紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

アメリカ大学訪問記

2006-04-17 23:32:45 | 教育・学問論
2005年は結局、一度も訪米できなかったのだが、年度末に当たる今年の2月に調査でテキサスを訪問した後、3月末から4月頭にかけて、交換留学協定校視察として、ジョージア大学(ジョージア州アセンズ市)、テネシー大学(テネシー州ノックスヴィル市)、およびメリーランド大学(メリーランド大学カレッジパーク市)を訪ねた。メリーランド大学は数えてみると12年ぶりの訪問だったが、ほかの大学は今回が初めてだったし、普段はアメリカの大学を訪問しても、図書館や関連施設を利用したり、専門の近い教授に面会したりするくらいなので、大学の事務当局の人たちとじっくり話すのは、初めてで貴重な経験だった。学生を送り出す立場で訪問するアメリカの諸大学は、学生生活を過ごしたキャンパスとはかなり違った印象を受けた。

考えてみると私がアメリカに留学したのはもう10年前になり、就職した学部は学生の国際交流が大変盛んで、留学も日常茶飯事なので、指導した学部生や院生も短い期間のわりにはかなりの人数、アメリカへと飛び立った。最初期に卒論を指導した学生は、私の勤務先の学部を卒業後、すぐにアメリカの大学院に留学し、修士号をとって、帰国して、東京で働き始めている。年月の流れるのは早いものだ。

私が留学したのは大学院生のときだったが、私より先に留学して、当時、学部の助手を勤めていた先輩は、「1ドル=200円時代に留学していた人たちは気合がかなり入っていたけど、今は1ドル100円を切ってるからな」などとうらやましがっていた。確かにかなりの円高の最中の留学でその点だけは助かった。しかし日本からパソコンを持っていかなかった私は、アメリカで購入したパソコンで、当時から普及し始めたメールでも日本語でのやり取りができず、自ずと英語を使える日本の友人たちとの交流に限定されてしまったし、今のように図書館のホームページで日本語のサイトを自由に見れるわけでもなかったので、最初の頃は図書館の新聞・雑誌室で週1、2回、『読売新聞』や『朝日新聞』の衛星版を読んで、日本の情報を得ていた。しかしアメリカ生活が慣れてくると、いつの間にかアメリカのテレビや新聞のほうが面白くなって、わざわざ日本の新聞を読みにいくことはなくなってしまった。

今、日本からアメリカに留学している学生たちの話を聞くと、ネットやメールはもちろんのこと、メッセンジャーやミクシーなどの手段でオンラインで日本の友人たちといつでも連絡が取れるので、その面でホームシックになることはなさそうだった。しかし今回の訪問では短時間であまり突っ込んで聞くことはできなかったのだが、アメリカと日本の文化や生活習慣の違いは大きいので、いろいろ悩んだり、苦労することは少なくないだろう。その点は10年前の私の時とあまり変わらないかもしれない。

今回訪問したどの大学でも、日本への留学生候補を選抜するのに日本語学科の教員が大きな影響力をもっていて、応募者も主に中上級の日本語クラス受講者の中から出ているようだった。それには驚かなかったのだが、日本に留学する動機の多くは、子供の頃から日本のアニメに親しんでいるため、自然と日本に興味を持っていることが多いということだった。

確かに私が留学していた人口4万人ばかりの大学町でも当時CDショップでほとんど日本のミュージシャンのCDはなかったし、レンタルビデオでも黒澤監督の『羅生門』や伊丹監督の『タンポポ』くらいしかなかったのに、日本のアニメは有名なのものから、まったく知らないものまでかなりの品数を揃えていたし、ゲームソフトも日本製のものが多くて驚いた記憶があった。その頃はまだ日本製のアニメやゲームが市場を席巻し始めたと話題になっていたに過ぎなかったが、今や幼稚園や小学生時代からそうした日本のアニメ・ゲーム文化漬けになった世代がアメリカで大学生くらいになっているのかと、改めて年月の速さを再確認させられた。

同時に私が留学した時代とあまり変わらないなと思ったこともあった。留学時代の友人だった建築学科の院生は、サマースクールとしてイタリアで建築学を学んでいたが、今回、会ったメリーランド大学の人の話でも、フランスなどのヨーロッパ諸国にメリーランド大学の教員が学生たちを引率して、短期留学させるようなプログラムをさかんに展開しているようだった。せっかく外国に行っても、同じ大学生で固まって、同じ大学の先生が中心になって教えるのはどこまで意味があるのかと思わなくもなかったが、アメリカの学校で言う、フィールドトリップというものに近いのかもしれない。日本の大学でも9-10ヶ月という比較的長期の交換留学だけでなく、そうした夏休み引率型の語学留学講座などを行えば、かなりの需要を見込めるかもしれないと思った。

少し気になった点は、こちらの大学で提供している英語で受けられる授業の数や、初級・中級レベルの日本語クラスの内容について、アメリカ側からさかんに質問されたことである。私たちがアメリカの大学に留学生を送り出す場合は、留学生向けの英語試験TOEFLで相応のレベルの得点を取ることが必要条件となっている。しかしアメリカから来る学生は多くの場合、1-2年、日本語のクラスを取った程度の日本語能力の学生であり、当然、日本語で自由に生活したり、大学レベルの講義を取るには限界がある。交換留学プログラムに力を入れている私立大学の中には、そうした現実に対応すべく、英語で授業をほぼ完結できるような学部相応の組織をもつところもある。私の大学の場合は留学生センターという組織で日本語の授業を展開し、後はいくつかのゼミや授業が英語で行われているくらいだが、そう答えると、アメリカ側担当者はやや不満そうであった。

しかしいくら英語が国際語であるから、また英米人にとって、漢字言語を学ぶのが困難であるからといって、せっかく日本に留学して、日本語の初級クラスや英語での日本事情のクラスばかり取っているのではもったいないのではないかと思わずにいられなかった。それでは少し時間が長いだけの「修学旅行」のようになってしまうのではないだろうか。

アメリカに留学したとき、留学生向けのガイダンスで、アメリカの価値観から人々の交際法から文化行事にいたるまで、簡潔にマニュアル化した冊子をもらった。今読んでみても面白いのだが、「自分たちの国はこういうシステムで動いていますから、それを理解して、合わせてみてください」と簡潔に言葉で提示できるのがいかにもアメリカ的だと思った。よく言われることだが、アメリカでの暮らし方はある意味でマニュアル的なので、そのルールを学び、それに従う限り、あまりトラブルなく暮らすことができるのである。

はたして日本の場合、どうだろうか?日本人の間の不文律や習慣、感情表現などをそんなに簡単にマニュアル化して、留学生に配布する資料としてまとめることはなかなかできそうもない。それと同時に、留学生に対して「ここは日本だから日本流に従ってくれ」と強く要求することもできないし、しそうもない。どこかで「外国人だから」、「留学生だから」と勝手に納得してしまいそうである。その点がアメリカ流と大きく異なっている。

アメリカに留学したいと思っている日本人学生の数と、日本に留学したいと思っているアメリカ人の数とを比べれば、明らかに「輸出超過」である。だから「授業についてこれるくらい日本語ができなければ来なくていいですよ」などと強いことを要求できないのが現実だ。しかし日本に来る以上は、我々がアメリカに留学したらそうするように、最初は理解できなくても、日本人に混じって講義やゼミに出て、発言できなくても日本語の海に漬かるのが、結局、日本語力を向上させる近道に違いない。そう考えると「修学旅行」にならないように、あまり英語による日本文化・社会の授業など充実させない方がいいのかもしれないと、逆説的に考えた。