クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“3”の数字に秘められているものは? ―オリオン座と羽生城―

2009年10月22日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
オリオン座を目にするたびに、
冬がやってきたことを実感する。
最終近くの電車で夜間の学校から帰ってきたとき、
ふと見上げた空にオリオン座が浮かんでいた。
ああ、冬がやってきたんだと少しだけ胸が痛む。

オリオン座と言えば、3つ並んだ星が特徴的だ。
『利根川図志』に“参星”(しむせい)とあるように、
古くから舟乗りたちの道しるべにもなっていた。

ふと思う。
この「3」という数字について。

「3」とは、「2」つの対立を超越した完全な調和の数である。
明石散人氏が指摘しているように、
“桃太郎”が鬼退治に行くとき引き連れたのは、
イヌ、サル、キジの3匹のお供だった(『謎ジパング』)。

『西遊記』も三蔵法師は3人のお供を連れ、
イザナギが“黄泉醜女”追われているとき、
聖なる力が宿る桃を投げた数も、実は3だった。

また、奇数は割り切れないとして、
聖なる数字という考えが中国にはある。
オリオン座は「3」のみで構成されているわけではないが、
3つ星が特徴的だ。
この星座を聖なる星と見ていた者も少なくはないだろう。

ところで、利根川の土手では、
鮮やかな星々を目にすることができる。

天正2年(1574)閏11月、羽生城が自落した。
上杉謙信に引き取られる城兵たちの頭上には、
オリオン座が瞬いていたことだろう。
(夜に撤退したのかは不明だが……)

羽生城主“木戸忠朝”と息子の“重朝”は生きる望みを失って、
このとき自害したとも考えられている。
実は、羽生領の名(みょう)村には、
城主を祀ったと伝えられる3つの社がある。
ぼくが考えるに、広田直繁、木戸忠朝、重朝の名を挙げるのだが、
その詳細については不明だ。

なお、羽生領内の源長寺にも、
羽生城主の墓碑と伝えられるものがある。
これも3基である。
伊藤道斎の記録によると元は5基あったらしいが(『埼玉群馬両縣奇譚』)、
とりあえず「3」の数字が気に掛かる。

羽生城は後北条氏や忍城主成田氏の圧力に抗えず、
城を自落させざるを得なかった。
ぼくは“忠朝”は病死、
“重朝”は戦死か自害と考えているが、
村人にとっては、無念にこの世を去ったように思えたかもしれない。

恨みを残して亡くなった者を放っておくことはできない。
領内に祟りがもたらされるからだ。
そこで神として祀って怒りを鎮めるのだが(御霊信仰)、
そのとき「3」という調和の数を持っていて、
祟りを封じたという“想像”を膨らますこともできよう。

なお、名村に鎮座する八幡神社には、
“笛”に関する伝説が残っている。
羽生領の堀の内城に残った盲目の者が、
上州へ移った両親に想いを馳せて笛を吹いたという。
この笛の音も、城主や戦死した武者たちの霊を慰める効果があったのかもしれない。

以上は、卒論には書けない話である。
ただ、オリオン座流星群を目にしながら、
そんな空想を働かせてもいいだろう。
羽生城は埋もれた城かもしれない。
しかし、そこに生きた人々の軌跡は、
きら星のごとく光っている。

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羽生城を知るには“職務質問”が必要か? ―福寿学院大学―

2009年09月25日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
“福寿学院大学”に集まった受講生は144名だった。
演題は「戦国乱世の羽生城」。
ふるさと市民大学のタイトルとそっくりだが、
こちらはかなり凝縮した内容を話させてもらった。

羽生城の詳しい歴史を説明するよりも、
身近な町の景色を映像で映し、
「実はこれが城の名残です」と言う内容の方が喜ばれることは、
何回かの講演で感じたことである。

羽生の殿様が愛した“おはぎ”や、
羽生のどこかに眠っているかもしれない「黄金弐百両」。
受講者が知りたがっているのは、
羽生城の中身よりも外枠かもしれない。

この城の遺構は全く消失しているため、
町の何の変哲もない所々に「城」を発見するのには苦労した。
(曼陀羅堀が城の堀だったとか、ただの道が大手道だったとか……)
羽生城は一日にして成らず、である。

いまでこそ、郷土研究会や史談会に所属しているが、
羽生城に興味を持ち始めた頃は、一人の郷土史家も知らなかった。
疑問を持っても、それを投げかけられる相手は誰もいない。
全て自分で答えを探すしかなかった。

市内には、本城のほかに“支城”がある。
資料を頼って現地へ行っても、
果たしてそこが城跡なのかはっきりしない。

説明板が建っているわけではないし、
見た目はただの民家や田畑である。
「ここが城跡です」と案内してくれる人を、
どんなに求めたことか……

車だと見落としてしまう可能性が大きいため、
基本的に自転車を使った。
真冬の最中、自転車で支城をめぐったこともある。
幻の城探しは想像以上に苦労したが、
まるで宝の地図を探しに出掛けるようで、
心は温かかったのを覚えている。

しかし、辟易したのは“職務質問”である。
城探しには不思議とパトカーとの相性がいい。
パトカーと行き会えば、必ずと言っていいほど止められた。
マイクで、「そこの君、止まりなさい」と言われたこともある。

悪いことは何一つしていないのだが、
決して気分のいいものではない。
近くで農作業をしている人がいれば、
後ろめたい気分にもなる。

――どこへ行くの?
――仕事は何しているの?
――この自転車はお宅の?

おおよそ共通して訊かれたのはこの3つだ。
相手は仕事とはいえ、詮索されることを好む者はいないだろう。
「堀の内城を見に行くところです」
と、正直に答えても、
首を傾げられるだけだ。

1秒でも不審な目で見られたくないのに、
長く説明などしたくない。
中には城に興味を持つフレンドリーな警官もいたが、
高慢な態度の者もいたことは確かだ。
そうやって、治安は守られているらしい。

地元の城というのは、走り屋でいう「ホーム」みたいなものである。
あるいは「母艦」と言ってもいい。
むろん、地元であるがゆえに無関心という人もいる。
ただ、外に出れば出るほど、ホームの大切さを知る思いがする。

それこそ数え切れないほど羽生城跡をめぐり、
気が付いたことがあればすぐに確認へ行った。
それが癖になって、
いまでは古城天満宮に週に必ず参拝するのが習慣になっている。

関係資料を古書店で買い集め、
ずっと探していたものを見付けたときは、スキップするほど嬉しかった。
食事を抜いて本を買ったことは数知れず、
学術書は高価で手が出ず、5円コピー機で複写しまくり、
待っているおじさんに嫌な顔をされたこともある。

重要資料や冨田先生の論文は、
書き写して体で覚えた。

450年前の姿に思いを馳せ、
車に轢かれそうになったこともある。
何度も通っているのに、民家の犬はぼくを見て必ず吠える。
城兵の化身のごとく、たくさん飼っている家のネコは相変わらずぼくに無関心だ。

いまのところ、羽生城主は夢枕に立っていない。
絵図に見えるような姿を想像するのは困難だが、
いまでは朧気ながら輪郭は見えてきた気がする。

羽生城の話をさせてもらうとき、
いろいろな想いが言葉にこもる。
出会えたことが奇跡だった羽生城研究者の“冨田勝治”先生のことも、
一人でも多くの人に伝えずにはいられない。

144名が参加した福寿学院大学は大きなトラブルもなく、
無事に終了した。
講演は息継ぎ、ということも感じる。
自分の本当のペースで話せるようになってきたのかもしれない。

真冬の城跡めぐりや、
相性のいい警官からの職務質問を経て学んだ羽生城が、
わずかでも受講者の心に残ってくれると嬉しい。
そして生涯学習として、自ら城跡を訪ねたり、
資料を手にとってもらえたら望外の喜びである。

何の目印もない支城のことだから、
見付けるのに苦労する人もいるかもしれない。
そんな苦労や、職務質問で不快な思いをしなくてもいい資料や企画が必要だろう。
羽生城を求める人に、できるかぎり尽力したい。
あの頃、ぼく自身が求めていたように……



堀越館



外の内



風張城遠景



堀の内



亀開城



本光城



堀の内



古城



内手

このほか、花崎城、館山、倚井陣屋がある。



羽生城に興味を持ちはじめた頃のわたし。
羽生城址碑と。


※最初の画像は、古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)から見た夕焼け
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ちょっとマニアな“羽生城”に雨が降ると…… ―ふるさと市民大学―

2009年09月13日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
9月12日の“ふるさと市民大学”は、
雨に煙る羽生城(埼玉県羽生市)めぐりとなる。
古城天満宮のあたりからポツポツ降り始め、
堀越館へ向かっているときに本降りとなる。

「先祖たちも喜んでおります。これは涙雨です」
堀越館の館主はそう言った。
「冨田先生もきっと見ていますよ」と……

「女心と秋の空」という。
雨は強く降ったり、小降りになったりと落ち着かない。

個人的に雨は好きだ。
雨に打たれる堀越館は情緒感溢れていた。
館内に咲く彼岸花も濡れている。

太宰治を模して言う。
堀越館には雨と彼岸花がよく似合う。

雨の中、大人数で羽生城跡を歩くのは初めてだった。
かえって、趣深い城跡巡りになったのではないだろうか。

9月12日をもって、ふるさと市民大学「戦国時代の羽生城」は終了した。
4回にわたって羽生城を語るというのは初めてだったが、
終わってしまえばあっという間だった。
いまはホッとするよりも、寂しさの方が強い。

しかし、羽生城がこれで終わりというわけではない。
つわものどもの夢は、これから始まる――



旗かけの松にて



古城天満宮の鳥居にて



羽生城址碑の前にて



古城天満宮にて



堀越館へ



堀越館にて



堀越館には彼岸花が咲いていた



源長寺にて



高山稲荷神社にて(9月5日、遠田誠也氏撮影)



夕方には土砂降りの雨となる


(撮影者:田口貴子氏)

※9月5日に継いで、お世話になった方々に御礼申し上げます。
 なお、今回の羽生城巡りのために、
 高山稲荷神社の氏子さんたちが境内を掃除して下さった。
 心より御礼申し上げます。
 また、4回にわたって受講して下さった方々に、改めて感謝の意を表します。






(おまけ)
雨が降っていたせいか、
松任谷由実の「雨の街を」が頭の中で流れていた……
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=UeyPIkKx3Ms
庭に咲いているコスモスに口づけをして
垣根の木戸の鍵をあけ表に出たら

あなたの家まですぐにおはようを言いにゆこう
どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう(曲詞:松任谷由実)
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羽生城セットには“味てつ”のラーメンが付く? ―ふるさと市民大学―

2009年09月10日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生武士の“中島さん”は、
「味てつ」を知っていた。
かつて少年野球のコーチをしていたとき、
少年たちを引き連れて店に来たという。

ふるさと市民大学の“羽生城めぐり”のとき、
「終わったら味てつへ行きませんか?」と誘われた。
中島さんと言葉を交わすのはその日が初めてだったが、
以前から拙ブログを読んでいるという。

「クニさんの冨田兄弟の羽生城主生まれ変わり説を読みました。
 お兄さんが“広田直繁”で、冨田先生が“木戸忠朝”の生まれ変わりに違いないと。
 それを聞いたとき、じゃあクニさんは……」

中島さんはそんな話をした。
その名前を耳にしたとき、
「ああ、そんな考えがあるのか」と、
目から鱗が落ちる思いがした。

いままで考えたことのない説である。
輪廻転生を前提とした話だが、
中島さんが「ぜひ小説に書いて下さい」言ったように、
興味深い考えだった。

土曜の昼の「味てつ」は空いていた。
“ジャンボチャーシューメン”を注文する。
歩き疲れた体に、
ラーメンの塩辛さは旨さを引き立たせる。
埋蔵金は見付からなかったが、
事故もなく羽生城めぐりが終わったことにホッとしていた。

ぼくらは羽生城の話をする。
中島さんはぼくにはない知識や視点を持っている人だった。
別の考えを持つ人との会話は、
「敵」と感じなければ得るものが多い。

「今日初めて会ったとは思えないでぇ」
ぼくらの会話を耳にしたてつさんはそう言った。
共通の会話の材料があれば、言葉は尽きない。
言葉を選ぶ必要がない。
だから、引き出しはたくさん持っていたいと思う。

「味てつ」のラーメンは相変わらず美味かった。
B型は熱しやすく冷めやすいというが、
いまのところ羽生城と味てつは飽きていない。

「この前、史談会の人が来たよ。クニさんに美味いって教えられたって」
史談会の大人歴女2人が来店したらしい。
16世紀中頃の戦乱と羽生城について講義したあとだった。
一人は小さな店で食事するタイプではないのだが、
「味てつ」のラーメンをどう感じただろう。

羽生城めぐりの下見をしたときも、
一緒にいたセレブなB型歴女の希望があって、
「味てつ」に連れていった。
彼女は迷わずチャーシューメンを注文したが、
「チャーシューが多くて、いらいいでぇ」の感想を貰う。

この頃は、羽生城と味てつがセットになっている感がある。
羽生城めぐりの夜も幼なじみから食べに行こうと誘われたが、
飲んでいなかったら来店していたと思う。
今度、てつさんに「羽生城ラーメン」を考案してもらおうか……

羽生武士の中島さんとは1時前に別れた。
羽生城で火照った体と、
味てつのラーメンで満腹になった気怠さが心地いい。
帰り道、ふと城跡を振り返れば、
つわものどもの夢がさざめいていた。


「味てつ」(埼玉県羽生市南5丁目)


ふるさと市民大学「戦国時代の羽生城」第4回目(羽生郷土資料館主催)
遠田誠也氏撮影
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羽生城めぐりで“埋蔵金”は見つかるか? ―ふるさと市民大学―

2009年09月08日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城(埼玉県羽生市)は、
まだ本格的な発掘調査はされていない。
だから地中に何が眠っているのかわからない。

騎西城のようにたくさんの遺物が埋まっているかもしれないし、
意表をついて花崎城のごとく障子堀が検出されるかもしれない。
あるいは埋蔵金が……

5月から始まったふるさと市民大学も最終回を迎えた。
魂と愛情をこめて羽生城を語らせてもらったが、
始まってしまえばあっという間だった。
9月12日に終わってしまうことが少し寂しい。

最終回は2班に分けて、羽生城跡を歩くことになっている。
「羽生城」というと、
その址碑が建っている古城天満宮へ行くことが多い。
書籍で紹介されるときもほとんど天神社だ。

しかし、ここが本丸だったわけではない。
絵図で言うと北東に位置している。
本丸の上に立つには、古城天満宮から西へ行かなければならない。

とはいえ、発掘調査がされたわけではないから、
明確に本丸の場所はわからない。
堀跡と言えるものはあるが、
正確には幕末に構築された羽生陣屋の堀である。
羽生城は消えた城郭であり、その謎も深い。

まとまった人数を案内するのは今回で3回目。
個人的なものを合わせると、
両手で数え切れない。
(つまり、ぼくと親しくなると羽生城という特典がついてくる。例え嫌でも)

城跡には工場が建ってるし、
平坦な地面はアスファルトに覆われ、
ときにはお好み焼き屋の香ばしい匂いもしてくる。
城という情緒は皆無に等しい。
そこに立って、誰もが「城」とわかるものではない。

しかし、発掘調査もされず謎を秘めているだけに、
「夢」が眠っていると言える。
まさに、つわどもが夢の跡である。
そこには通説をくつがえすものが埋まっているかもしれないし、
城主や城兵の生きた軌跡が眠っているだろう。

埋蔵金というのも、
あながちでたらめというわけではない。
天正元年(1573)に上杉謙信は軍資金として、
羽生城に「黄金弐百両」を送っている。
もし埋蔵金があるとすればこの2百両ではないか。

「くれぐれも埋蔵金にご注意ください」と、ぼくは言った。
半分冗談で、半分本気である。
もし見付けたら、こっそり山分けしましょうと……

9月5日の野外学習では、
残念ながら「あった!」という声は挙がらなかった。
本当は見付けた人がいただろうか。
もし野外学習の最中に埋蔵金を発見したら、
大きな話題になるだろう。

そのときは、ここぞとばかりに羽生城をアピールしたい。
そして、誰もが城跡とわかるように、
象徴的なもの(例えば物見櫓)を建てよう。

当日は快晴に恵まれた。
民家の飼い犬たちは、
普段見ることのない集団に驚いたのか、
いつもより多めに吠えていた。

本当の最終日になる12日に、
埋蔵金は見つかるだろうか。
特に期待しているわけではない。
発見されなくてもいい。
ただ、講座に参加された羽生武士たちの心に、
つわものどもの夢の跡という宝が残ってほしいと、
切に願う。


羽生城址碑遠景
ここは羽生市指定文化財


古城天満宮の鳥居


羽生城本丸付近と考えられる場所。
コンクリートの蓋に覆われている堀は、
幕末に構築された羽生陣屋の堀跡である。


同上


堀越館へ――
川鍋文子氏撮影


源長寺境内に咲く桜

(おまけ)

今回は足を運べなかったが、
羽生城下町に「通見社」の跡碑が建っている。
ここは羽生城の家臣の屋敷があった場所である。


※この度大変お世話になった東町の区長さん、古城天満宮の総代さん、
 堀越館の館主さん、源長寺のご住職に改めて御礼申し上げます。
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ちょっとマニアな“羽生城”を覗いてみませんか? ―ふるさと市民大学―

2009年09月06日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
ふるさと市民大学「戦国時代の羽生城」の最終回は野外学習である。
実際に羽生城址と、
ゆかりのある館と寺をめぐった。
詳細については後日……


“羽生城址碑”の前にて


“古城天満宮”にて


“曙ブレーキ株式会社”にて


“堀越館”にて


“源長寺”にて


羽生城本丸、二の丸付近にて


“高山稲荷神社”にて

(撮影者:遠田誠也氏・川鍋文子氏)
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羽生城址の“古城天満宮”に参拝すると…… ―ふるさと市民大学―

2009年09月01日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
5月からスタートした講座「戦国時代の羽生城」も大詰めだ。
第4回は野外学習ということで、
羽生城跡を実際に訪ねることになっている。

最初の構想としては、
本城から城下町を1日がかりで歩く予定だった。
しかし、残暑が厳しいのと、
受講者が当初の予定を大きく上回ったのもあって、
歩くのは本城のみとなる。

距離にしておよそ3㎞。
昼には解散する。
近隣の忍城や騎西城のように、
見た目ですぐにわかるシンボル的なものがあるといいのだが、
羽生城は神社に石碑だけが建っている。
しかもそこは本丸ではない。

“堀越館”と呼ばれる中世の遺構が近くにあるので、
いわばそこがシンボルとなろう。
ただ、雑木林に覆われていて、
教えられなければそこが館跡だとはわからない。

個人的には隠れ家的なところが好きなのだが、
見ればすぐにわかるというものではないから、
普遍性は低いかもしれない。
今後この場所をどう活かしていくかによって、
羽生城の知名度も変わっていくだろう。

ところで、「戦国時代の羽生城」というお堅いテーマで3ヶ月やってきたせいか、
思わぬことを言われることがある。
それは、ぼく自身お堅い人間というイメージだ。

「羽生城のことで、恋話とかしなさそうな感じ」
O型の受付嬢にそう言われて、
「ああ、そうなんだ」と思った。
軟派ではないが、ものすごい硬派というわけでもない。

確かに羽生城の関係資料は漢字ばかりだし、
冨田勝治先生をはじめとする学者の先生たちの書く論文は硬派だ。
携帯電話で書けるものではない。

でも、お堅いだけでは羽生入城者数は限定される。
一般的に開かれていないというのは好きではない。

堅いところがあれば、
柔らかいところがなければならない。
城攻めも、城兵の逃げ口を作っておけば落としやすい。
弓もしなやかな方がグングン飛ぶ。

要はバランスだ。
柔らかいばかりで、
硬さがないというのも好きではない。

羽生城主がなぜ上杉謙信に属し続けたのかという話もするし、
恋話も好きだ。
O型の受付嬢とクールな女性の3人で、
年上年下の恋人とつき合うとき、
何歳までなら許せるかという話で盛り上がる。

年上なら自分の親の年齢よりも下で、
年下はとりあえず一回りくらいの差、という結論で落ち着く。
だけど、男と女の立場では微妙に異なるだろう。
「年下」も男から見たのと、
女から見るのとではニュアンスが違う。

「年上」も、好きな人は好きだし、
そうでない人は全くの無関心だ。
そういえば、女子は一度年上の人とつき合うと、
同年代や年下には関心がなくなると言う人がいたが、
それは年齢によって変わっていくらしい。

「こういう話するんですね」
「羽生城より話します」
今度は城デートでもしましょうと笑った。

カップルは羽生城址碑の建つ“古城天満宮”に参拝すると結ばれるかもしれない。
そんなジンクスがあってもいいと思う。
今度、約80名の男女が羽生城址を巡ることになるが、
その中でカップルが誕生するだろうか。
そんな羽生武士カップルが生まれたら、
縁結びの史跡としてアピールすることにしよう。


桜の咲く古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)
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羽生城の最後は、“よこすか海軍カレー”を食べながら……

2009年07月22日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城講座も第3回目を迎える。
気負っている。
ぼくはこの講座に魂を込めている。

やる気は十分。
ボルテージも上がっている。

しかし、その反動だろうか。
講座が近付いてくると、
神経がピリピリしてくるのがよくわかる。

受講者は何を知りたいと思っているのか?
ポイントはどこで、
どうしたら興味深く聞いて貰えるか……

教科書をそのまま口にするのは小学生にでもできる。
要はどういう切り口で、どのような着眼点を持つかである。
それがなくてはならない。

いわば、それが個性であり、
ぼくは冨田先生の弟子であってその学恩を受けているが、
この講座では独自の「羽生城」を描いているつもりだ。
うまく描いているかどうかはさておき……

第3回で屋内での講義は最後だ。
第4回目は野外学習。
つまり、外に出て羽生城跡を訪ねることになっている。

第3回目のテーマは「羽生城の最期」。
永禄3年(1560)から上杉謙信に属した羽生城は、
天正2年(1574)に自落した。
孤立無援に陥り、みすみす落城するのを不憫に感じた上杉謙信が、
城の破却を命じたのである。

これまで「落城」と信じられていた羽生城だったが、
実際は自落とわかったのは冨田先生の研究による。
城内が阿鼻叫喚と化すわけでもなく、
城が炎上したわけではない。
元亀3年(1572)の忍城攻めの際にそうなった可能性はあるが、
あくまでも自落だった。

「輝虎敗北、剰、羽生自落」
と、北条氏政も書き記している(「賜蘆文庫文書」)
ただ、天正18年までは忍城主成田氏の支配を受け、
それ以後は大久保忠隣が城主となった。
天正2年で歴史の幕が下りるというわけではない。

ところで、郷土史家の夏目厚氏が、
「よこすか海軍カレー」というものを持ってきてくれた。
氏とは個人的にもつき合いがある。
一緒に海軍カレーを食べた。

当然のことながら、普通のレトルトカレーと味が異なる。
ピリ辛で食が進んだ。

海の上での生活で曜日を把握させるために、
海軍では金曜日は必ずカレーらしい。
以前、テレビで見たことがある。
隠し味はコヒーなのだとか……

ピリピリしていた神経も和んだ。
いろいろ思うことがあって、
ここに書こうとしていたこともひとまず控えておこう。
楽しいカレーを持ってきてくれた夏目氏に感謝したい。


よこすか海軍カレー


同上

※最初の画像は利根川から上州を望む。
 『小田原編年録』によると、対岸の飯野城兵と一戦交えている。
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“いがまんじゅう”効果はどこまで効く? ―朝日新聞と羽生城―

2009年07月09日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
新聞の影響は大きい。
7月6日付の「朝日新聞」にふるさと市民大学の
「戦国時代の羽生城」が取り上げられると、
しばらく音信不通だった人から「見たよ」と連絡が入ったりする。

具体的に調べたわけではないが、
「埼玉新聞」以外で「羽生城」の文字が大きく載るのは、
これが初めてではないだろうか。
亡き冨田勝治先生は、雲の上でどう見ているだろう。

取材を受けたのは、第2回目の講座直前だった。
朝日新聞の“鬼久保幹男”記者とあいさつを交わし、
控え室で話をした。

それが約10分くらいのことで、
講座が始まると鬼久保記者は写真を撮り始めていた。
新聞に掲載されたのはその1枚だ。
受講者とぼくが写っている。
部屋は若干暗くしていたのだが、明るい写真になっている。

ところで、講座の最初に“いがまんじゅう”について少し話をした。
テレビで取り上げられて以来、
かなり話題になっているという。

そこを導入部にしてだんだん羽生城の話に入り、
最後は“おはぎ”について触れた。
羽生の娘はかつておはぎ作りの名人と言われ、
殿様も好きだったという。
ぼくはこれを『日本伝説叢書』(藤澤衛彦)から知ったが、
掘越美恵子氏によるとわらべ唄にもなっているらしい。

実は講座の前日、いがまんじゅうを食した。
「いがまんを食べると何かいいことがある」
というのがぼくの持論(ジンクス)だ。
もともとハレの日に食すものでとても縁起がいい。
無事に講演が進むことを祈って食べた。

今回のいがまん効果はそれだけではなかったらしい。
S部長から新聞記者が取材に来るかもしれないとの情報を耳にしていたが、
本当に来るとは思わなかった。
特に取材のための準備はしておらず、
訊かれたことを素直に答えた。

話を聞くと、鬼久保記者の当初の構想と、
実際の現場の雰囲気とは違っていたようだ。
この予想外によって、実際に記事に書いてもらえるかどうか怪しくなる。

「もし」、と思う。
いがまんじゅうを食べたから、
無事に新聞に取り上げてくれたのではないかと……
つまり、いがまん効果である。

もし確率が五分だったとしたら、
後押ししたのはいがまんだったのかもしれない。
この不思議な食べ物を思うとそんな気がしてくる。

何か大事な予定を抱えている人は、
いがまんじゅうを食べるとスムーズにいくかもしれない。
かつ、予期せぬことが起こることもあり得るだろう。
あくまでもぼくの持論(ジンクス)なので、
真偽は定かではないが……

ただ、朝日新聞に掲載されたことで、
しばらく音信不通だった人から連絡があったのは事実である。
これをいがまん効果とするか否かは、
次に食したあとの結果に委ねよう。


第1回のふるさと市民大学「戦国時代の羽生城」
遠田誠也氏撮影。


同上


同上


講座の受付が始まる直前に、新井逸子さんと。
副館長の斎藤憲三郎氏撮影。


いがまんじゅう
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出会ってしまったからには…… ―埼玉の文書館―

2009年07月08日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
“埼玉県立文書館”はぼくにとって出会いの場だ。
初めて入館したその日、
たまたま手に取った雑誌に「冨田勝治」の名前を見付けた驚きは、
いまでもはっきり覚えている。

冨田先生は80年以上も羽生城研究をされた在野の学者だ。
その頃ぼくはまだ先生と出会っていなかったが、
意識するわけでもなしに名前だけはよく目に留まっていた。

これは縁というほかない。
その後、70歳も年の離れた先生と直接出会い、
ご指導を受けたことは奇跡だと思っている。

先生と2人だけで出掛けたのは、平成19年の秋だった。
行田市郷土博物館で「忍城主成田氏」の展示が開催され、
そのときの公開講演に一緒に出掛けたのだ。

講師のひとりが“新井浩文”氏で、
演題は「忍城主成田氏~成田氏長を中心に~」。
氏は文書館の方である。
以前『文書館紀要』に、
羽生城と深い関係のある嶋田家文書に関する論文を書いており、
ぼくにはやはり気になる存在だった。

当然、冨田先生と新井氏は面識がある。
「先生にはよく知っている話だと思いますが……」と、新井氏が言い、
「なんでなんで、楽しみにしてましたよ」と、先生が話されていた。

その翌年の4月に冨田先生は帰らぬ人となった。
ただ、ぼくはその後縁あって、
新井氏からご指導を受ける機会に恵まれた。
出会いはつくづく不思議なものだと思う。

なお、新井氏は信濃史学会が発行している「信濃」の最新号(第61巻第6号)に、
冨田先生について触れている。

 二〇〇八年、本県の歴史学関係者にとって大きな衝撃だったのは、同年四月にこれまで本県の中世史、特に戦国史研究を長年リードしてこられた冨田勝治先生の訃報に接したことである(同誌「埼玉県地方史研究の動向」より)

と始まり、冨田先生の業績がそのあと続く。そして、

 後進にとってまだまだ御指導を仰ぎたかっただけにその逝去が悔やまれる。

と、述べている(執筆者は「石坂俊郎・新井浩文・実松幸男」の三者)
氏の冨田先生を偲ぶ気持ちが伝わってくる。
新井氏から直接話を聞くと、
冨田先生の功績がもっと世に広まるべきとの言葉があった。

同掲文にも触れているが、
冨田先生の蔵書は羽生市郷土資料館に寄贈された。
これがひとつのネックだろう。
先生がこれからどう活きるか、
そのカギを握っていると思う。

埼玉の文書館は浦和にある。
埼玉県庁の国道17号を挟んだ向かい側だ。
直接的にしろ間接的にしろ、
歴史をやられている方には避けて通れない館である。

出会いは出会いを呼ぶ。
その出会いは何かを大きく変えるかもしれない。
不意に一変してしまうように思いがちだが、
すでに下地はできているものだ。

関心も下地もなければ、出会うものにも出会えない。
つまり、目の前にそれがあっても気付かずに見過ごしてしまう。
心の琴線を張っていれば、
きっと何かが響く。
それは人であったり、資料であったり……
文書館には、そんな出会いの予感に満ちている。


「信濃」第61巻第6号(信濃史学会)


「忍城主成田氏」展(行田市郷土博物館)

※最初の画像は埼玉県立文書館
 文書館のホームページアドレス
 http://www.saimonjo.jp/01_top/Index.html
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“朝日新聞”掲載のお知らせ ―戦国時代の羽生城―

2009年07月06日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
7月6日付の朝日新聞の埼玉東部に、
羽生郷土資料館主催の「戦国時代の羽生城」が掲載された。

実は、第2回の講座の直前に、
朝日の記者さんから取材を受けたのだが、
見放されずに取り上げてくれた。
タイトルは「謎多い羽生城知りたい」。

7月6日だけの掲載かもしれないが、web上でも公開された(下記URL)
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000000907060006

朝日新聞の記者をはじめ、
声を掛けて下さったS部長と埼玉県立文書館の新井浩文氏、
下羽生の画家君に御礼申し上げます。
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この夏、幻の城に入城しませんか? ―ふるさと市民大学―

2009年05月05日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城の講座が、
埼玉県羽生市で開かれる。
場所は同市立図書館・郷土資料館。

同館が初めて開催する“ふるさと市民大学”の一環で、
タイトルは「戦国時代の羽生城」。
恐縮ながら、わたし高鳥が講師を務めさせていただく。

「城橋」や「城沼」の名は残っても、
羽生城は姿形がない。
その存在すら知らない人がいても珍しくはない。
普段目にしているのだけど見えない城。
それが羽生城だと思う。

この城を80年近く研究された故冨田勝治先生は、
「上杉謙信の属城」と表現した。
周囲の城が小田原の北条氏に属しても、
羽生城だけが謙信に忠節を尽くしたと……

これに異を唱える人もいる。
羽生城は何度か北条氏に属していると……

いずれにしても、両者の対立に巻き込まれたことは間違いない。
「羽生に城なんてあったの?」という声をよく聞くが、
熱い戦国武将たちが、
この地で確かな足跡を残している。
そんな幻と化した城と、
そこに眠っている夢を探っていく予定だ。

講座は全4回。
原則、月1回第4土曜日の午前中に開校する。
概要は以下の通りだが、
羽生市の「お知らせ版」5月号にも載っているので、
参照していただきたい。

なお、申し込みは5月11日(月)から1週間ほど。
会場の広さからして、
定員は先着約30名ほどを予定している。
この夏、幻の羽生城へ入城してみてはいかがだろうか?

<ふるさと市民大学「戦国時代の羽生城」>
羽生城はどこにあり、
どんな歴史を辿ったのか?
幻と化した羽生城とその歴史を探っていきます。

(日時)
5月23(土)、6月27日(土)
7月25(土)、8月29日(土)
午前10~11時30分

(会場)
羽生市立図書館・郷土資料館

(申し込み方法)
5月11日(月)~5月17日(日)まで、
羽生市立図書館・郷土資料館に電話で申し込んで下さい。
048-561-8233




「戦国時代の羽生城」については、
「お知らせ版」5月号にもあるが、
図書館・郷土資料館をはじめ公民館等にも上のようなチラシがあるので、
参照して下さい。
なお、5月9日付の「埼玉新聞」にも掲載されました。




夜の羽生
この町に幻の城が眠る……

※羽生市立図書館・郷土資料館
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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歴史好きではなくとも…… ―“羽生城”へ行きませんか(85)―

2009年03月30日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
両親が羽生城を見たいと言ったので、
案内することにした。
その日は朝から風が強く吹いていた。
羽生市役所に車を停め、そこから歩いて巡る。

ちなみに、両親は歴史好きというわけではない。
母は多少の興味を持っているが、
これまで羽生城の「は」の字にも、
ぶつかったことはないに違いない。

父はどちらかというと体育会系で、
スポーツに関する役員に長年携わっていた。
だから、父を知る人には、
息子のぼくが歴史を調べたり、
物を書いたりしているとは想像もつかないらしい。

うちの先祖は少なくとも江戸時代くらいまでは遡れる。
しかし、文書も記録も何も残っていない。
そのことから察するに、
筆無精な家系なのだと思う。

古い書物もないし、知的に生きた気配もない。
だから、墓参りへ行くたびに、
「羽生城なんて早くやめやっせ」
と、叱りの声が聞こえてくる気がしてならない。

話が少しそれた。
両親が羽生城を見たいという。
大いに歓迎すべき声である。
ふるさと講座や、いきがい大学の人たちを案内したときと同じように、
丁寧に案内する。
コースは以下の通り。

羽生市役所
 ↓
古城天満宮(羽生城址碑あり)
 ↓
堀越館(五輪塔あり)
 ↓
源長寺(伝羽生城主墓碑あり)
 ↓
羽生陣屋
 ↓
高山稲荷神社
 ↓
大天白神社
 ↓
正光寺
 ↓
曼陀羅堀
 ↓
大聖院
 ↓
正覚院(冨田勝治先生の墓参り)
 ↓
市役所

10時頃に出発し、
市役所に戻ったのは昼過ぎだった。
ウォーキングを兼ねての史跡巡りだったと思う。
風がなければ、もっと早くに戻ってきたかもしれない。

生まれも育ちも羽生の両親だが、
初めて目にするものばかりだったという。
ぼく自身、両親と羽生の文化財巡りをするのは初めてだった。
これがこの町の現状だろう。

特筆すべき歴史がすぐ身近にあるのに、
あまり知られていない。
身近すぎるということもあるだろうが、
知らないで過ごしてしまうにはもったいない。

興味があるにせよ、ないにせよ、
知っているか否かでは雲泥の差である。
その知識が、どんなきっかけや縁を運んでくるかわからない。
ましてや、歴史を知らずして新しい発展は望めないのだから……

史跡巡りの最中、父は史跡やそこにある石碑をカメラに写していた。
親戚や友人が家に来るたびに、
それをテレビ画面に繋いで披露しているという。
いわば、父が講師である。

こういうパターンがどんどん増えればいいと思う。
古城天満宮の境内で、母の姿が写っていた。
温泉旅行などに連れていきたいところだが、
しばらくは埋もれた史跡や幻の城跡につき合ってもらうことにしよう。


東谷天神社


堀越館に所在する五輪塔


羽生陣屋の堀跡


高山稲荷神社


大天白神社


正光寺


大聖院


曼陀羅堀


正覚院
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城沼はどこにある? ―“羽生城”へ行きませんか(84)―

2008年12月29日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城は大沼を背景に築かれた平城である。
山城と違って、平地築かれたので、
沼を天然の堀として活用したのだろう。

いまその沼を見ることはできない。
どこもアスファルトに覆われ、車が行き交っている。
しかし、羽生城跡は「東谷」(ひがしや)という地名が長い間使われていた。
「谷」というのはこの場合低地を意味しており、
かつて沼が広がっていたことを窺わせる。

現に、いまでも大雨が降ると、羽生市役所周辺はすぐに浸水する。
市役所が東谷に建てられたのは昭和49年だ。
それ以前は田んぼが広がり、沼も点在しており、
日が暮れると神田明神が祀られている辺りは、
子ども心に恐かったという話も聞いている。
(神田明神は現在地より東にあったという)

「浅野文庫蔵諸国古城之図」と「武陽羽生古城之図」という羽生城絵図を見ると、
いずれも沼に囲まれているのがわかる。
前者の絵図に関しては、東南北の三方向を沼に囲まれており、
まるで沼に浮かぶ島のような城である。
これは羽生近隣の忍城、騎西城、館林城なども同様だ。
時代と共に新田開発が活発化し、
沼は埋め立てられていったのだろう。
後者の絵図を見ると、その埋め立てられている様子がわかる。

「正中年中改定図」や「元禄年中改定図」を見ても、
やはり羽生城の辺りは大沼が描かれている。
かなり大きな沼だったらしく、
言ってみれば、東谷は水はけの悪い場所だったのだろう。
したがって、近世になると、いかに排水をするかが問題になるのである。

さて、羽生市役所も東町公会堂も低地に建てられた建物だ。
往時、そこは湿地帯であり、
城は、大沼に突き出るように存在していた高台に築かれたのであった。
土地の高低差はもっと顕著だっただろう。
現在、東町公会堂から北を望むと、
わずかながら高台になっているのがわかる。
すなわち、その上に羽生城の建物は存在していた。

ゆるやかな坂道で、注意深く見ないと素通りしてしまう。
それほど有るか無いかの微妙な坂道だ。
ただ、アスファルトに覆われ、住宅が密集している現在においては、
城跡が高台にあったことを示すものとなっている。
地味かもしれないが、注意深く見て欲しい場所である。

※画像は羽生市役所の西の道から、北を眺めた光景。
 T字路の信号にぶつかる手前から、なだらかな坂になっている。


東谷の浸水(2008年夏撮影)


同上(羽生警察署付近)
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“羽生城”へ行きませんか(83)

2008年12月27日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
羽生城は見付けづらい。
遺構が全く残っておらず、幻の城となっている。
近隣の忍城や騎西城のようにひと目で城とわかる建物もなく、
案内看板も出ていない。
発掘調査をしているわけではないので、
羽生城跡をはっきり特定することはできないと言えるだろう。

現在のところ、羽生城址碑が建っているのは、
東谷天神社(埼玉県羽生市東5丁目)である。
別名古城天満宮と言い、「羽生城跡」と言うとここを指すことが多い。
かつてここは曲輪になっていて、
“天神曲輪”とも呼ばれていたという。

2008年初夏、羽生に来訪した“鷲宮学園史跡めぐりクラブ”の方々を、
羽生城跡にご案内するのは少々心苦しかった。
城がここにあったと断言することもできず、
あくまでの推測の域を出ない。
「~と考えられている」や、
「~かもしれない」の言葉がどうしても多くなってしまう。

しかし、そこが羽生城の魅力とも言える。
地中にはおそらく遺物が眠っているだろう。
取るに足らないものか、
あるいは重要なお宝が眠っているかもしれない。
幻であるがゆえに想像やロマンが膨らむ。
何の変哲もない町の一角だが、
城跡の手掛かりがきっとそこにはある。

2008年5月23日、鷲宮学園史跡めぐりクラブの方々を羽生城跡へご案内した。
午前は羽生市役所近くの東町公会堂で講義をし、
午後に城跡を歩いた。
参加者は30名近く。
いきがい大学の方たちなので、
羽生市外から来られた方がたくさんいたらしい。

人前で話をさせてもらうとき、
モットーとしているのは自分が楽しむことである。
事務的だったり緊張してガチガチだったりすれば、
話は堅くなって聞いている方もあくびが出てきてしまう。
話者が楽しみながら話をすれば、
語りたい事柄も魅力的に伝わる、とぼくは考えている。

「楽しむ」と言うと不真面目に捉える方もいるが、
語ろうとするものをよく知らなければならないし、
勉強以上に自分の中で消化して発酵させないと、
とても楽しむことはできない。
苦労すればするほど、楽しむことができると言える。
会の方がぼくをご指名してくれたこともあって、
全身全霊で講義させていただいた。

講義が終わったあと、東町公会堂で昼食を食べた。
1時間もなく、やや急ぎの昼食だった。
午後は外に出て、いよいよ羽生城巡りである。
5月の末とはいえ、夏のような陽気だった。
我々は“東町公会堂”を出て北へ向かう。
すなわち、羽生城へ――
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