羽生城主“広田直繁”と、その弟の“木戸忠朝”が歴史に初めて名を現すのは、
天文5年(1536)のことだ。
小松神社の末社に奉納した三宝荒神御正体に、
両者の名が刻されている。
しかし、上杉謙信が関東へ進攻する永禄3年(1564)まで、
信憑性のある史料に2人の名は登場しない。
天文14年から起こった河越合戦にも参陣したと思われるが、
どこでどう動いたのかは謎に包まれている。
河越合戦では、古河公方・両上杉氏連合軍に加わっていたのだろう。
羽生領内にある正覚院の住職“重誉”は、
古河公方足利晴氏に戦勝祈祷の目録とお茶を送っており、
その礼状が同寺に届いている。
“北条氏康”の夜襲によって連合軍は瓦解しており、
直繁・忠朝兄弟も這々の体で羽生に帰ってきたに違いない。
その後、平井城へ敗走した“上杉憲政”も後北条氏に攻められ、
越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼らざるを得なかった。
古河城にて後北条氏に反旗を翻した足利晴氏・藤氏父子もあえなく鎮圧され、
相模の秦野へ幽閉の身となる。
古河公方の宿老簗田氏も足利義氏のために関宿城を明け渡し、
古河城への移城を余儀なくされた。
直繁・忠朝兄弟もその流れに逆らえず、
後北条氏に従属したのだろう。
ただの従属ではない。
羽生城には、後北条氏か忍城主成田氏の家臣が派遣され、
彼らの政治的自立権は削がれたのである。
史書や言い伝えによると、この時期に羽生城が築城され、
大天白神社が城主の奥さんの安産祈願のために勧請されたという。
これらを鵜呑みにはできないが、
城から追放されたわけではなかったのだろう。
『小田原記』が記すように、「家老」の立場だったのかもしれない。
まるで飛ぶ鳥落とす勢いの後北条氏だったが、
北から強大な敵がやってくる。
その者こそ、長尾景虎ことのちの上杉謙信である。
謙信の関東進攻は十分に用意されてのことだった。
将軍足利義輝から大義を得、上杉憲政の失われた領地を回復し、
謙信の到来を望む反北条の国衆たちの声に応じての出陣である。
直繁・忠朝兄弟も、そのときを虎視眈々と狙っていたのかもしれない。
かくして、城主の「羽生豊前守」が鷹狩りに出たとき、
両者は羽生城を乗っ取るのである。
成田旗下羽丹生城主羽生豊前守が両家老、河田の藤井修理、志水の木戸源斎と云者あり、
木戸源斎は輝虎へ心を寄せ、豊前守が鷹野に出し跡に城を乗取、
羽生藤井数度合戦ありしかとも、二人終に打負牢人として成田を被頼、
源斎には輝虎加勢して成田と合戦数度に及ぶ
(『小田原記』)
羽生豊前守は城を取り戻すことはできなかった。
忍城主成田氏を頼るのだが、
明るいときを避けて夜の入城だったのだろうか。
忍には「殿様通り魔」という伝説が伝わっている。
羽生豊前守の退出によって、直繁・忠朝は政治的自立権を回復する。
成田長泰はこの事件に腹を立てたに違いないが、
成田氏はすぐに後北条氏から離反し、上杉方への従属を表明した。
ゆえに、羽生城乗っ取り事件については泣き寝入りか、
上杉謙信の裁断に期待するしかない。
しかし、謙信は直繁・忠朝兄弟の知行地を認めた。
兄弟にとっては、乗っ取り事件の肯定であり、
謙信の軍事的保証によってその政治的自立権がを回復したのだった。
成田長泰にとっては当然面白くない。
とはいえ、面と向かって不満を言うわけにはいかない。
両者の間に埋められない溝が広がった瞬間でもあった。
永禄3年に関東へ進攻した謙信は、
翌年には11万5千余騎もの大軍を引き連れて小田原城を包囲。
そのとき、第2陣に布陣していたのは忍勢や羽生勢であり、
味方同士として小田原城を攻めたのである。
いずれ、宿敵になる予感をはらみながら……
天文5年(1536)のことだ。
小松神社の末社に奉納した三宝荒神御正体に、
両者の名が刻されている。
しかし、上杉謙信が関東へ進攻する永禄3年(1564)まで、
信憑性のある史料に2人の名は登場しない。
天文14年から起こった河越合戦にも参陣したと思われるが、
どこでどう動いたのかは謎に包まれている。
河越合戦では、古河公方・両上杉氏連合軍に加わっていたのだろう。
羽生領内にある正覚院の住職“重誉”は、
古河公方足利晴氏に戦勝祈祷の目録とお茶を送っており、
その礼状が同寺に届いている。
“北条氏康”の夜襲によって連合軍は瓦解しており、
直繁・忠朝兄弟も這々の体で羽生に帰ってきたに違いない。
その後、平井城へ敗走した“上杉憲政”も後北条氏に攻められ、
越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼らざるを得なかった。
古河城にて後北条氏に反旗を翻した足利晴氏・藤氏父子もあえなく鎮圧され、
相模の秦野へ幽閉の身となる。
古河公方の宿老簗田氏も足利義氏のために関宿城を明け渡し、
古河城への移城を余儀なくされた。
直繁・忠朝兄弟もその流れに逆らえず、
後北条氏に従属したのだろう。
ただの従属ではない。
羽生城には、後北条氏か忍城主成田氏の家臣が派遣され、
彼らの政治的自立権は削がれたのである。
史書や言い伝えによると、この時期に羽生城が築城され、
大天白神社が城主の奥さんの安産祈願のために勧請されたという。
これらを鵜呑みにはできないが、
城から追放されたわけではなかったのだろう。
『小田原記』が記すように、「家老」の立場だったのかもしれない。
まるで飛ぶ鳥落とす勢いの後北条氏だったが、
北から強大な敵がやってくる。
その者こそ、長尾景虎ことのちの上杉謙信である。
謙信の関東進攻は十分に用意されてのことだった。
将軍足利義輝から大義を得、上杉憲政の失われた領地を回復し、
謙信の到来を望む反北条の国衆たちの声に応じての出陣である。
直繁・忠朝兄弟も、そのときを虎視眈々と狙っていたのかもしれない。
かくして、城主の「羽生豊前守」が鷹狩りに出たとき、
両者は羽生城を乗っ取るのである。
成田旗下羽丹生城主羽生豊前守が両家老、河田の藤井修理、志水の木戸源斎と云者あり、
木戸源斎は輝虎へ心を寄せ、豊前守が鷹野に出し跡に城を乗取、
羽生藤井数度合戦ありしかとも、二人終に打負牢人として成田を被頼、
源斎には輝虎加勢して成田と合戦数度に及ぶ
(『小田原記』)
羽生豊前守は城を取り戻すことはできなかった。
忍城主成田氏を頼るのだが、
明るいときを避けて夜の入城だったのだろうか。
忍には「殿様通り魔」という伝説が伝わっている。
羽生豊前守の退出によって、直繁・忠朝は政治的自立権を回復する。
成田長泰はこの事件に腹を立てたに違いないが、
成田氏はすぐに後北条氏から離反し、上杉方への従属を表明した。
ゆえに、羽生城乗っ取り事件については泣き寝入りか、
上杉謙信の裁断に期待するしかない。
しかし、謙信は直繁・忠朝兄弟の知行地を認めた。
兄弟にとっては、乗っ取り事件の肯定であり、
謙信の軍事的保証によってその政治的自立権がを回復したのだった。
成田長泰にとっては当然面白くない。
とはいえ、面と向かって不満を言うわけにはいかない。
両者の間に埋められない溝が広がった瞬間でもあった。
永禄3年に関東へ進攻した謙信は、
翌年には11万5千余騎もの大軍を引き連れて小田原城を包囲。
そのとき、第2陣に布陣していたのは忍勢や羽生勢であり、
味方同士として小田原城を攻めたのである。
いずれ、宿敵になる予感をはらみながら……