紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

洋書店の思い出

2005-10-04 16:36:42 | 日記
このブログの読者の一人である、ゼミのK君が、「先生のこの前のブログ、難しすぎましたよ」と言ってきた。説明変数の話はなかなか分かりやすく解説しにくく、学生に読んで欲しくて書いたのだが、あまりうまく行かなかったようだ。K君は村上春樹の小説を貸してくれて、「先生、これでブログ書いてください」とか、イギリスからふざけた絵本を買ってきて、「これをネタにしてください」とか、いろいろリクエストを出してくるのだが、注文されて書けるほど器用ではないので、今日はたまたま目にした、洋書専門店の危機について書いてみたい。

毎日新聞-MSNニュースの10月4日の記事によると、ネット書店の普及で老舗の洋書専門店が苦戦しており、東京・神田・神保町の北沢書店も売り場を縮小したそうだ。この北沢書店にはいろんな思い出がある。一階は天井が高く、各種専門書が身長の二倍くらいある本棚に所狭しと収まっていて、ここに入ると外国に来た気分になれた。二階は革表紙の貴重本を販売していて、さらに格調高い雰囲気が味わえた。アメリカが「新世界」と分類されているのも古いイギリスの書店に来ている錯覚に陥らせてくれた。私の研究テーマであるアメリカ政治やアメリカ社会に関しての新刊本は、新宿の紀伊国屋書店の方が品揃えがよかったので、紀伊国屋書店か、東京駅前の八重洲ブックセンターを主に利用していたのだが、北沢書店を訪ねるのは本を買うより、洋書を眺める気分を味わう意味が大きかった。森鴎外など明治期の小説にも登場する丸善は、バーバリーや文房具の売り場の方が充実していて、院生が必要とするような専門書は少なかった。しかし文明開化の時代から舶来品を総合的に扱うのが、丸善の特長だったようだ。

修士論文のテーマが決まらず悩んでいた時、博士課程で何か新しい研究書を定例報告で紹介しなければならなかった時、ネタ探しに洋書店をよく訪れ、そこで何時間もつぶしたものだった。博士課程の時代には既にアマゾン・コムやバーンズ・アンド・ノーブルなどのオンライン書店も利用していたのだが、洋書はタイトルや紹介文だけで選ぶと、ハズレを掴まされる可能性が高い。特に日本の洋書専門店が発行しているカタログは日本語の紹介タイトルをつけるのがうまく、それに騙された教員も数知れないことだろう。大学の図書館に同じ洋書が何冊も入っていて、肝心な基本書が抜けていたりするのも、洋書店のカタログの説明の効果ではないかといつも疑っている。実際に店舗で手にとって選ぶと、値段はオンラインで買う倍くらいしても、確実に必要な本を選べるので、やはり出来れば店頭で見たいと思う。

国立大学は注文の手続きが面倒なので大学出入りの洋書専門店が繁盛したが、今はネットで出来るようになったので、値段の割高な洋書屋よりも、オンライン書店を使うようになったと記事では分析している。全くその通りで、新刊動向を多忙な毎日の中、チェックし、かつ繁雑な注文入力作業をするのは大変なので、校費や研究費で買う分は、ついつい出入りの洋書店に頼ってしまっているが、私費で買う本はほとんどオンラインで注文している。いずれにしても身近に洋書専門書の品揃えがいい本屋がないのは寂しいもので、北沢書店が懐かしく思い出される。

大学院時代の指導教授は、「自分の学生時代は、洋書を読まされるのが嬉しくて仕方なかったが、今の院生諸君は、洋書を嫌がって日本語でごまかそうとするんだな。洋書を使ったとたん、確実に不人気ゼミになる」などとよく嘆いていた。外国に関心がある学生や留学する学生が多いせいか、うちの学部生たちはイマドキの学生にしては英文や外国語を読もうと努力しているように感じられるが、大学院生たちは研究者予備軍でありながらもあまり原書を読もうとしない。確かに外国ニュースや外国の情報もインターネットを使うと日本語でかなり手に入るのだが、二次情報でなく、少しでも自分でオリジナルな情報に当たろうとしないのは残念な傾向だ。私が院生の時は、指導教授に日本語の本は使うなと言われた。日本語の本を全く使わないのも先行研究を無視することになるし、どうかと思うが、いわば退路を断って、英語を読まざるを得なくしたのだろう。それだけ日本でも英書を読まされていても、留学生活の1年目はただひたすら辞書ばかり引き続けていた記憶がある。未だに知らない単語も多いし、単語は覚えても覚えても一方で忘れる。ざるで水をすくっているようなものだ。洋書を読まない院生というのは、そうした努力全てを放棄していることになろう。

洋書専門店対オンライン書店の対決も深刻だろうが、大学の教員だけでなく、院生自体が洋書をますます読まなくなったら、ますます洋書店の経営が苦しくなっていくに違いない。大学院生の数は爆発的に増加しているはずだが、それに見合うだけの洋書の売上が上がってないのは想像に難くない。今、別の大学で教員になっている友人とは修士課程時代に、どっちが先に新しい洋書を読むのかを競って、読んでいた気がする。先輩学者たちにもその手のエピソードが多い。大学院というものは全く変わってしまったのかもしれない。

洋書の専門書を読むのは、日本語の専門書を読んでいる時のように「分かった気になる」ごまかしがきかない。日本の学術・研究水準もあらゆる分野で高くなってきたし、日本語でも読まねばならない先行研究が山積しており、輸入学問を脱してきたことは喜ばしいことではあるが、外国語の専門書と格闘することで得られる知的刺激や論理トレーニングは今でも修行時代の大学院生には必要な不可欠なはずだ。毎年、大学院の授業のテキストを選ぶ際に、「英語が嫌だ」、「教材の論文が長すぎる」と言った学生たちの声を聞くたびに何しに大学院に来ているのかと思うと同時に、洋書店で新しい学問に触れる原初的な喜びをまだ知らないのが可哀想だとも思う。