1時間以上かけて通学していた学生時代と違って、今は電車通勤をしていないので移動時間に物を考えることがなくなってしまい、長距離移動といえばたまにアメリカに行ったり、また時々、新幹線で上京する程度になってしまった。さすがに14、5時間のフライトは長いと感じるが、それでも昔の小説に出てきた船旅の時代を思えば、一瞬である。明治や大正時代の小説を読んでいると、何か目的を終えて、渡航先から帰国する船上で考えたことが効果的に描写されているのに気づかされる。
出張でも旅行でもそうだが、往路は目的地についてからスケジュールなどを期待と不安を交えて考えているから、しみじみと物思いに耽ることは少ないのかもしれないが、帰路が長い場合、なかなか行けない場所や二度と訪れることのない場所から帰ってくる場合などは、やり残してきた数々の事柄に後ろ髪を引かれる思いで機中や車中を過ごす人も多いのではないだろうか?
そんな小説の場面をランダムに挙げてみると、まずは誰もが高校の『現代文』で習う、森鴎外の『舞姫(1890)』である。この小説の冒頭の場面は、エリスを捨ててドイツから日本へ帰国する船上での豊太郎の回想で始まっている。
げに東に帰る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心頼みがたきは言うもさらなり。われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。昨日の是は今日の非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別にゆえあり(『舞姫』)。
エリスとの恋愛関係を無責任で乱暴な形で放棄して、日本での出世街道に戻っていく韜晦の念、思い出の美化と、状況や自分に対する後悔の念と言い訳が長い船旅の中で綴られていくという構図になっている。実際、洋行した小説家たちが数々の経験やアイディアを小説の構想として昇華させたり、完成させたりするのに船旅は極めて有効だったのだろう。
鴎外の小説と比べると今日、あまり読まれなくなったと思うが、武者小路実篤の『愛と死(1939)』も印象的な帰りの船旅の場面が出てくる。主人公の野々村は親友・村岡の妹・夏子と婚約直後に半年ほどパリに遊学する。後半は洋行中の野々村と夏子が毎日のようにやりとりした手紙が載せられているのだが、当時、大流行したスペイン風邪にかかって夏子は死んでしまい、日本への帰りの船中にあった野々村のもとに夏子死去の電報が突然届く。戦前の日本ながら、人前で宙返りして見せるような健康快活な少女として描かれているだけに、あっけない病死がインパクトがあり、悲劇的である。
僕は誰もいないところを探したが、船の中だし、二等だったので同室のものが二人もいるので、心ゆくばかり泣くわけにもゆかなかった。人が寝静まってあたりがしんとしているなかを、声がもれないように忍び泣いた。しかし人々は僕の様子を変に思った。今頃僕はなんとなく元気にしていた。ところがぼくは飯もろくに食べずに誰もいないところ逃げては鳴き、隠しても隠し切れない泣きはらした目をしている。人々は僕の許婚が死んだことを知った。僕は黙っていられなかった。人々は同情してくれたが、その同情も僕の頃に届かない。人々は僕に万一のことがありはしないかと注意した。もう自分は船が進むのが遅いと思わなくなった。日本へつくのがかえって恐ろしくなった。(『愛と死』)
鴎外の『舞姫』でも船中での主人公の様子がおかしいのを他の船客が気にする場面がでてくるのだが、自分で小説を書きながら泣いてしまうほどナイーブな武者小路だけに、鴎外と違って、気取らない、ストレートな描写である。電報の直前までは早く夏子と再会したいと船の速度の遅さを呪っていたのが一転して、悲しく分かりきった現実が待つ日本へ帰りたくなくなる。船旅の残酷さが小説的な効果をあげている。
船ではない長距離移動でも印象的な文学描写がある。文庫で手に入らないので読んだ方は少ないかもしれないが、帝政ロシアの文豪ツルゲーネフの『けむり(1867)』の車窓を眺めるシーンも印象的である。主人公のリトヴィーノフはモスクワでの学生時代の恋人で運命と家族に引き裂かれたイリーナとドイツの保養地・バーデンバーデンで十年ぶりに再会するが、彼女は今はラトーミロフ将軍夫人として社交界の花形となっている。リトヴィーノフ自身にも婚約者がいる。昔の恋愛感情がお互いに再燃するが、社交界を唾棄すべき存在として語りながらも結局はそこから離れられないイリーナに愛憎半ばし、優柔不断なリトヴィーノフも最後には別れを決意してロシアに帰ろうとする。その帰りの汽車の車窓からたちあがる蒸気をながめながら
『煙だ、煙だ』と彼は何べんか繰り返した。と不意に、何もかもが煙のような気がしてきた。自分の生活も、ロシヤの生活も―人間世界のいっさいのもの、とりわけロシヤのいっさいのものが。『みんな煙なんだ、蒸気なんだ』と彼は思った。『みんな絶えず変化しているように見えはする。どこを見ても新しい形でまた形で、現象を追って走っているけれど、実のところは、みんな相変わらずなのだ。もとのままなのだ。いっさいがせわしげに、どこかへ急いで行くが―結局は何も手に入らず、跡形もなく消えてしまう。風向きが変われば、すべてはさっと反対側になびいて、そこでもまた相も変らぬ、性懲りも無い、騒々しい、しかも無益な戯れが始まるのだ』。ここ数年の間に、彼の目の前で鳴り物入り爆竹入りで行なわれた、数々のぎょうさんな出来事が思い出された。『煙だ』と彼はつぶやいた。『煙だ』(『けむり』、神西清訳)
けむりに限らず、車窓の風景は一瞬目の前にあるときは『現実』だが、次から次へと流れ去って、忽ちに『過去』となってしまう。長時間の移動中には、時間や人生の意味とはかなさとをしみじみ痛感させられる。そんな気持ちをこの描写はうまく表現している。
船や汽車での長旅を強いられたことが、作家たちが文学的なイマジネーションを膨らます、よき土壌となったのかもしれない。IT化や生活の全ての面でのスピード化はそれに見合ったケータイ文学しか生み出せないのだろうか?そう考えると長すぎる移動も悪くないのだろう。
出張でも旅行でもそうだが、往路は目的地についてからスケジュールなどを期待と不安を交えて考えているから、しみじみと物思いに耽ることは少ないのかもしれないが、帰路が長い場合、なかなか行けない場所や二度と訪れることのない場所から帰ってくる場合などは、やり残してきた数々の事柄に後ろ髪を引かれる思いで機中や車中を過ごす人も多いのではないだろうか?
そんな小説の場面をランダムに挙げてみると、まずは誰もが高校の『現代文』で習う、森鴎外の『舞姫(1890)』である。この小説の冒頭の場面は、エリスを捨ててドイツから日本へ帰国する船上での豊太郎の回想で始まっている。
げに東に帰る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心頼みがたきは言うもさらなり。われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。昨日の是は今日の非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別にゆえあり(『舞姫』)。
エリスとの恋愛関係を無責任で乱暴な形で放棄して、日本での出世街道に戻っていく韜晦の念、思い出の美化と、状況や自分に対する後悔の念と言い訳が長い船旅の中で綴られていくという構図になっている。実際、洋行した小説家たちが数々の経験やアイディアを小説の構想として昇華させたり、完成させたりするのに船旅は極めて有効だったのだろう。
鴎外の小説と比べると今日、あまり読まれなくなったと思うが、武者小路実篤の『愛と死(1939)』も印象的な帰りの船旅の場面が出てくる。主人公の野々村は親友・村岡の妹・夏子と婚約直後に半年ほどパリに遊学する。後半は洋行中の野々村と夏子が毎日のようにやりとりした手紙が載せられているのだが、当時、大流行したスペイン風邪にかかって夏子は死んでしまい、日本への帰りの船中にあった野々村のもとに夏子死去の電報が突然届く。戦前の日本ながら、人前で宙返りして見せるような健康快活な少女として描かれているだけに、あっけない病死がインパクトがあり、悲劇的である。
僕は誰もいないところを探したが、船の中だし、二等だったので同室のものが二人もいるので、心ゆくばかり泣くわけにもゆかなかった。人が寝静まってあたりがしんとしているなかを、声がもれないように忍び泣いた。しかし人々は僕の様子を変に思った。今頃僕はなんとなく元気にしていた。ところがぼくは飯もろくに食べずに誰もいないところ逃げては鳴き、隠しても隠し切れない泣きはらした目をしている。人々は僕の許婚が死んだことを知った。僕は黙っていられなかった。人々は同情してくれたが、その同情も僕の頃に届かない。人々は僕に万一のことがありはしないかと注意した。もう自分は船が進むのが遅いと思わなくなった。日本へつくのがかえって恐ろしくなった。(『愛と死』)
鴎外の『舞姫』でも船中での主人公の様子がおかしいのを他の船客が気にする場面がでてくるのだが、自分で小説を書きながら泣いてしまうほどナイーブな武者小路だけに、鴎外と違って、気取らない、ストレートな描写である。電報の直前までは早く夏子と再会したいと船の速度の遅さを呪っていたのが一転して、悲しく分かりきった現実が待つ日本へ帰りたくなくなる。船旅の残酷さが小説的な効果をあげている。
船ではない長距離移動でも印象的な文学描写がある。文庫で手に入らないので読んだ方は少ないかもしれないが、帝政ロシアの文豪ツルゲーネフの『けむり(1867)』の車窓を眺めるシーンも印象的である。主人公のリトヴィーノフはモスクワでの学生時代の恋人で運命と家族に引き裂かれたイリーナとドイツの保養地・バーデンバーデンで十年ぶりに再会するが、彼女は今はラトーミロフ将軍夫人として社交界の花形となっている。リトヴィーノフ自身にも婚約者がいる。昔の恋愛感情がお互いに再燃するが、社交界を唾棄すべき存在として語りながらも結局はそこから離れられないイリーナに愛憎半ばし、優柔不断なリトヴィーノフも最後には別れを決意してロシアに帰ろうとする。その帰りの汽車の車窓からたちあがる蒸気をながめながら
『煙だ、煙だ』と彼は何べんか繰り返した。と不意に、何もかもが煙のような気がしてきた。自分の生活も、ロシヤの生活も―人間世界のいっさいのもの、とりわけロシヤのいっさいのものが。『みんな煙なんだ、蒸気なんだ』と彼は思った。『みんな絶えず変化しているように見えはする。どこを見ても新しい形でまた形で、現象を追って走っているけれど、実のところは、みんな相変わらずなのだ。もとのままなのだ。いっさいがせわしげに、どこかへ急いで行くが―結局は何も手に入らず、跡形もなく消えてしまう。風向きが変われば、すべてはさっと反対側になびいて、そこでもまた相も変らぬ、性懲りも無い、騒々しい、しかも無益な戯れが始まるのだ』。ここ数年の間に、彼の目の前で鳴り物入り爆竹入りで行なわれた、数々のぎょうさんな出来事が思い出された。『煙だ』と彼はつぶやいた。『煙だ』(『けむり』、神西清訳)
けむりに限らず、車窓の風景は一瞬目の前にあるときは『現実』だが、次から次へと流れ去って、忽ちに『過去』となってしまう。長時間の移動中には、時間や人生の意味とはかなさとをしみじみ痛感させられる。そんな気持ちをこの描写はうまく表現している。
船や汽車での長旅を強いられたことが、作家たちが文学的なイマジネーションを膨らます、よき土壌となったのかもしれない。IT化や生活の全ての面でのスピード化はそれに見合ったケータイ文学しか生み出せないのだろうか?そう考えると長すぎる移動も悪くないのだろう。