こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、4月の鳥取県・伯耆(ほうき、鳥取県西部)にある大山(だいせん)からの風景の続きで、大山北西側の中腹にある大山寺(だいせんじ)です。
最初は、大山の北壁の写真からです。最高峰の剣ヶ峰(標高1,729m)を含めたいくつかの峰からなる山で、南壁と共に、山の険しい表情を見せています。百名山の一つとしても知られています。
山陰地方の歴史は古く、日本最古の書物「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」に書かれた出雲(いずも、現在の島根県)のスサノオのヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説や、因幡(いなば、現在の鳥取県・東部)の白兎(しろうさぎ)で有名な大国主(おおくにぬし)の伝説で知られ、大和王権(やまとおうけん)誕生前の日本神話の時代まで遡る(さかのぼる)ことになります。
この山陰地方から望むことができる大山(だいせん)は、仏教到来以前の古くから信仰の山として栄えてきました。
奈良時代初期の養老年間に山岳信仰の山として開かれ、奈良時代末期に編纂(へんさん)された「出雲国風土記(いずものくにふどき、奈良時代の島根県の地誌)」によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、「大いなる神の在ます山」とあがめてきました。
「出雲富士(いずもふじ)」や「伯耆富士(ほうきふじ)」と呼ばれ、西から見ると富士山のような秀麗な姿を見せる大山も、北から見ると北壁と呼ばれる斜面が並び、山岳信仰の厳しさを現す一面を見せています。
下の写真は、大山寺・入り口にある山門です、
【大山寺(だいせんじ)】 天台宗(てんだいしゅう、平安時代の僧・最澄(さいちょう)が開祖)
大山寺は奈良時代に始まる山岳信仰の霊場の一つ。
(1)本尊(ほんぞん)は地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)で、奈良時代・初期の養老年間に金蓮上人(依道)が草庵をむすび地蔵菩薩を祀ったことが起源と伝わります。
下の写真は大山北壁の写真ですが、谷に残る残雪と岩が、今も人を寄せ付けない山の厳しさを感じさせます。
大山寺も元々は、奈良時代に成立した山岳信仰の霊場でした。
「大山寺縁起」によると、出雲の猟師であった依道(よりみち)が海より出てきた金色の狼(おおかみ)を追って大山に入り弓矢を放った所、矢の前に地蔵菩薩が現れ、信心が起き、弓矢を捨てる。
かの狼はいつの間にか老尼となりて、依道に話しかけ、仏の道を説きます。そして、依道は出家して、金蓮上人となって修練や修行を続けたという話が残ります。
山岳信仰が盛んになる中、昔は徒歩で大山に登りますので、大山の四方には登山ルートの古道が発達していきます。
大山(だいせん)の参拝者は、古くから牛馬を連れて参拝していたそうです。
その習慣は、平安時代の基好上人が「大山寺の地蔵菩薩は牛馬守護の仏である」と唱えて、牛馬安全の守護札を施与した事が始まりと伝えられています。この札を受ける為に、参拝者は牛馬に荷物を乗せて、大山寺を参拝するようになり、いつしか互いの牛や馬を比べて交換するようになったことから牛馬市へ繋がっていったとされます。
下の絵は、江戸時代に鳥取県・大山町で開かれていた牛馬市・博労座(ばくろうざ)の絵です。
江戸時代の享保年間(8代将軍・徳川吉宗の時代)頃に組織的に発展し、福島の「白河馬市」、広島の「久井牛市」と並んで日本三大牛馬市の一つとなるほどにぎわいました。
古代から近世までの農耕社会であった日本においては、牛馬は田畑を耕す大事な生産力として扱われていた事を示す話とも言えます。
下の写真は、大山寺の山門前にある牛霊碑です。
この大山の牛馬市は1年に数回開催されて、一度に3000~4000頭の取引があったとされています。
博労座の牛馬市は、昭和12年まで続き、大山が国立公園になる時に、その長い歴史に幕を閉じました。
下の写真は大山寺の境内にあった宝牛(たからうし、撫牛(なでうし))です。
現代でも、大山寺の近くにある「大山情報館」周辺の駐車場の一部を博労座駐車場と呼ぶこともあるそうです。
山岳信仰の流れは、いつしか伝説上の生き物であった天狗(てんぐ)と結びつき、天狗が山の神として、民間信仰の対象となっていきます。
下の写真は、大山寺への参道登り坂にある建物(店?)にあった八天狗・大山の伯耆坊の像です。
(大山の伯耆坊については、「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」の後半に書きましたので、省略します。)
(2)平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の大きな拠点となります。
下の写真は、大山寺・本堂の脇にある天台密教による護摩供を行う護摩堂(ごまどう)です。
「伯耆の大山」は、「僧坊百六十坊」、「僧兵三千人」の言葉のように、その勢力の大きさを伝えています。
中国地方一帯の信者に対する影響力から、尼子氏・毛利氏などの戦国大名や国人領主は、お寺の造営・修理や寄進などにより関係を深めて、領国の安定を図ってきたようです。
(お詫び)急いで作成した為、本坊と本堂を混同いたしましたので、以下の文を訂正しました。
(3)その後の戦乱の世の中にあって、大山寺は衰退していきましたが、
江戸時代の慶長年間に、豪円僧正が二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)から寺領3,000石を認められることになり、大山寺は復興の時代を迎える事になります。この当時は西楽院(さいらくいん)が寺の政務をおこなう場所でした。
下の写真が現在の本坊西楽院跡(ほんぼうさいらくいいんあと)にある本坊です。
(4)江戸時代までは、大山寺の中に大神山神社がありました。明治時代になると、時代が変わります。お寺より神社の方が重要視されるようになり、明治8年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、大神山神社として扱われ、大山寺との号が廃止となります。
大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿(現在の大神山神社奥宮)を大神山神社に引き渡し、大日堂に移ることになります。
これにより大山寺は急激に衰退することになります。時代が進むと、廃仏毀釈の行動が行き過ぎとして認識されるようになり、明治36年になると、「大山寺」の号が復活することになります。
当時の仮本堂も昭和3年の火災で焼失してしまい、昭和26年になって、下の写真の現在の大山寺の本堂が再建されたそうです。
大山寺の話が続くのですが、前回のブログと日数が空きましたので、前半を先に更新して、話の続きを作ります。
過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
(ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)
(2)大山の伯耆坊については、下のブログの中間にあります。
「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」
今回は、これで終了とさせていただきます。
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今回は、4月の鳥取県・伯耆(ほうき、鳥取県西部)にある大山(だいせん)からの風景の続きで、大山北西側の中腹にある大山寺(だいせんじ)です。
最初は、大山の北壁の写真からです。最高峰の剣ヶ峰(標高1,729m)を含めたいくつかの峰からなる山で、南壁と共に、山の険しい表情を見せています。百名山の一つとしても知られています。
山陰地方の歴史は古く、日本最古の書物「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」に書かれた出雲(いずも、現在の島根県)のスサノオのヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説や、因幡(いなば、現在の鳥取県・東部)の白兎(しろうさぎ)で有名な大国主(おおくにぬし)の伝説で知られ、大和王権(やまとおうけん)誕生前の日本神話の時代まで遡る(さかのぼる)ことになります。
この山陰地方から望むことができる大山(だいせん)は、仏教到来以前の古くから信仰の山として栄えてきました。
奈良時代初期の養老年間に山岳信仰の山として開かれ、奈良時代末期に編纂(へんさん)された「出雲国風土記(いずものくにふどき、奈良時代の島根県の地誌)」によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、「大いなる神の在ます山」とあがめてきました。
「出雲富士(いずもふじ)」や「伯耆富士(ほうきふじ)」と呼ばれ、西から見ると富士山のような秀麗な姿を見せる大山も、北から見ると北壁と呼ばれる斜面が並び、山岳信仰の厳しさを現す一面を見せています。
下の写真は、大山寺・入り口にある山門です、
【大山寺(だいせんじ)】 天台宗(てんだいしゅう、平安時代の僧・最澄(さいちょう)が開祖)
大山寺は奈良時代に始まる山岳信仰の霊場の一つ。
(1)本尊(ほんぞん)は地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)で、奈良時代・初期の養老年間に金蓮上人(依道)が草庵をむすび地蔵菩薩を祀ったことが起源と伝わります。
下の写真は大山北壁の写真ですが、谷に残る残雪と岩が、今も人を寄せ付けない山の厳しさを感じさせます。
大山寺も元々は、奈良時代に成立した山岳信仰の霊場でした。
「大山寺縁起」によると、出雲の猟師であった依道(よりみち)が海より出てきた金色の狼(おおかみ)を追って大山に入り弓矢を放った所、矢の前に地蔵菩薩が現れ、信心が起き、弓矢を捨てる。
かの狼はいつの間にか老尼となりて、依道に話しかけ、仏の道を説きます。そして、依道は出家して、金蓮上人となって修練や修行を続けたという話が残ります。
山岳信仰が盛んになる中、昔は徒歩で大山に登りますので、大山の四方には登山ルートの古道が発達していきます。
大山(だいせん)の参拝者は、古くから牛馬を連れて参拝していたそうです。
その習慣は、平安時代の基好上人が「大山寺の地蔵菩薩は牛馬守護の仏である」と唱えて、牛馬安全の守護札を施与した事が始まりと伝えられています。この札を受ける為に、参拝者は牛馬に荷物を乗せて、大山寺を参拝するようになり、いつしか互いの牛や馬を比べて交換するようになったことから牛馬市へ繋がっていったとされます。
下の絵は、江戸時代に鳥取県・大山町で開かれていた牛馬市・博労座(ばくろうざ)の絵です。
江戸時代の享保年間(8代将軍・徳川吉宗の時代)頃に組織的に発展し、福島の「白河馬市」、広島の「久井牛市」と並んで日本三大牛馬市の一つとなるほどにぎわいました。
古代から近世までの農耕社会であった日本においては、牛馬は田畑を耕す大事な生産力として扱われていた事を示す話とも言えます。
下の写真は、大山寺の山門前にある牛霊碑です。
この大山の牛馬市は1年に数回開催されて、一度に3000~4000頭の取引があったとされています。
博労座の牛馬市は、昭和12年まで続き、大山が国立公園になる時に、その長い歴史に幕を閉じました。
下の写真は大山寺の境内にあった宝牛(たからうし、撫牛(なでうし))です。
現代でも、大山寺の近くにある「大山情報館」周辺の駐車場の一部を博労座駐車場と呼ぶこともあるそうです。
山岳信仰の流れは、いつしか伝説上の生き物であった天狗(てんぐ)と結びつき、天狗が山の神として、民間信仰の対象となっていきます。
下の写真は、大山寺への参道登り坂にある建物(店?)にあった八天狗・大山の伯耆坊の像です。
(大山の伯耆坊については、「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」の後半に書きましたので、省略します。)
(2)平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の大きな拠点となります。
下の写真は、大山寺・本堂の脇にある天台密教による護摩供を行う護摩堂(ごまどう)です。
「伯耆の大山」は、「僧坊百六十坊」、「僧兵三千人」の言葉のように、その勢力の大きさを伝えています。
中国地方一帯の信者に対する影響力から、尼子氏・毛利氏などの戦国大名や国人領主は、お寺の造営・修理や寄進などにより関係を深めて、領国の安定を図ってきたようです。
(お詫び)急いで作成した為、本坊と本堂を混同いたしましたので、以下の文を訂正しました。
(3)その後の戦乱の世の中にあって、大山寺は衰退していきましたが、
江戸時代の慶長年間に、豪円僧正が二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)から寺領3,000石を認められることになり、大山寺は復興の時代を迎える事になります。この当時は西楽院(さいらくいん)が寺の政務をおこなう場所でした。
下の写真が現在の本坊西楽院跡(ほんぼうさいらくいいんあと)にある本坊です。
(4)江戸時代までは、大山寺の中に大神山神社がありました。明治時代になると、時代が変わります。お寺より神社の方が重要視されるようになり、明治8年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、大神山神社として扱われ、大山寺との号が廃止となります。
大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿(現在の大神山神社奥宮)を大神山神社に引き渡し、大日堂に移ることになります。
これにより大山寺は急激に衰退することになります。時代が進むと、廃仏毀釈の行動が行き過ぎとして認識されるようになり、明治36年になると、「大山寺」の号が復活することになります。
当時の仮本堂も昭和3年の火災で焼失してしまい、昭和26年になって、下の写真の現在の大山寺の本堂が再建されたそうです。
大山寺の話が続くのですが、前回のブログと日数が空きましたので、前半を先に更新して、話の続きを作ります。
過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
(ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)
(2)大山の伯耆坊については、下のブログの中間にあります。
「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」
今回は、これで終了とさせていただきます。
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