コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

土地も縁でしょうね

2006-02-28 09:26:45 | Weblog
面白い話を思い出しました。
義父が、
取締役部長から歩合外務員に成った翌日、
出社しましたら、
『今までいっせいに席を立ち「おはようございます」と挨拶していた部下達が、顔も見ないで知らん顔をしていた、サラリーマンってこんなものかと思ったよ、義理も人情も無いね~』と笑っていましたが、寂しかったと思います。

偶然にも、
義父が長年勤めていた会社の社長の自宅が、今度の家の直ぐ近くでした。
ですから義父は弦巻に何度も来ていたそうで、4丁目と5丁目ですから隣りでした。

僕も22~23才の頃道に迷い、
弦巻のこの辺りを車で何度もウロウロした事が有りましたので、
見慣れた風景でした。
これも縁なのでしょうね~・・・

義父は3000万の詐欺事件の後始末を終えた時点で、
30年前後勤めた会社を辞め小さな証券会社に入りました。

この会社の歩合外務員は、他の会社で問題を起こしたり、
仕事が出来ない人達のたまり場の感じが義父の話から受け取れました。


東証の中、
昔は場立と云われる人達で、
ごった返していたのでしょう。
入社したての義父も場立をしたそうです。
今と違い銘柄を手で合図していたそうです。

銀行からの融資

2006-02-27 09:49:04 | Weblog
銀行の不始末に付いて質問がございましたので、
お答え致します。

銀行と云いましても小さな信用金庫でした。

1人で仕事をしていましたが、
この頃から仕事のお金と個人のお金は分けていて、
仕事のお金の入出金は必ず銀行の通帳に記入していました。

この信用金庫で出金する時、
度々窓口の男性から『印鑑が不鮮明ですので印鑑を貸して下さい』とか、
『数字が読みにくいので、白紙に印鑑を押して下さい、こちらで記入します』などの事が有りましたが、こちらの手違いですので、言われるままにしていました。

銀行の通帳の他に入出金の帳簿を自分で書いていました。
銀行の通帳に記載されている数字と帳簿の数字が違う事が何度も有りました。
最初は自分の間違いだと思っていたのですが、
回数が多くなると『変だな?』と感じます。
でも必ず何所かで同じ数字になるのです。

この窓口の男性と担当者は、違いました。

この事は支店長には言いませんでしたが、
土地代金の融資が受けられないのであれば、当然指摘しました。

信用金庫でしたので金利は高く、当時年9%でした。
預金金利は5.0~5.5%位だったと思います、
今では考えられない数字です。

銀行の不始末を利用して、
銀行を我が物顔で支配した人もいました、
恐ろしい事です。


馬事公苑での流鏑馬

家の支払い

2006-02-26 09:47:23 | Weblog
弦巻の家を買うのに、
税金、登録諸費用、修理代など総額4000万円でした。

義父には1000万円出させました、
現金を持っていると危険だと感じたからです。
僕が2000万円と銀行借り入れ1000万円でした。
今考えれば、
当時よく2000万円持っていたものです、自分でも驚きです。
銀行借り入れ1000万円は、案外楽でした。

何故かと云いますと、
当時銀行積み立てをしていたのですが、
銀行の担当者が使い込みをしてしまったのです!
銀行の担当者は、客から集めたお金を商店主などに貸し、
利息を取ったり、キャバレーで遊んだりしていたようです。

僕が預けたお金は不明になり、
銀行の支店長と話し合いを持ちました。
銀行は最後まで責任を持ちませんでしたが、
担当者には毎月支払わせると約束しました。

銀行が仲立ちだったので、この約束は守られました。
この事が有りましたので、銀行は融資を承諾したのだと思います。
それに宅地建物の担保が有りますので損はありませんよね。


馬事公苑の馬場

義父の相棒

2006-02-25 11:32:04 | Weblog
『加藤の給料驚いた?それも毎月だよ、多い時は1億5000万位有るんだよ、だからアイツと麻雀をする時は、だいぶ持っていかなければ駄目なんだ。わざと大きな手を狙い、負ける事が殆んどで、自分はお金が有り、大物だと云う事を見せ付けているような感じだよ』と義父。

『・・・・・』もう言葉が出ず、
羨ましいよりも驚き呆れる世界の話でした。

『S備事件って知ってるよね?小父さんが一枚カンで居たんだよ』と前述の彼。
S備事件は当時世間を賑わした仕手筋で、
義父が話題にしていた男が首謀者でした。

『加藤の名前は有名だけど、小父さんが後ろに居たんだよ』と彼。
彼の話では、義父が黒幕の1人だったようで、彼も仲間に入っていたようです。

『それでなかったら、サラリーマンが毎晩飲みに行けないし、家も買えないよ~』と彼。
『仕手が始まったら、合図が有るまで絶対に売ってはいけないと云う規則なんだけど、怖くなって途中で売ってしまったんだ、もう仲間に戻れないけれど、本当に怖かった。売るのは仲間の1人として小父さんに申し訳無かったけれど、良い思いをさせて貰った』と続く。

『へ~、そうなんだ~』
照れくさそうに笑う義父の顔を思い浮かべながら、
僕も何と無く嬉しく、笑みを堪えられませんでした。


馬事公苑入り口

義父と麻雀

2006-02-24 09:49:20 | Weblog
義父は麻雀と競馬が大好きで、
特に麻雀は平日でも時々午前様でしたし、
休日の前はもう当然でした。

ですから、
休日は家族と一緒に食事に出掛ける事が殆んどで、
お詫びの印なのでしょうね。
僕が払おうとしますと、腹巻の中のお金を覗かせ、
『大丈夫だよ』と何時も笑っていました。

給料は明細書と一緒に持ってきていたようなので、
どうして他に有るのか不思議でした。

麻雀で稼いでいると言っていましたが、
本当の事は未だに分かりません。

麻雀の話になると、
或る人物の名前がチョクチョク出るように成りました。
『加藤と麻雀をすると、あの野郎、ふざけた事ばかりしやがる。捨て牌が場に3枚出ているのにオープンリーチをしやがる、そして「握ろう」なんて言いやがる、キザな奴だよ、本当に』と義父。
でも彼らとの麻雀は多かったようです。
カモに出来たのとウップンを晴らせたのでしょう。

『俺の給料は分かるよね?ま~、そこそこなんだけど、加藤の給料はどの位か分かる?』と義父。
『う~ん・・・1000万円位ですか?』と義父から聞いている義父の給料を目安に答える僕。
『アイツ、毎月1億以上取っているんだよ』と義父。
『え~・・・給料が1億ですか~?』と驚く僕!

もう25~26年前の昔の話です。


弦巻の家の近くに在った、
馬事公苑の入り口の欅並木

引越しの準備

2006-02-23 09:21:10 | Weblog
荷物を運び込む前に大掃除です。

古屋さんの奥さんは、
台所掃除が嫌いだそうで、油汚れを落とすのに大変で、
クレンザーとタワシで筋肉痛を起こすほどでした。

函南の同級生のペンキ屋さん2人に泊まり込んで貰い、
僕と3人でペンキ塗りもしました。
この2人に黙って遣らせましたら、
紺ではなく青で塗っていました、油断も隙もありません!

家全体を薄汚れた茶色から紺色にし、窓枠は白く塗りました。
ドアも半分壊れかかっていましたので、桜新町で新しく買い替え紺色に塗り替え、
ガラス部分はアキレスのクリンクルグラスで割れないようにしました。

このドアは、函南に越して来る時に持ってきて、
函南の家を最後まで護ってくれました。

夏だったので助かりました、
蚊取り線香が必需品でしたが、雑魚寝で済みます。
仕事が終わってから3人で近くの食堂に出掛けるのも楽しみでした。
29才11ヶ月20日の7月31日に越して来ました。

大きな所は大工さんに頼み、
細かな事や庭などは、DIYや園芸店に買出しに行き、
義父、義母、妻、僕の全員で直し、楽しい時間が過ぎました。
駐車場のキットを買い、コンクリートを流し込み、自分達で作りました。

多分、義父は今の僕より若かったと思います。

おぼろげな記憶ですが、
ひばりヶ丘から引っ越す前後です、
兜町が大騒ぎに成った仕手筋が存在していました。



上町の玉電
たまにですが乗りました、だから玉電?

隣りのお屋敷

2006-02-22 08:54:00 | Weblog
世田谷の弦巻に古屋さんの古家を買い、
4人で暮す事に成りました。

もう1つ気に入った事が有りました。
それは、隣りのお屋敷の庭が我が家の延長の感じで恵まれた環境だったのです。

3000坪有ると云われるそのお屋敷には、
世田谷区の保護樹林と書かれた太い大きな木が何本も生えていました。
このお屋敷の住人は、三島に在る「佐野美術館」の持ち主だったのです!
いや~奇遇です、これも縁なのでしょうね。

『常磐炭鉱の持ち主で財を成し、炭鉱を閉める時は、労働者が大勢ムシロを竹竿で吊るし、大騒ぎだったんですよ、も~毎日うるさくてホトホト困りました』と古屋さんご夫妻は話していました。
『え~、それだと今TVでコマーシャルを流している、有名な冗談ハワイアンセンターの持ち主なんですか?』と僕。
行った事はありませんが、
TVでコマーシャルを流しているのを見掛ける時代でした。
『炭鉱の後は分かりませんが、そうだと思いますよ』と古屋さん。

そのお屋敷の同じ敷地内には、
小さいけれど運転手さんの住まいも在りました。

我が家の隣りは、弟さんの家でした。
弟さんと云いましても70才を過ぎていたと思います。
時々、刀や鍔を持って何所かに出掛けます。
その時義父と会いますと、
自慢そうに刀や鍔を袋から出し見せてくれたと話していました。


佐野邸の跡地に建てられた、
東急ドエルアルス弦巻
保護樹林を切らず、残すように建てられました。


今日は義父の命日でした、もう2年経ちます。
賭け事が好きだった義父が、
もし生きていたら『ゾロ目だよ、アラシだよ』と言い、
喜ぶ顔が目に浮かびます。

見付かった住まい

2006-02-21 09:08:35 | Weblog
玄関から板の間は、
漆喰で壁が塗られ、手入れをすれば中々の家です。
どうせ壊すのだからと、手入れをしていなかったそうです。
昭和29年に建てられたままの状態で、
全然手を入れていなかったそうです。
当時は草ボ~ボ~で、
ここに家を建てるとご主人に言われた奥さんは、
『ここに家を発てるのですか?』と泣き崩れたと話していました。


ご夫婦は日野市に土地を買い、家を建ててしまい、
この家を売って残金を払う約束に成っているのだと、話しました。

『この家だと、手を入れれば住めるから、土地が広い方が良いよね』と、
3人の意見はまとまりました。
『あの~・・・この家住めますので、手を入れたいと思います、もう少し安くして頂けないでしょうか?』と僕。
ご夫婦は、早く決めて日野の新築の家に越したいのが分かりました。
妻は義母を車に乗せ、毎日のようにこの家を観に行っていたそうです。
たまに老夫婦に見付かり、家に上がり込み、お茶とお菓子を出して頂き、古くからの付き合いの様になりました。
これが功を奏し、安く買える事になりました。

古家の主は「古屋」さん、笑えるでしょ?


世田谷代官屋敷、
罪人を座らせるお白州も在ります。

ぼろ市の時は、
露店がずらっと並び、大賑わいです。


世田谷の家を見学

2006-02-20 09:30:17 | Weblog
『60坪は買えないから30坪に分筆して貰えば何とかなるかな~、それも入り口の方が良いね。何て言ったって、都内の世田谷だし、車を運転するから東名を使うのに便利だし、沼津からだと1時間30分位で着くものね~』と僕。

『取り合えず観て頂いてからにしましょう』と不動産屋さん。
『取り合えず、通り道だから観るだけ観る事にしよう』と3人の意見。

その家は、東急バス弦巻車庫前の北側に建っていました。
汚い茶色の家で、庭は広いのですが、手入れはされていませんでした。

東側の近くに桜小学校、
西側の隣りは林の様に大きな敷地のお屋敷が建っていました。

『今住んでいる方にお会い下さい』と不動産屋さん。
『でも買えなかったら悪いので、外観だけで良いですよ』と僕。
『ここまで来たのですから、お会い下さい』と勧める不動産屋さん。
ドアを開け、玄関に入りましたら驚きました、中はモダンです!
入り口から板の間で、
その板の間の真ん中に、
オジイサンとオバアサンが2人でコタツの中でTVを見ていました。


写真は、
桜新町駅近くの長谷川町子美術館
当時からサザエさん通りが在りました。


35~36年前の玉川高島屋

2006-02-19 14:51:37 | Weblog
この頃、
ひばりが丘にイトーヨーカ堂が出来ましたが、
僕は1度も行きませんでした。

ひばりヶ丘から環八を使って度々玉川高島屋に来ていました。

最初に来たのは、22才位の時で姉と2人で来ました。
その頃は、駅が無く、交通手段は車だけでした。
館内には買い物客が少なく、
店員さんだけが目立ちガラ~ンとしていました。

商品は当時では珍しい外国製の高級品が揃っていました。
家具売り場のドレッサーなどは、70~100万円位の値段でした。
当時、車のクラウンが100万円で買える時代でです!

上野毛~田園調布、
成城など高級住宅地の住人を相手にしている事は明白でしたし、
将来近くに駅が出来るだろうと想像はしていました。

玉川の高島屋の帰り、芦花公園の住宅展示場に寄りました。
『良い場所が在ります』との事で日を改め妻と義母と3人で出掛けました。
多摩川を挟んだ向こう側は、
家がまばらで鷺沼駅から見渡せる場所に土地が在りました。
駅から400m位しか離れていない場所で、
駅の周りにポツポツとお店が出来ているだけで、
殆んど民家は建っていませんでした。
坪50万円位だったと思います、駅から近いとは云え寂しい場所でした。
40坪の土地に2世帯住宅を建てて総額3500円位になってしまいます。

『他には無いの?』と質問しましたら、
『世田谷の弦巻に60坪の土地で古家付が有ります、但し土地代が坪60万円です』と不動産屋さん。


玉川高島屋