コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

温泉療法の会社

2005-05-31 11:36:08 | Weblog
朝早く出かけましたが、初めての土地で住所を頼りで時間が掛かりました。
もう既に全国各地から人が集まり大変な賑わいでした。
それも我が家と同じで家族で来ています。
アトピーの人達の集まりですから異様な雰囲気でしたが、
お互いに同じ悩みの人達です、慰めあうような眼差しが印象的でした。

午前中は今までの症例,
経過、完治者の写真を見せての説明でした。
それから治療を受けたいと思った人は全身の写真を取りたいと言いました。
妻は申し出を受け別室へ、当然全身ですから裸の写真です。

午後食事を済ませてから隣の診療所で問診。
この後、患者と言うか、お客と言うか、一人一人に社員が付き、又説明でした。
『これから会長に会って頂きます、変な質問をしないように!』、
『服装の乱れ、口の利き方、話中の態度に気を付けて下さい』と社員。
『は~・・・』と僕。
別室に会長と言われる人が偉そうに椅子に座っていました。
何となく大柄な感じがします。
社員は、直立不動でまるで軍隊かカルト集団のようでした。
会長が何を話したのか覚えていません、
早くこの場を立ち去りたいと考えていました。

費用は100万円、
24時間風呂の機械と週2回・200Lの温泉が送られてくるのだそうです。
確か6ヶ月間だったと思います。
『温泉のミネラルが身体に入り、
身体の中の不純物が外に出るのでお風呂が直ぐに真っ黒になります』と言っていました。
何となくは理解出来ますが、
彼らの態度、物腰が不動産屋の感じがしました、妻も同じように感じたようです。
僕は不動産屋の裏話を聞いた事が有ります、
『今日は何人落とした』と言うのが彼らの自慢話だそうです。

『会長に会え、話が出来たのは凄い事です』と怒ったような口振りの社員。
『そうなんですか?』僕。
『早く契約をして下さい』社員。
『今日は帰って、家で考えさせて下さい』僕。
『会長がわざわざ会ってくれて話をして下さったんですよ』社員。
『会長だかコンコルドだか知らないが、僕は関係ない、
お前達の態度が気に入らないんだよ』と思っていました。

『本当に会員に成りたいの?』僕。
『成りたい』妻。
『彼らの言動は不動産屋のようで嫌いだ』と僕。
『温泉に入りたいのなら、御殿場や長岡から汲んでくる、兎に角彼らと付き合いたくない』
妻は泣いて抗議しました、
金額では無く彼らの言動に我慢出来ませんでした。

困っている人達を食い物にしている、そう感じたのです。








ステロイドの後遺症

2005-05-30 14:47:52 | Weblog
東京バ~バの葬儀に出席して下さった、知人、親戚の方々から
『顔、如何したの?』と口々に聴かれました。
妻は今までの湿疹からステロイドの経緯を詳しく話し、
『この所落ち着いてきたの』と言いました。
顔より酷かったのは首、首より酷いのは肘や膝の後ろでした。
洋服で見えない所は、ガゼーに包帯です。

4月、春芽を吹く頃とはよく言ったものです、
桜が咲き始めるのを待っていたかのようでした。
身体中からジクジクと膿が出始めました、包帯をしている所からです。
それも日に日に勢力を拡大していき、乳首からも膿が出ます。

この頃は『私・・・どうなるんだろう?』と、まだ言えた時期です。

5月になると汗が出て『痒い』とかきます、
当然血が出ます、勢力が拡大します、これの繰り返しでした。
もう肘や膝の後ろだけでは有りません、身体全体が膿を出す機械のようでした。

顔は最初の内、全体が赤くフクレていて、顔をマトモに見るのが辛い時期でした。
ステロイド離脱友の会と言うかは、知りませんが、
その方達と連絡し合い、お互いに頑張ろうと電話で話をしておりました。
それでもこの頃は、まだ本屋に通う事が出来、一冊の本を見つけてきました。
もう題名は覚えていませんが、「温泉でアトピーが治る」と出ていて、
その協会に行きたいと言い出しました。
娘を連れ3人で住所を頼りに出掛けました。






今度は、僕の父でした

2005-05-28 10:51:49 | Weblog
東京バ~バの葬儀が終わりホットしたのも束の間の事でした。
今度は、僕の父が危篤だと入院先の病院から電話が有りました。

父と僕は、一緒に暮らした事が有りませんでした。

父が話したがらないのでよく知りませんが、
父は私生児として生まれ、里子に出され育てられたのだそうです。
成長とともに継母と折り合いが悪くなり、家を飛び出したと申しておりました。
旧制中学卒業後、職を転々と変え、芸人になりました。

徴兵で兵隊になり、そこで母と知り合ったのだそうです。

僕は、物心付き始めた頃の事をうろ覚えながら覚えています。
父に連れられて何回か一緒に興行主の所に挨拶に行ったりしました。
父は座長で10数人の芸人を連れて全国を回ったようです。
近くの公演に出かけますと、僕は『坊ちゃん』と呼ばれていました。
当時はダイブ羽振りが良かったようです。

博打場にも連れて行かれた事が有りました。
伊豆長岡の旅館の一室で花札です、
電球の傘に丸い黒い布が巻いて有り、今思うとスポット・ライトの代わりだと思います。
ライトの真ん中に座布団が置かれ、花札がまかれ、始まりです。
父の話では、僕は大人しくジット勝負を見ていたそうです。

父は東京の浅草で他の女性と一緒に暮らしていました。
その女性の話ですと、僕が小学校低学年の頃、
麻雀で負け、当時のお金で2000万円損したのだそうです。
博打好きと羽振りの良さが分ると思います。

父との思いでは、小学校3年生の時に父の実家が在る千葉に行った事位です。
何日間か親戚の家に泊めて貰い、色々な場所に連れて行って貰いました。
僕の苗字は珍しいのですが、
父が他の人を呼ぶのに同じ苗字を呼びましたので、千葉には多いのかなと思いました。

『売り出しの頃の北島三郎を1座で使ってた』と言うのが父の自慢でした。

当時、静岡で公演が有ると家に立ち寄る生活でした。
母にすれば面白く無い事です、当然喧嘩が絶えませんでした。
『もう2度と家に来るな!』と僕が言ったのは、高校3年生の時でした。
これ以来2度と家に来る事は有りませんでしたが、時々電話では話をしていました。

一緒に暮らしていたオバサンが亡くなってから、電話の回数が多くなりました。
僕は1年に1、2度は顔を出し、様子を見る事が10年以上続きました。
茨城ですから遠いですよね。

『今これだけ持っている』と元気な時に貯金通帳を見せられましたが、
亡くなってから調べましたら、2000万円以上のお金が消え、たいして残っていませんでした。
一人暮らしの老人に付け入り、持って行った女性親子がいるようです。
住んでいた家はオバサンとの約束で、オバサンの妹の名義にしました。
お墓は生前に作り、これも自慢しておりました。

病院からの呼び出しの電話の後、このような思い出が懐かしく思い出されました。
4月初めの事でございます。

本業の塗装

2005-05-27 11:52:08 | Weblog
妻の顔に湿疹が出来た頃、1993年は会社の仕事に陰りが出てきました。

平成に入り大手家電会社の仕事を紹介して頂き信頼を得ました。
弊社が入る前の部品塗装は不良率50%だと検査の方達が言っていました。
試作の段階で弊社の不良率は600本で9本、
製品が流れ出しますと20000本で8~10本位で収まる位でした。

家電会社に気に入られ『御社で全部塗装して欲しい』と言われるまでになり、
当時の建て屋では無理なので増築し、設備も入れ替えました。
設備の70%位終わった所で、バブル崩壊の足音が弊社に近づいてきました。
『担当者が変った』と言われ、
前の約束が反故にされ、大幅なコスト・ダウンを提示されたのです。
この会社と付き合いたくないと判断し、『10月の生産で取引を止める』と告げました。
男ですから意地が必要な時もあります!
相手に取っては、縁が切れて胸を撫で下ろした事でしょう。
自分達に都合が悪くなれば配置換えで誤魔化す、これが大会社のする事でしょうか?

今までの主の仕事が無くなるのですから大変です、
色々な会社に社員達と手分けして出向き仕事を探し歩きました。
年明けの1994年の2月に静岡県より知事褒状を頂きました。
これは神様が『お前頑張れよ、もう少し我慢しろ!』と言って下さったのだと思います。
弊社には他に賞状の類は有りません。

一番苦しかったのは、妻の湿疹の時期と同じ5月でした。
あちらこちら飛び回り仕事を探し回りましたが、そう簡単には見つかりません。
車を運転しながら『神様もう勘弁して』と言って泣きました。
仕事を待っている社員の顔が頭に浮かび、
苦しくて泣いたのは、今までこの時一度だけです、その位辛い思いをしました。
夜中に山道を妻と2人、車をトバシテ試作品を取りに行った事も有りました。

仕事が無く苦しいのに何故か設備をしなければ、という思いが湧き上がり、
設備業者に来て貰い、未完成部分の設備を8月に完成するように発注しました。

8月のお盆休み前、或る会社から『御社の設備を見たい』と打診が有りました。
『8月のお盆休みに設備が完成しますので是非お出で下さい』と申しました。
お盆休みが終わり、会社訪問で合格し、
新しい仕事が始まり、今もその会社と取引が続いております。




娘が中学1年生だったと思います

2005-05-26 16:05:11 | Weblog
妻の母は浅草の大空襲で両親を亡くし、妻の父(ジ~ジ)の家に引き取られたのだそうです。
ジ~ジが大学生の時から付き合いだし、
ジ~ジが学徒出陣で出兵、シベリア抑留で帰って来るまで妻の祖父母、
ジ~ジの弟2人と暮らし、苦労したようです。

病名はC型肝炎からの肝硬変だそうです。
C型肝炎になる切っ掛けの真実は分かりません、が、思い当たる事が有ると言っていました。
14~15年前からヘルニアで針灸院に通い針治療をしていたそうです。
当時は今ほど血液の病気に神経質では無かったようで、針の消毒もなおざりだったようです。
『その針が原因だったのでは?』と言っていました。

娘が小学校に上がる頃から疲れ易いと言い出し、病院での検査の結果病名が分かりました。
年々症状が悪くなり、娘が小学校高学年に成る頃は、入退院が始まりました。
この頃までは症状を気にしながらも我が家に遊びに来ていました。
娘は『東京バ~バ』と呼び、大変なお気に入りでした。

東京バ~バは、動物や見知らぬ人とも直ぐに親しくなり、知り合いになる天才でした。
ジ~ジの自慢は、若い頃バ~バと一緒に歩くと振り向かれる事でした。
実際上品で物腰が柔らかく綺麗でしたし、料理上手でした。

娘が中学に上がる頃には、我が家に来る事が出来ないほど病状は悪化し、
たびたび吐血して、救急車で病院に運ばれる事が何回も有りました。

東京バ~バの最後の仕事は、ジ~ジが前立腺肥大で手術をし回復させる事でした。
実はジ~ジも前立腺肥大で時々救急車で運ばれていたんです。
僕と妻は救急車夫婦と呼んでからかっていました。
『もう一緒に住もう』と何回も言いましたが、ジ~ジが東京から離れたく有りませんでした、
2人ともお祭り小僧で浅草の三社祭が大好きでした!
でも東京バ~バは、こちらに住みたかったのです。

娘が中学1年生の3月、ジ~ジの手術半年後の事でした。
ジ~ジから連絡が有りバ~バの手術が有るから立ち会って欲しいと言われ、当然出かけました。
食道に血の袋が出来、これが時々破裂していたので、
今回も同じ手術だと思っていました。

娘が丁度春休み、3人で妻の両親のマンションに出かけました。
手術の日、『今までと同じ手術ですから』と医者が言い、こちらも安心していました。
『行ってくるね』『じゃ~後で!』このような会話がなされました。
車の付いたベッドに乗せられ、
酸素マスクのような物を口に被った東京バ~バに、
僕は『大丈夫、後で会おうね』と眼で合図をし、
東京バ~バが頷いたのを見たのが意識が有る東京バ~バを見た最後でした、、、

東京バ~バは50代の時、テレビで70才で亡くなった有名人を見て、
『70才まで生きれば良いよね~』と言ったそうです。
70才に近づくにつれ、この言葉を気にしていたそうで、70才と4ヶ月の生涯でした。
『もう直ぐ4月、今度退院すれば桜が観られるね』と言っていた3月の終わり頃の事でした。

手術室から出てきた東京バ~バは顔がムクミまるで別人でした。
『手遅れでした』と医者。
『今までと同じ手術だと言ったでしょ?!』と我々。
『隠れていた箇所が有り破裂してしまいました・・・1~2日がヤマだと思います』と医者。
妻、娘と3人で病院の近くのホテルに部屋を取り、泊り込みました。
次の日の早朝だったと思います、一足早く病院に行っていた妻から電話が有りました、
『バ~バがアブナイから早めに来て』と、もの静かに言われました。
時を争う事が無いと思っていた僕は、
シャワーを浴び、娘に『早く行こう』と急かされながら身支度をしました。

何か悪い冗談のような気がして成りませんでした。
僕達が病院に着き、手を握った瞬間息を引き取りました・・・
『バ~バは頑張って2人が来るまで待っていたのよ』と妻が優しく言いました。
僕はまだ悪い冗談の続きのような思いが付きまといました。

『今後の医療のため検体させて頂けませんでしょうか?』と医者。
『それはチョット』とジ~ジ。
『バ~バの事だから、キット良いわよ、と言うわ』と妻と僕。
ジ~ジが折れて検体が決まりました。
『検体が終わりましたら身支度を致しますので着替えをお持ち下さいませんでしょうか?』医者。

霊柩車に乗せられバ~バは、浅草のお寺に向かいました。
お寺で『霊はこちらでお守り致しますので明日お越し下さい』と言われ、
バ~バの居ないマンションに帰りました。

棺の中の顔を見ますと、生前の顔に戻り今にも声を掛けてきそうでした。
ジ~ジは『奥さんがこんなに綺麗な人だとは思わなかった』と会社の同僚達に言われ、
得意になって生前綺麗だった事を話していました。
悲しみを忘れ去ろうと無意識に働いたのだと思います。

バ~バの葬儀が無事に終わったと思ったら・・・
そして妻の身体に変化が・・・







ステロイドを塗った期間は1年チョット

2005-05-26 09:31:07 | Weblog
子供は娘が一人です。
『一人っ子で暇が有るだろう~』と言う理不尽な話で、
妻は学校の役員を5年生、6年生と2年間やりました。
登下校の旗振り、夜間の見回り、ママさんバレー、子供会などです。

娘が5年生の春に3つの湿疹が出来、ステロイドを塗り始め、
6年生の夏頃、信頼していた女医さんに裏切られステロイドを塗るのを止めました。
ステロイドを塗ったのは1年ちょっとでした。

首の周りと肘膝の後ろは黒ずみ、夏でも首が長い長袖にスラックスの服装でした。
ステロイドの後遺症は一進一退の状況です。

1995年の1月に社員の結婚式が有り、仲人を頼まれ出席しました。
その時の妻の顔は1.2倍位に腫れています、それでも笑顔を絶やせない状況でした。
新婦を引き立てるのには良いのでしょうが、
新婦の隣の席ですから出席者全員の目が集まります、辛かったと思います。

娘の6年生の卒業式、中学の入学式までは、何とか出席しました。
面と向かって『その顔酷いわね』『化け物状態ね』と言う言葉を浴びせられ、
『私のために子供がイジメに遭わないか?』と考えたそうです。

顔は段々酷くなっていきます、
普段の生活の買い物は、サングラスに大きなマスクで車の運転をし、
僕の母が買い物を済ませるまで一歩も車から出ない方法でした。
外に出る事を極端に嫌がる気持ちは理解出来ました。

この頃、妻の母の病気が・・・









べらんめ~な女医さん

2005-05-25 14:12:33 | Weblog
妻は女医さんを信頼し、週に1度は通い薬を処方して貰いました。
少し紫掛かった赤い軟膏です。
身体のあちこちに塗らなければ成らないので直ぐに終わってしまいます、
『ステロイドが入っていなくても外用薬を使えば自己治癒力が落ちるわね~』と妻。
少しづつ量を減らし、何も塗らなくて良い状態に持ち込んでいきました。
秋~冬に掛け、少しづつですが確実に治ってきました。

年が明け春、丁度1年が経ちました。
首の周り、手足の肘の裏側が赤く成っています。
女医さんの診療所には通っていましたので薬の量を多くして貰い、
元の様に多めに塗り出しました。

塗ると治る、止めると酷くなるの繰り返しが続きました。
『私、、、何となく変な感じがする、、、』
女医さんの帰り、薬局で薬を作って貰うために立ち寄ります。
薬局でもう1度訊ねたそうです『本当にステロイドは入っていませんね?』と妻。
『入っていません』薬局。
『私は半年以上この軟膏を塗っています、何故か入っているような気がするんです、
本当にステロイドは入っていませんね?!』
『・・・・・・・・少し入っています・・・』と薬局。
この言葉を聴いた時の衝撃は・・・計り知れないものが有ったと思います。
信じていた人に裏切られる、それもお医者さんです!

僕が帰宅すると『この薬、やっぱりステロイドが入っていたわ』と妻。
『えっ!それって嘘を付いていたんだ!あの女医!』と僕。
『テレビで言っていた事は嘘なんだ、NHK教育だよ、ヒデ~ナ~、訴えてやれ!』と僕。

娘が6年生になり、学校の役員活動が忙しくなり始めた妻でした、、、

フクレタ異様な2人連れ

2005-05-25 09:17:33 | Weblog
三島駅までの往復は車で行きますが、
往復の駅の構内、電車内と診療所までの道を歩く異様な2人を、
他の人達がどの様に観ていたか知りたいものです。

『お祖母ちゃんの目蓋が垂れ下がって前が見えないから、
駅の階段を連れて歩くのが大変だったわ』と妻。
『・・・・・・』と母。
母の顔は日に日に回復していき診療所には2度程通ったと思いますが、
10日位で元の顔に戻りました、薬って凄い!
おそらく、
ここまでヒドイ母が塗ったのはステロイドだったと思います、母には後遺症が出ませんでした。

この事件以後、母が銀杏拾いに行った事は、言うまでも無く、1度も有りません。
慣れた事柄ほど細心の注意が必要なんですね、「初心を忘れるな」です。


妻の医者通い

2005-05-24 14:42:25 | Weblog
2駅を電車で通うのは辛かったと思います。
『先生の討論会での発言を聞き、ステロイドを使わないと言う事で来ました、
本当にステロイドを使わないので治るのですか?』と妻。
『わたしゃ~、ステロイドを使わないよ』と女医。

『相当自信を持っていて番からな女医さんよ!
何故ステロイドを使ったんだと、男の患者を怒鳴り倒していたわ』と妻。
『へ~、行って良かったね~、何故他の医者は見習わないのだろ?』と僕。
風呂上りに早速貰ってきた、赤い軟膏を身体に塗りました。
背中は僕が手伝ったのは言うまでも有りません。
少しづつですが、症状が改善されてきたように感じました。

僕が住んで居る大通りにイチョウ並木が有ります。
当然銀杏がなります、ですから近所の人達が銀杏拾いをします、
僕の母親もその一人でした。

ご存知だと思いますが、銀杏を食べるのに必要な工程が有ります。
実を水の中に付け腐らせ中の殻を取り出し、殻のまま炒るか油で揚げ、緑の実を食べます。

腐らせた水の中から殻を取り出すのが曲者で被れる人が出ます。
母は、毎年の事なので慣れた手付きで仕事をしていたそうです。
『お祖母ちゃん、被れると大変だから気を付けてね~』と妻。
『あはは、毎年の事だから大丈夫だよ~』と母。

夜家に帰り食卓に着いた僕が見た物は、、、化け物でした、、、
映画の四谷怪談のお岩さんも、
ゲタを脱いで逃げるような顔です、想像出来ないでしょ!?
『あ~、、、何したの?!』と僕。
『銀杏で被れたのよ~、被れるから気を付けて、と言ったのに~、
毎年の事なので大丈夫だって言うんだもの』と妻。
『・・・・・・』母。
『明日私と女医さんの所に行って来るわ』と妻。
『頼むね、しかし銀杏の被れってこんなに酷いんだ?!』
と思わず大笑いをしてしまった僕、
『目が見える?』と思わず聴くくらい顔が腫れあがっている。
この顔を見れば、妻の腫れ位赤ん坊のようなものだ。

次の日2人は電車に乗り女医さんの診療所へ、
僕が他人なら遠くからジット凝視したと思います。

物凄く綺麗なモノか物凄く汚いモノってジット観ません?






3人の冒険

2005-05-24 09:38:49 | Weblog
娘をポ~と一緒に冒険に連れ出しました。
最初の冒険は、会社まで車で来て、会社に居るポ~を連れて獣道しか無い山に入りました。
ポ~に取っては休日出勤ですが、嬉しかったと思います。
娘と僕はパンと飲み物を持ち、斥候はポ~、娘、僕の順序で歩きました。
この辺りの山には、鹿、サル、イノシシなどが住んでいます、危険と言えば危険です。
斥候のポ~は、我々2人の姿が見えなくなると様子を見に戻ってくれます、心強い!
途中で娘が銭形の親分が投げる古銭を拾い、嬉しそうでした。
いや~、四足駆動は山に便利で早いですね~!
小学5年生の娘の足で2時間位歩いた所で、パンと飲み物。
当然ポ~にもお裾分け、ポ~はキリン・レモンを飲みました、美味かったのかな~?
帰りは山道を探し帰って来ました、人家が見えると嬉しいものです。

ポ~が家に来た最初の冬の朝、3人で散歩に出かけました。
家の近くは散歩のコースには困らない地形なのです。
隣のお爺さんとお婆さんの散歩のコースを辿ると言う試みです。

娘に『隣のお爺さんとお婆さんが歩けるんだから、
そんなに大して時間は掛からないから朝食前に帰って来よう』と言い出かけました。
ホェ~、、、あの2人はこんなに歩くのかよ~、、、オソラク4分の1の地点です、、、
ここまで来たのだから仕方が無い戻るより、、、県道に下りよう、、、
パジャマにコートですからお金も持っていません、、、10円有った!
公衆電話からタクシーを呼んで家まで帰りました、、、
『あんた達、馬鹿ね~』妻の最初の言葉、、、
『あははは~、こんなに長いとは思わなかった』、
笑って誤魔化す自分の失敗、厳しく追及他人の失敗!

僕に取って、
隣のお爺さんお婆さんの散歩のコースは、朝飯前では有りませんでした、、、
この試みは、2回試しましたが2回とも帰りはタクシーでした、、、
でも2回目は、多少のお金を持って出たのは、言うまでも有りません!

何故ポ~と言う名前にしたのか?
ポチでは有り触れているからです。