紅旗征戎

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知識人論の落とし穴-サイードの『知識人とは何か』を読む-

2006-06-18 00:06:51 | 思想・哲学・文明論
高校生の時、例えば丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)を読んでみてもなかなか理解できないのは、例えばカール・マンハイム(1893-1947)の『イデオロギーとユートピア』(1929)に出てくる「存在被拘束性」の概念とか、さりげなく専門的な哲学・思想用語がちりばめられている点にあるのだろう。大学に入って、近代社会思想を学んだ時にこのマンハイムに触れたのだが、簡単に言えば、人間の思想や考え方、政治的意見などは、その人の社会経済的な立場に影響されているということである。

例えば南北戦争期のアメリカなら、商工業中心のアメリカ北部都市は奴隷解放により、解放奴隷が都市の労働力不足を補うのに役立つから奴隷解放賛成であったし、奴隷労働に依存するプランテーション農業中心の南部は経済的に死活問題なので反対する、という具合に、一見、奴隷制賛成か反対かという人道上・道徳上の意見も、生活基盤が商業か農業か、北部か南部かということによって異なってしまう。このように政治意識が経済社会基盤に左右されていることを、マンハイムは「存在被拘束性」と呼んだである。

しかしマンハイムの言いたかったことは、単にすべての人の意識が社会経済的条件に縛られているということではなかった。そうした生活や経済事情に拘束されない、「浮遊する知識階級」こそ、彼が夢見た理想像だったのである。マンハイム以後の様々な知識人論においても、この「特定の階級や階層、体制の代弁者でない知識人」というイメージが、数々の批判を受けながらも一つのモデルとなってきたことは間違いないだろう。

一方で「知識人」論は落とし穴がある。「知識人」論を語る人は多くの場合、「知識人」を自認している人であろう。その場合、その知識人論は著者が理想とする、あるいは著者が実践しているタイプの「知識人」こそが真の「知識人」であって、他の人たちは、非知識人か、エセ知識人だと切り捨てられることになる。自分が「御用学者」だと考える人は少ない。いきおい「体制派知識人」論というものはほとんどなく、多くは「反体制派知識人」の勧めである。しかし実際にはそうした自称「反体制派」知識人と体制との距離も様々であり、どの知識人論も鍵括弧つきの「知識人」論に過ぎないと思って、まずは読むべきだろう。

パレスチナ系学者としてニューヨークのコロンビア大学で比較文学を講じていた故エドワード・サイード(1935-2003)については多言を要しないだろう。彼の『オリエンタリズム』という言葉は、文化研究のキータームとして定着したし、『イスラム報道』や『戦争やプロパガンダ』といった論文集は911以後、日本でも幅広く読まれた。ユダヤ系知識人や言論人が圧倒的に多い中で、英米メディアでも活躍する数少ないパレスチナ系知識人として影響力を持った人である。

サイードがイギリス・BBC放送のリース講演として行なった連続講義をまとめたのが、本書、『知識人と何か(原題 知識人の表象)』(平凡社、1998)である。サイードは知識人とは、「特定の職務をこなす有資格階層」ではなく、公衆に向かって、メッセージなり思想なり哲学なりを表象・代弁する能力に恵まれたものであり、「たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意思を失わないこと」(54頁)を使命とする人であるとしている。

サイードによれば、知識人も必ず何らかの国民共同体なり宗教、民族共同体に属しているから、その共同体との絆をどうするか、共同体への忠誠と自分の良心をどう両立させるかの問題に悩まされるが、知識人は実際には移民や故国喪失者でなくても、自らを「知的な亡命者」として考え、すべてを中心化する権威から距離をおいて、周辺に身を置き、「君主より旅人の声に鋭敏に耳を傾け」、「慣習的なものより一時的であやういものに鋭敏に反応し」、「変化を代表し」、決して立ち止まってはならないという。また専門分野の中に安住するのではなく、社会の中で思考し、憂慮し続けるアマチュアとして徹しなければならない。そのためには、必ず「失敗する神」しかいないのだと自覚して、一つの神から次の神へと崇拝の対象を変えるような権威に隷従する姿勢を改めることだとサイードは主張する。

このようにサイードは知識人に対して、かなり高いレベルの道徳的・職業的要求をしているのだが、「警戒をおこたらず信念をまげないことにおいて成功して、なんともいえぬ爽快感を経験したことのあるものは誰しも、この成功がいかに得がたいことか、身にしみて感じているだろう」(192頁)と述べているように、かなりの程度、自らが実践できていると自信をもっているようである。サイード自身がパレスチナ系知識人としての周辺的な立場にあったので、アメリカの知的コミュニティの権力構造に絡め取られてはいないと言い切れる自信があったのだろう。確かにそうなのかもしれない。しかしサイードが知識人の模範の一人として挙げているノーム・チョムスキーにその基準が当てはまるのかどうかは疑問を感じた。

チョムスキーは、生成文法で有名な世界的な言語学者だが、ベトナム戦争以後、アメリカの対外政策を激しく批判し、活発な政治評論活動を続けており、むしろその方面での活動に関心を持っている人も多いだろう。彼自身はフィラデルフィア生まれのユダヤ系アメリカ人だが、イスラエルやイスラエル支持のアメリカ政府の姿勢を批判し、パレスチナ寄りの発言を繰り返していることもあり、サイードから政治的共感を得ているのだろう。しかしサイードが理想とする「知識人」は大学の制度や権威や専門分化の中で安住する知識人ではないということなのだが、1928年生まれ、今年で78になるチョムスキーがマサチューセッツ工科大学の言語学部教授として、未だに引退せず、本業以外の反米的な政治評論活動を続けていることが果たして「知識人」の理想なのだろうか?

アメリカの場合は連邦法の「1967年雇用における年齢差別禁止法」により「定年」制度は禁じられているため、大学でもテニュア(終身在職権)がある教授は自発的に引退することになっているが、留学中にアメリカの大学の若手の教員からよく聞いた話だが、大家の先生の一人の給料で、何人もの若手を新しく雇うことができるので、いつまでも引退しないことは学部や若手教員から迷惑がられているようである。留学先での指導教授は63歳で引退されたが、同じ学部には75歳で現役の老教授がいて、陰でかなり批判されていたのを思い出す。チョムスキーが言語学において世界的学者としていくら有名でも長年居座るのは、結局その学部の学問的発展を阻害していると非難されても仕方ないだろう。彼のアメリカ政治や外交、アメリカのパワーエリートの対する激烈な批判の言葉を読んでいると、その厳格さと対照的な自らの立場に対する甘さを感じてしまうのは私だけだろうか?少なくともアメリカの定年禁止法に守られて、アメリカの有力大学に「制度的に」奉職しつづけているチョムスキーは、サイードが賞賛するような「アウトサイダー」的知識人と呼べないことは間違いないだろう。

サイードは「オリエンタリズム」批判に見られるように、西欧思想の普遍主義に対して厳しい批判を投げかけている。例えば『アメリカにおけるデモクラシー』で、アメリカの民主主義の発展を冷静に観察した一方で、黒人や先住民差別を厳しく批判した、19世紀のフランスの思想家トクヴィルも、アルジェリアにおけるフランス軍による残虐な武力鎮圧は肯定した。イギリスのジョン・スチュワート・ミルも『自由論』や『代議政府論』を著しながらも、東インド会社に在職時にインドで代議制民主主義はまったく不可能だとみなしていた、といった具合に西欧の政治思想家たちもサイードの手にかかると形無しである。植民地主義の時代に生きた彼らにそこまで求めるのが無理なのかもしれない。

一方で、サイードらの「批判的」知識人論を読むたびに感じることは、政府を批判しない知識人に対する舌鋒は極めて鋭いのだか、反体制的知識人の限界や問題点についてはあまり真剣に検討していないように思われる。例えば批判的知識人は、植民地からの独立運動でのナショナリズムの高揚は積極的に評価するが、既成国家のナショナリズムに対しては批判的である場合が多い。しかし独立運動の中心となった指導者たちが、やがて新興国家の指導者となり、国家建設・発展の過程で強烈にナショナリズムを発揮するようになるのは、当の政治家たちにとってはあくまで連続して行なっていることである。それを良い悪いと評価するのは外側から視点である。サイードは「必ず失敗する神」と名づけたが、批判的知識人がある革命勢力や反体制運動に肩入れして、支援して、やがて彼らが権力を握ることに成功した場合、ほぼ確実に期待を裏切られることになるだろう。ロシア革命しかり、キューバ革命しかり、中国の文化大革命しかり、イラン・イスラム革命しかりである。

それが現実政治の厳しさでもあるが、その場合に、新たに権力を握った彼らに対して、批判を続けることが「知識人」の役割なのだろうか?歴史的に見て、それが成功した例はごく少ない気がする。 何よりも旧体制にとっての「反体制知識人」は革命勢力の味方だが、もし彼らが「新体制」にとっても「反体制知識人」であり続ければ、今度は新体制によって弾圧されることになるだろう。また冷戦期には、韓国の反体制運動家が北朝鮮政府の主張の代弁者になってしまい、ソ連の反体制運動家が西側自由主義の代弁者となっているなど、グローバルにみると一方の「反体制知識人」が他方の「体制派知識人」、もしくはスポークスマンとなっていることは珍しくないのである。

このように体制派知識人と反体制派知識人、主流派知識人と反主流派知識人、アウトサイダーとインサイダーというのは、あくまでも相対的、状況依存的な概念で、常に浮遊するアウトサイダーで批判的知識人であり続けることはほぼ不可能なだけでなく、それが果たしてどこまで意味があることなのか、結局、体制に取り込まれないという自己満足に過ぎないのか、考えざるを得ない。そうした「知識人」論の抱えるあやうさを内包しつつも、知識と社会のあり方を再考させられる名講演であり、200ページに満たない小著で読みやすいのでサイード入門として一読をお勧めしたい。