田氏長は羽生領の獲得を目下の目標に掲げていた。
後北条氏に属し、その勢力伸長に便乗して羽生城を攻める。

元亀3年(1572)には大きな打撃を与えている。
しかし、羽生城はなかなか落ちない。
孤立無援に陥っても、上杉方に属していた。
それは“義”のためでもあったかもしれないが、
謙信に属さざるを得ない政治的理由があった。
そのカギを握っていたのが、成田氏ほかならない。

前羽生城主広田直繁は館林の地において討たれ、
羽生城には木戸忠朝、同重朝、菅原為繁が守っていた。
元斎も城にいたが、城将としてその名は姿を現さない。
氏長は父の代から続く羽生領問題に片を付けたかった。

それともう一つ、彼には木戸氏に対する個人的な確執があった。
それは“歌”である。
成田氏は代々歌道を好み、歌人を城に招いては歌会を開いていた。
一方、木戸氏は歌の名家である。
「無双の歌人」と言われた“木戸孝範”を輩出している。
冷泉家で歌道の手ほどきを受けた孝範は、
武家歌人としてその名を馳せていた。

その孫“木戸範実”は、
冷泉家と二条家の歌道を合わせた独自の「二流相伝」を成立させ、
孝範の血を色濃く受け継いでいる。
関東きっての文化人“一色直朝”は範実を快くは思っていなかったが、
逆にそれは範実の歌の才能を認めていたからだろう。

歌を好む氏長にとって、そんな木戸氏に対する感情は、
羨望でもありまた嫉妬でもあった。
歌人としての氏長はさほど注目されていない。
木戸氏は隣接する領地に入城し、政治的な敵対関係にある。
氏長の木戸氏に対する感情は、
文化的な面においてもより深いものになっていた。

※最初の画像は京都タワー
 なお、この記事は小説、あるいはエッセイとして読んでいただきたい。
 成田氏長の木戸氏に対する感情はわたしの創作である。
コメント (2)
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夏の図書館で『羽生城』を一緒に読みませんか?

2010年07月05日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
7月23日(金)、羽生の図書館にて『羽生城』を読む講座が開催される。
講師は、恐縮ながら小生。
“羽生史談会”の公開講座という形だ。

羽生史談会は師の冨田勝治先生が作った会で、
結成されてすでに20年以上が経つ。
羽生城研究を80年以上続けていた師の会とあって、
勉強のテーマはずばり「羽生城」だった。

羽生郷土研究会という会もあるのだが、史談会とは別物だ。
「冨田勝治」の世界を存分に味わえたのが、この史談会だったと思う。
ぼくも末席に加わり、師の教示を受けられたことは、
20代の財産だと思っている。

残念ながら、師は2008年に99歳で亡くなってしまった。
その直前まで師は教壇に立ち、講義をしていた。
そんな師の背中を見てきたせいか、
なんでも年のせいにはできないな、と思う。

それに、人間は生涯勉強。
師が99歳の長寿を全うしたのも、
飽くなき好奇心が身体を若返らせていたからだろう。
恋に限らず、“ときめき”は大切である。
その心が前向きに生きる原動力となる。

そんな師が作った羽生史談会で、このたび公開講座が開かれる。
もう一度原点に戻って、
師の著書『羽生城 ―上杉謙信の属城―』を読もうという企画だ。

羽生城はどこに存在し、支城はあったのか?
初期における羽生城はどんな情勢に置かれ、
城主はどんな動向をとっていたのか?
また、羽生城はどんな最後を辿ったのか?
『羽生城』をテキストに、数回に分けてその歴史を見ていくつもりだ。

講演ではないので、突っ込んだ話ができればと思っている。
北武蔵に生きた孤高な城の歴史を、
多くの人と一緒にひもといていきたい。



冨田勝治著『羽生城 ―上杉謙信の属城―』



羽生史談会で講義をする冨田勝治氏(07年撮影)


※羽生史談会の公開講座については「広報はにゅう7月号」に掲載。
 羽生市ホームページでも見ることができる。
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/hisyo/03_city/07_kokuti/koho/koho.html

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羽生の“藤”からは歴史情緒の香りがする? ―大天白神社―

2010年04月23日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城は別名“簑沢城”と言う。
例えば源長寺所蔵の羽生城史を伝える史料の名は、
『簑沢一城根元亡落記』である。

この史料は、史実を全て語っているとは言えないのだが、
物語風に書かれており映像が浮かびやすい。
“荒川一学”や“須影小源治”という名が登場し、
果敢に忍勢と戦うも討ち死にしたと記している。

「亡落記」に拠ったのだろうが、
古城天満宮の境内に建つ「古城天満宮縁起碑」にも、
“羽生簑沢城主木戸伊豆守忠朝”という文字が見える。
『木戸氏系図』という史料には、
“武州羽生領簑沢之城”と記され、やはり「羽生城」ではない。

簑沢とは、現在の羽生市北2丁目一帯の地域を指す。
『新編武蔵風土記稿』は「昔は簑沢町と唱へ、羽生城下に属して、
隣村町場村につづきし町並なりしと云」と記し、
民戸は40余あったという。

ではなぜ、「羽生城」ではなく「簑沢城」なのだろうか?
それを解くヒントに、簑沢村に所在する寺社と小字がある。
寺社とは“正光寺”と“大天白神社”である。

前者は“清水卯三郎”の墓があることで知られ、
後者は“安産の神様”として参拝者が多い神社だ。
何気なく隣り合って建っている寺社だが、
実は羽生城関係者と深く関わっている。

『正光寺創建由緒書』によると、
正光寺を開基したのは羽生城主木戸忠朝の“母”である。
そして大天白神社は、忠朝の“妻”が安産祈願のために勧請したと伝えられる。

また、簑沢村には「竹の内」という小字がある。
これは「館(たて)の内」の転訛と考えられている。
すなわち、かつてそこに館があったのだろう。

その館には誰が住んでいたのか?
前述の木戸氏ゆかりの寺社があることから、
居館者は木戸氏であった可能性が高い。
交通の要衝地であった羽生の集落を掌握し、
天然の要害とを考慮して簑沢に館を築いたのではあるまいか。

現在、羽生城は“東谷”にあったと考えられている。
『羽生昔がたり』では、東谷に“城”が築かれるのは、
天文15年の河越合戦以降と記している。
すなわち、戦況に応じて館を東谷へ拡張していったという。

拙稿「羽生城の築城をめぐる論考」にも書いたが、
簑沢館を築城とするか、
それとも東谷への拡張をスタートとするかで微妙に異なる。
同時に、築城者も変化してしまう。

ただし、羽生城の築城がいつだったのか、
それを正式に伝える史料はない。
また、簑沢館から東谷へ拡張したのだとしても、
それが木戸氏によるものであったのかどうかは、
考慮する必要がある。

なぜなら、古河城が天文23年に後北条氏によって陥落しており、
北条の触手が羽生領に伸びていたからだ。
『小田原旧記』には、羽生城代として“中条出羽守”の名が見える。
木戸氏がその時期にどう過ごしていたのかはわからない。

実はこの「わからない」が重要であり、
彼らの政治的自立性が奪われていることを意味している。
これは、自立性が保たれていた忍城主成田氏とは対照的だ。

『小田原記』には、“上杉謙信”の関東出陣のときに、
木戸氏が羽生城を乗っ取ったという記述がある。
奪われた殿様は忍城を頼ったとあることから、
成田領問題がそこから見えてこよう。

そしてそれは、木戸氏がなぜ謙信に属し続けていたのか、
なぜ後北条氏の旗下に加わらなかったのかという謎に、
大きく迫るヒントを示唆している。
その後の羽生城の流れは、
実は初期にその歩むべき道が大きく決定されていたと言っても過言ではないと、
ぼくは考えている。
大天白神社や簑沢城には、
意外に重要なキーワードが含まれているのではないだろうか。

歴史は一言で言えるほど簡単ではない。
調べるほど奥が深まり、いろいろな謎を派生させていく。
それが歴史の面白味であり、
あまり知られていない地域だからこそ、
発掘しがいがあると言えよう。

ところで、大天白神社は4月末から“藤まつり”が開催される。
毎年恒例であり、この藤まつりに新しい季節の到来を感じる人もいると思う。

この「ダイテンハク」と珍しい名前の神社は、
羽生では一社しかない。
ただ、表記は違うものの熊谷には数社ある。
このことと、のちに羽生城の同盟者となる“玉井豊前守”を勘案すると、
簑沢村に忠朝の妻が勧請したのではなく、
豊前守が一枚噛んでいるような気がする。

ちなみに、大天白とは“ラマ教”の信仰対象にあって、
性神の信仰があるという(『新編熊谷風土記稿』)。
大天白(ターテンパイ)と呼ぶ。
性神の信仰があるがゆえに、
安産の神と呼ばれるようになったのかもしれない。

史料が不足しているいま、
断言できないのが歯がゆいところでもある。
ただ、謎が面白さを呼ぶのも事実だ。
史実を突き詰めていくか、
それとも想像を膨らませて歴史を楽しみとするか……
いずれにせよ、藤を見ながら歴史ロマンにひたってみてはいかがだろうか?



大天白神社(埼玉県羽生市北2丁目)






正光寺参道(同上)



羽生城址碑の建つ古城天満宮(同市東5丁目)


藤まつりについて(「羽生市ホームページ」内)
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/syoukou/02_culture/02_kankou/fuji_fes/fuji_fes.html
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“埼東よみうり”掲載の羽生ネタは?

2010年04月17日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
朝、出勤するとT先生が「載ってるよ」と声を掛けた。
手渡された新聞は「埼東よみうり」。
讀賣新聞の姉妹版である。
そこに、3月にパープル羽生で行った講演のことが掲載されていた。

講演当日は記者の“堀越さん”も見えていた。
その記事が堀越さんの手によるものかはわからないが、
ぼくの拙い話の内容が綺麗にまとめられている。

さすがは記者。
要点を外さないし、びしっと決める。

講演の演題は「羽生城と師とわたし」だった。
いまは亡き羽生城研究者の“冨田勝治”先生を中心に、
郷土の歴史を話させてもらった。

実は、今日4月17日は冨田先生の命日である。
いまから2年前のこの日、師は息を引き取った。
99年の生涯だった。

記事にも書いてあるが、師との出会いは20代の大きな財産だと思っている。
70歳も年の離れた人と出会い、
あまつさえ、羽生城という埋もれた城について熱く話すことができたのは、
ほとんど奇跡に近い。

もし師と出会うことがなかったならば、
人前で羽生城について話すこともなかったに違いない。
縁とは不思議なものだ。

講演当日は多くの方に足を運んでいただいた。
閑古鳥が鳴くのではないかと心配していたが、
生憎の雨にもかかわらず来て下さったことはありがたい。
関係者の方にも、とてもよくしてもらった。

仕事帰り、羽生城址碑の建つ古城天満宮へ足を運んだ。
ここはパワースポット的な場所。
つい先日も、風邪を引いた人のために回復祈願をしたら、
翌朝にはけろっと治ったばかりである。
効験なのか、たまたま治るタイミングが一緒だったのか……

師と羽生城主木戸忠朝は似ている。
また羽生城と師はほとんど等しい。
師が亡くなって羽生城は落城したわけだが、
崩壊を意味してはいない。
師の魂を受け継ぎながらも、
ぼくはぼくの城を描きたい。

古城天満宮のあと、師の眠る寺へ足を運んだ。
途中、雨がポツリポツリ落ちてくる。
それは、師が息を引き取った日に降っていた雨と、
どこか似ていた。



羽生城址碑(埼玉県羽生市東5丁目)



パープル羽生(同市南5丁目)


参照(「ムジナもん探訪記」)
http://www.city.hanyu.lg.jp/kurashi/madoguchi/kikaku/02_culture/01_bunka/mujinamon/tanbouki/20100306.html
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その時、“あけおめ”と言えたのだろうか? ―天正2年の羽生城―

2010年01月01日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
あけましておめでとうございます、
と、なかなかそうとも言ってられない戦国武将が天正2年(1574)にいた。
それは羽生城主木戸忠朝と、
城将の菅原直則・木戸重朝である。

天正2年当時、羽生城は孤立無援に追い込まれていた。
上杉謙信の救援なくして城の維持は危うい。
越相同盟はすでに崩壊し、
同じく反北条の態度をとる関宿城も攻撃の的となっていた。
北条氏照や北条氏繁が両城攻略のために活発化している。

木戸忠朝は神仏にすがる思いだったのだろう。
天正2年正月、忠朝は正覚院に城の堅固を祈念させるのである(「正覚院文書」)。

 此度当地堅固之御祈念、奉任貴寺候、入眼之上、千疋之御寺領、
 可奉寄進者也、仍所定如件
   天正二年申戌
      正月吉日        忠朝(花押)
     正覚院
       御同宿中 

天正2年と言えば、織田信長が上杉謙信に「洛中洛外図屏風」を贈った年であり、
長篠合戦で武田勝頼を破る前年である。
信長の「天下布武」がいよいよ具体的に天下を捉えようとしており、
謙信との関係もにわかに緊張を帯びてきていた。
「洛中洛外図屏風」はその緩和策と捉えられている。

関東においても、謙信と後北条氏との争いが佳境を迎えており、
その「最後の砦」のような存在になっていたのが羽生城と関宿城であった。
特に後者は一国を得るに等しいと言われており、
古河公方とも密接に絡んでいる。

もし関宿城が陥落すれば、
北条氏は集中的に羽生城へ矛先を向けるだろう。
そうなれば落城は火を見るより明らかだ。
そんな緊迫した空気の中、
忠朝が城の持続を願ったのが先の祈願状だったのである。

しかし、その願い空しく羽生城は同年閏11月に自落してしまう。
城の存続が絶望的と判断した謙信の決断だった。
忠朝と嫡男の重朝は歴史から名前を消すことから、
この年に他界したのであろう。
戦死か自害と考えられているが、詳細は不明である。

木戸忠朝や城将らが必死に守ろうとした城は、
つわものどもの夢の跡となっている。
現在ブレーキ工場と住宅地が建ち、
往時の面影を伝えるものは何も残っていない。
2010年のいまも……
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