オリオン座を目にするたびに、
冬がやってきたことを実感する。
最終近くの電車で夜間の学校から帰ってきたとき、
ふと見上げた空にオリオン座が浮かんでいた。
ああ、冬がやってきたんだと少しだけ胸が痛む。
オリオン座と言えば、3つ並んだ星が特徴的だ。
『利根川図志』に“参星”(しむせい)とあるように、
古くから舟乗りたちの道しるべにもなっていた。
ふと思う。
この「3」という数字について。
「3」とは、「2」つの対立を超越した完全な調和の数である。
明石散人氏が指摘しているように、
“桃太郎”が鬼退治に行くとき引き連れたのは、
イヌ、サル、キジの3匹のお供だった(『謎ジパング』)。
『西遊記』も三蔵法師は3人のお供を連れ、
イザナギが“黄泉醜女”追われているとき、
聖なる力が宿る桃を投げた数も、実は3だった。
また、奇数は割り切れないとして、
聖なる数字という考えが中国にはある。
オリオン座は「3」のみで構成されているわけではないが、
3つ星が特徴的だ。
この星座を聖なる星と見ていた者も少なくはないだろう。
ところで、利根川の土手では、
鮮やかな星々を目にすることができる。
天正2年(1574)閏11月、羽生城が自落した。
上杉謙信に引き取られる城兵たちの頭上には、
オリオン座が瞬いていたことだろう。
(夜に撤退したのかは不明だが……)
羽生城主“木戸忠朝”と息子の“重朝”は生きる望みを失って、
このとき自害したとも考えられている。
実は、羽生領の名(みょう)村には、
城主を祀ったと伝えられる3つの社がある。
ぼくが考えるに、広田直繁、木戸忠朝、重朝の名を挙げるのだが、
その詳細については不明だ。
なお、羽生領内の源長寺にも、
羽生城主の墓碑と伝えられるものがある。
これも3基である。
伊藤道斎の記録によると元は5基あったらしいが(『埼玉群馬両縣奇譚』)、
とりあえず「3」の数字が気に掛かる。
羽生城は後北条氏や忍城主成田氏の圧力に抗えず、
城を自落させざるを得なかった。
ぼくは“忠朝”は病死、
“重朝”は戦死か自害と考えているが、
村人にとっては、無念にこの世を去ったように思えたかもしれない。
恨みを残して亡くなった者を放っておくことはできない。
領内に祟りがもたらされるからだ。
そこで神として祀って怒りを鎮めるのだが(御霊信仰)、
そのとき「3」という調和の数を持っていて、
祟りを封じたという“想像”を膨らますこともできよう。
なお、名村に鎮座する八幡神社には、
“笛”に関する伝説が残っている。
羽生領の堀の内城に残った盲目の者が、
上州へ移った両親に想いを馳せて笛を吹いたという。
この笛の音も、城主や戦死した武者たちの霊を慰める効果があったのかもしれない。
以上は、卒論には書けない話である。
ただ、オリオン座流星群を目にしながら、
そんな空想を働かせてもいいだろう。
羽生城は埋もれた城かもしれない。
しかし、そこに生きた人々の軌跡は、
きら星のごとく光っている。
冬がやってきたことを実感する。
最終近くの電車で夜間の学校から帰ってきたとき、
ふと見上げた空にオリオン座が浮かんでいた。
ああ、冬がやってきたんだと少しだけ胸が痛む。
オリオン座と言えば、3つ並んだ星が特徴的だ。
『利根川図志』に“参星”(しむせい)とあるように、
古くから舟乗りたちの道しるべにもなっていた。
ふと思う。
この「3」という数字について。
「3」とは、「2」つの対立を超越した完全な調和の数である。
明石散人氏が指摘しているように、
“桃太郎”が鬼退治に行くとき引き連れたのは、
イヌ、サル、キジの3匹のお供だった(『謎ジパング』)。
『西遊記』も三蔵法師は3人のお供を連れ、
イザナギが“黄泉醜女”追われているとき、
聖なる力が宿る桃を投げた数も、実は3だった。
また、奇数は割り切れないとして、
聖なる数字という考えが中国にはある。
オリオン座は「3」のみで構成されているわけではないが、
3つ星が特徴的だ。
この星座を聖なる星と見ていた者も少なくはないだろう。
ところで、利根川の土手では、
鮮やかな星々を目にすることができる。
天正2年(1574)閏11月、羽生城が自落した。
上杉謙信に引き取られる城兵たちの頭上には、
オリオン座が瞬いていたことだろう。
(夜に撤退したのかは不明だが……)
羽生城主“木戸忠朝”と息子の“重朝”は生きる望みを失って、
このとき自害したとも考えられている。
実は、羽生領の名(みょう)村には、
城主を祀ったと伝えられる3つの社がある。
ぼくが考えるに、広田直繁、木戸忠朝、重朝の名を挙げるのだが、
その詳細については不明だ。
なお、羽生領内の源長寺にも、
羽生城主の墓碑と伝えられるものがある。
これも3基である。
伊藤道斎の記録によると元は5基あったらしいが(『埼玉群馬両縣奇譚』)、
とりあえず「3」の数字が気に掛かる。
羽生城は後北条氏や忍城主成田氏の圧力に抗えず、
城を自落させざるを得なかった。
ぼくは“忠朝”は病死、
“重朝”は戦死か自害と考えているが、
村人にとっては、無念にこの世を去ったように思えたかもしれない。
恨みを残して亡くなった者を放っておくことはできない。
領内に祟りがもたらされるからだ。
そこで神として祀って怒りを鎮めるのだが(御霊信仰)、
そのとき「3」という調和の数を持っていて、
祟りを封じたという“想像”を膨らますこともできよう。
なお、名村に鎮座する八幡神社には、
“笛”に関する伝説が残っている。
羽生領の堀の内城に残った盲目の者が、
上州へ移った両親に想いを馳せて笛を吹いたという。
この笛の音も、城主や戦死した武者たちの霊を慰める効果があったのかもしれない。
以上は、卒論には書けない話である。
ただ、オリオン座流星群を目にしながら、
そんな空想を働かせてもいいだろう。
羽生城は埋もれた城かもしれない。
しかし、そこに生きた人々の軌跡は、
きら星のごとく光っている。
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